教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

"織田信長が天下人にまでのし上がれた秘密は?" (6/29 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「織田信長 常識破りの成功術」」から)

 尾張の弱小大名だった織田信長が、天下人にまでのし上がれたのには信長がとった様々な革新的な政策のおかげだった。それを分析する・・・というわけだが、実際のところは中身は今までに放送した信長絡みの回の再編集だったりする・・・。

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岐阜駅前の金の信長像

 

信長成功の秘密1「合理主義」

 信長は先例などにとらわれず合理的に行動する。朝倉攻めの際に浅井の寝返りで挟み撃ちの窮地に陥った時、今までの武士なら「最早これまで」とメンツのために正面から戦って死ぬような場面で、信長は殿を秀吉や光秀に任せて自分は全速力で京に逃げ戻っている。信長は武士のメンツ云々などという考えにとらわれずに、とにかく生き残った方が勝ちという合理主義に徹している。だから信長は負け戦が意外に多いにも関わらず、最終的には天下人にまで到達するのである。また逃げ足が速いだけでなく、逆に朝倉を滅亡させた時のように、ここが勝機と見れば自ら先頭を切って突き進む大胆な行動力もある。

信長成功の秘密2「マネーパワー」

 義昭を奉じて京に上った信長は、義昭の管領や副将軍にするという誘いを断って、堺・大津・草津に代官を置くことを要求している。これらの土地はいずれも商業や流通の要衝であり、これは信長が経済を重視していたことを示している。さらに楽市楽座で城下町の経済を活性化し、商人たちから安い税を取り立てることで商人を集めて城下を経済的に豊かにすることで自らも経済力をつけた。

信長成功の秘密3「交通インフラの整備」

 当時の大名は国防のために道を通りにくくしているのに反して、広い街道を整備して流通を促進させている。さらには米原のところの磨針峠を開削してバイパスを作ることまで行ったという。このような街道整備は流通を促進し、商業を発展させる。こうして上がった税収によって信長は強大な経済力を手にすることが出来た。

信長成功の秘密4「鉄砲の大量導入」

 当時の鉄砲は1丁50万円相当と高価であった上に、連射が効かない(熟練者でも次弾発射までに30秒ぐらいはかかる)という致命的弱点があるために使い勝手の悪い武器であった。しかし信長はその経済力に物を言わせて3000丁というとんでもない数の鉄砲を揃えた上に、3人1組で射撃する(3段撃ちをしたのか、1人の撃ち手の後で2人が弾込めをしたのかは諸説あるが)方法で連続的な射撃を行い、さらには馬防柵を効果的に活用するなどして武田の騎馬軍団を壊滅させた。これは時代を変える斬新な戦法だった。なお信長は6.3メートルもの長槍を導入したというのもよく知られている(尾張の兵は越後の兵などよりも弱兵なので、遠距離から攻撃できることを重視したのだろう)。

 

信長成功の秘密5「人事革命」

 それまでの武士は戦場でいかに勇敢に戦い多くの首を挙げたかが評価されていた。しかし信長は戦に強い部下だけでなく、秀吉のように交渉の上手い部下を取り立てたり、情報収集に長けた者を一番手柄にしたりなど、今までと違う評価基準を導入した。また秀吉が出世したように家臣の出自にはとらわれない実力主義で、信長の家臣の中には弥助という黒人までいたことが知られている。なお信長は情報収集のために宣教師たちとも交流していたが、地球儀を献上された時にも大地が丸いと言うことに特に驚かず「理に適っている」と納得したという。

信長成功の秘密6「恩賞革命」

 信長は茶の湯にかなり力を入れており、自ら名器と呼ばれる茶器を買い集める名物狩りまで行っている。しかし信長は単に趣味として茶の湯を嗜んでいただけでなく、これを人事政策にも取り入れている。自ら茶の湯の格を上げ、家臣が茶会を開くには信長の許可が必要なようにした。また手柄を挙げた家臣には恩賞として土地ではなく茶器を与えた。信長に茶器を与えられて茶会を開く許可をもらえた家臣は、自分の働きが認められたと喜んだ。土地を家臣に与えていると家臣が力をつけすぎる恐れがあった上に、段々と恩賞に与える土地がなくなくっていくという問題を、信長はこれで解決していたのである。

信長成功の秘密7「居城戦略」

 信長はその生涯において居城を4回も変えている。最初は那古野城から始まり、清洲城、小牧山城、岐阜城、安土城と移って行っている。これは当時としては異例のことで、当時の大名は居城は生涯にわたって変えていない例が多い。信長が居城を変えるのは、新たな支配地域を治めたり次の戦略目標に対して好都合な場所であり、非常に合理的な考え方をしている。また信長の最後の居城である安土城はそれまでの常識を越えた贅を尽くした巨城であり、これは信長の権威を広く日本中に知らしめることに名もなった。ちなみに信長はこの安土城で盂蘭盆の際にライトアップというデモンストレーションまで行っている。

 

 以上、信長が天下を平定できた理由について・・・っと言うわけですが、いずれも今までに放送した内容を集めて再編集したものです。それにいずれも大体どんな番組でも言われているようなことですので、そう珍しい内容はないですね(笑)。なお最近の流行は、信長の前に三好長慶が天下人で、信長が最初だとされていた石垣の城も長慶の方が早かったとか、信長が最初と思われていた楽市楽座は実は斎藤道三が先に行っていて、信長はそれを真似たのだとか、要は信長だけがそんな突出して斬新だったわけでもないという考え方ですね。

 しかし信長は経済をかなり重視していたというのは突出しており、この辺りはそもそも尾張という商業が盛んな地域を本拠にしていたというのが大きく影響しているように思われる。例えば東北なんかだったら、どうしても商業重視という考えにはいかないし、商業を重視しようにも京のような巨大な消費地を抱えていないので、限界があるというものである。なお昔からそういう土地は基本的に兵は弱いので、尾張軍団が同一装備の同一条件で越後の軍勢なんかと戦ったら勝負にもならないだろうと思われる。だからこそ信長はそういう不利を解消するための鉄砲という装備に力を入れたのだろう。越後軍団なんかだったら、鉄砲なんか使わなくても謙信が先頭に立ったバーサーカー軍団なので、謙信の「ジハード」の一声でどんな相手でも撃破ですから。そういう意味で信長は「自軍の最弱の兵でも相手の最強の兵を倒せる戦略」というのを実践する必要があったのだろうと思われます。

 

忙しい方のための今回の要点

・信長が天下を取れた原因は商業を重視して、強大な経済力をつけたこと。そしてその経済力で大量の鉄砲を導入して、それを有効に活用したことが考えられる。
・また出自にとらわれない人材登用をし、戦場での働きだけでなく情報収集なども評価したことなども重要。
・さらに家臣に対する恩賞を土地ではなく茶器にしたのも有効だった。土地は限られている上に家臣に多くの土地を与えると家臣の力が強くなりすぎる危険があったので、意図的に茶の湯の格を高めて家臣が茶器を喜ぶように持っていたのが巧み。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・この番組、そろそろネタ切れなのか、コロナで制作が切迫しているのか分かりませんが、最近は総集編的な内容が増えてきているような気がする。そう言えばHPでネタの募集もしていたな。私は「田沼意次を是非に」と書いてきたんだが(笑)。

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