教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

"徳川の盤石な体制を作り上げるために実の息子を切り捨てた家康"(7/15 BSプレミアム 英雄たちの選択「家康の終活~徳川の天下を決めた最後の決断~」から)

豊臣家滅亡後に直ちに組織固めに入った家康

 家康が大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼしてから、家康がこの世を去るまでに12ヶ月。ここで家康は猛然と終活に入る。ただ通常の終活とは遺産の分配を決めたりするのが中心であるが、家康の終活とは徳川家の支配の体制を永続的に続けるように組織固めを行うことだった。

 秀頼が自害したことを知った家康が二条城に入ると、金地院崇伝と法制についての議論を始めたという。崇伝が成文化した法案を家康に口頭で説明すると、それに対して家康が質問を投げるとまるで禅問答のようなやりとりをしていたという。

 こうして家康は秀忠の名でまず一国一城令から公布する。これは特に西国の外様大名の力を削ぐのが目的だったという。細川家などではこれを受けて直ちに7つの城の破却を開始している。全国で400の城が破却されたという。さらに武家諸法度、禁中並公家諸法度など大名や公家に対して法令による統制を強める。武家諸法度によってこの後、多くの大名が取りつぶさされることになる。また天皇の政治関与は禁止され、朝廷の官職は将軍が自由に任命できるようなった。幕府は後にこの官位を利用して大名を序列化して統制する。さらに統制は宗教界にまで及んだ

 

将来の将軍位争いの可能性も排除する

 駿府に帰り着いた家康は鷹狩りに興じて休憩に入ったのだが、この間にさらに春日局からの「家光がこのままでは将軍になれない」という訴えを受けて、家光が跡継ぎであるということを満座の前で明らかにする。江が弟の国松を溺愛していたので、それを受けて国松に傾きかけていた秀忠も、家康が明確な姿勢を示したことでそれに従わざるを得なくなる。家康は長幼の序を明確にすることで、将軍の後継争いの内紛が起こる可能性を排除しようとしたのである。

 このように着々と徳川家の体制を整えていった家康にとって、最後の一番の気がかりが六男の忠輝のことだった。存命の家康の息子の中では秀忠に次いで年長となる忠輝は、越後高田藩75万石という大藩の領主だった。しかし何かにつけて秀忠を軽んじる姿勢があった。家康はこの忠輝を勘当する。理由は大坂夏の陣の際に行軍する自軍を追い越した秀忠の家臣を討ち取って報告をしていなかった。また戦場に到着が遅れ、陣の最後尾で高みの見物をして全く働いていなかったということである。

 しかし家康が忠輝を勘当した一番の理由は忠輝の背後に伊達政宗が存在したことだという。伊達政宗の娘である五郎八姫が忠輝に嫁いでおり、政宗は忠輝の舅であり、政宗は何かと忠輝を推していた。そもそもこの婚姻は家康が政宗を徳川に取り込むために進めたものであるのだが、今となってはそれが徒となっていた。大きな力を持ち、またヨーロッパに使節を派遣して交易を目論んでいた政宗(さらにそのために領内でのキリスト教布教を黙認していたとされる)は徳川家にとっては脅威であり、この政宗が忠輝と組んで反旗を翻せば幕府の体制が崩れるのではと家康は懸念したのである。実際に政宗が忠輝と共に幕府に反旗を翻すという噂もこの頃にはあったという。

 

徳川家安泰のための非情の選択

 ここで家康の選択であるが、1.忠輝と政宗を武力討伐する 2.両者を切り離す である。武力討伐についてはこの当時の幕府の力からは十分に可能であったが、もしそれをすれば戦のない世の中を作ろうとしていた自らの路線を自ら破壊することになってしまう。家康にとってはジレンマである。しかしこの頃の家康は既に体調を崩して寝込んでおり(胃がんであったとみられる)残される時間は少なかった。

 ゲストも磯田氏も全員2。ここで反乱の噂だけで政宗を武力討伐してしまえば、それは諸大名に不審の種を蒔いて後々の反乱につながる恐れがあるし、そもそもここまで進めてきたことをご破算にしてしまうということ。これは当然。

 で、家康の選択だが、後に政宗が語ったところでは「家康公が病気と聞いて駿府に向かおうとしていたら、秀忠公が江戸で仙台攻めの用意をしているという知らせが次々に飛びこんできた」とのことである。家康は1を選んだのか? と思うところだが、そこに家康の側室のお勝から「一刻も早く家康公と対面しないと為にならない」との文が届いたという。政宗は「行ったら殺されるのでは」と止める家臣を振り切って駿府に向かう(何やら秀吉の小田原の時とそっくりである)。病床の家康から討伐の理由として謀反の疑いを告げられ、そしてその密告をしたのが忠輝だというのである。駆けつけた政宗に対して家康は謀反の疑いを解き、毎日訪れる政宗に秀忠の後見さえ命じた。忠輝の密告の真偽は定かではないが、この後政宗は忠輝と縁を切った。というわけで1に見せかけて実際は2を行ったわけである。

 家康の没後、忠輝は将軍秀忠の命で改易されて伊勢朝熊に蟄居させられた。忠輝はその10年後に諏訪に移され、92歳で亡くなるまで寺で過ごしたという。忠輝が亡くなった時には5代将軍綱吉の時代になっていた。なお忠輝には天下人の笛と言われた乃可勢が家康から与えられて、それが今日に伝わっているという。徳川家のために忠輝を廃嫡に追い込まざるを得なかった家康にとっての、父親としてのせめてもの心だったのではとのこと。

 

 以上、最後の最後まで執念深く徳川家の体制を固めた家康の最後です。まあこの辺りは家康の執念のようなものが覗えます。家康にしたら後のことを十分に整えられなかったために天下を乗っ取られた秀吉のことが頭にあったのは間違いないでしょう。完全に体制を整えてしまわないと、後継がボンクラ秀忠では不安で仕方なかったんでしょう。

 まあこの家康の執念のおかげで、江戸幕府は十五代まで続くことになるのですから、家康の最後の仕事は成功したと言えるでしょう。もっとも磯田氏も言っていたように、とにかく国内を内向き内向きに固めることに注力したので、変化への対応力を根本的になくしてしまい、外からの変動にさらされた時に脆くも崩れ去ることになったわけですが。まあさすがに家康でも200年以上先のことなんて見通せるはずもないし、そんな先のことはもう自分の責任ではないと言いたいでしょう(笑)。どんな政体でもそんなに続けば制度疲労を起こして限界が来ると言うことです。

 

忙しい方のための今回の要点

・家康は豊臣家を滅ぼしてから12ヶ月後にこの世を去るが、その間に徳川幕府を盤石のものとするための体制を確立するべくあらゆる手を打った。
・まず、一国一城令から始まり、武家諸法度、禁中並公家諸法度などで大名や公家を統制する体制を作り上げた。
・さらには家光を正式に将軍の後継者として指名することで、今後の将軍位の継承を長幼の序に基づいて行うことを明確にし、後継争いによる内紛を防止しようと考えた。
・また政宗と結びついていて謀反の可能性さえ考えられた忠輝を勘当し、政宗を忠輝から引き離して謀反の芽を摘むようにした。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・政宗は計算できる男ですから、家康が油断していたら忠輝を立てて天下を狙うなんてことも脳裏をよぎらないでもなかったでしょうけど、この時にはいかに幕府に取りつぶしを食らわないかが一番だったでしょうね。実際に秀忠は陰険に多くの大名を取りつぶしましたから。それは秀忠に恩を売っておいた方が後々は有利ぐらいの計算はしたでしょう。
・それにしても、危ないとなればなりふり構わずに飛んでいくのは政宗らしいところ。こういうところの割り切りというか開き直りは見事なんですよね。

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