教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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"鑑真はなぜ危険を冒してまで日本に渡ろうとしたか" (7/27 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「決死の来日!名僧鑑真の生涯」」から)

 苦難の末に日本に渡って唐招提寺を開いた鑑真。なぜ鑑真はそこまでして日本に渡ってきたのか。また日本はなぜ何を求めて鑑真に来日を依頼したのか。その背景には当時の日本の仏教界の大きな問題があったという話。

 

戒律のスペシャリストの鑑真が日本に求められた理由

 揚州で見習い僧侶となり、長安に留学した鑑真は戒律についての研究を深める。そして留学の翌年に鑑真は10人の僧の立ち会いの下で作法に則って受戒する。26才で揚州に戻った鑑真は律学の講師として1000人の弟子を持つまでになる。そして40歳になる頃には授戒の大師と呼ばれ唐を代表する僧侶となる

 その頃、唐へ渡ろうとしていた若き僧侶が栄叡と普照だった。彼らは大きな使命を負っていた。その頃の日本は仏教を重んじる聖武天皇の元で仏教を中心とした国造りを目指していた。しかし当時の日本の仏教界は乱れに乱れていた。と言うのは税を逃れるために勝手に出家する者が増えており、仏典をまともに勉強していない低レベルの僧が溢れていた。また経典はあっても戒律を正しく伝えられる者がいなかったことから、戒律を授けることの出来る高僧を唐から招くことが求められていたのである。聖武天皇はその使命を興福寺に託し、二人の僧が選ばれて唐に派遣されることとなったのである。

 733年4月、二人は遣唐使船で留学僧として唐に渡った。そして唐で仏教を学びながら日本に来てくれる高僧を探すのだが、誰もそれを引き受けなかった。と言うのも、当時の日本への渡航はまさに命がけだったからである。9年かかっても日本に渡ってくれる高僧を見つけることが出来なかった二人は揚州にやって来る。授戒の大師・鑑真の噂を聞きつけたからである。鑑真は二人の依頼の重要性を理解し、弟子達に日本に渡る者がいないかを聞く。しかし弟子達は尻込みして誰も名乗り出ない。そこで鑑真は自らが日本に渡ることを決意する。さすがにこの意志を受けて思託を始めとする数人の弟子が同行を決意する。こうして鑑真は21人の弟子を連れて栄叡、普照と共に海を渡ることにする。

 

鑑真が日本に渡ろうとした理由

 なぜ鑑真は危険を冒してまで日本に渡ることを決意したか。これには様々な説があるようだ。まず聖徳太子が古代中国の高僧・慧思の生まれ変わりだと聞いていた鑑真が、その日本で仏教を広めるのは自分の使命だと考えたという説。さらに鑑真は日本の様子を探るために派遣されたスパイだという説もあるが、そもそもいくら日本の情報を集めたところでそれを唐に送る手段がないとスパイとして成立しないのでこれは荒唐無稽(そもそも大国である唐が未開の島国である日本の事情をスパイする必要性が全くない)。また亡命説というのもあるらしく、これは755年に起こる安史の乱を予見した鑑真が日本に亡命したということらしいが、乱が起こるのは13年先なので、さすがの鑑真もそんなものは予想できなかったろうとのこと(そりゃそうだ)。ただし当時の唐では道教が仏教よりも勢力が拡大してきていたので、日本で仏教を盛んにするために亡命したという説はあり得るだろうとのこと。さらに唐招提寺に鑑真の来日を決意させたとされる袈裟が伝わっているという。これは長屋王が唐に千領の袈裟を送ったもので、そこには「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁(山や川は異なるが同じ天を仰いでいる仏教徒として縁を結びましょう)」と記されていたという。鑑真もその袈裟を受け取っており、そのことを思い出したのではとのこと。

 

度重なる妨害と不運で渡航に失敗する

 しかし当時の唐では許可なく国境を越えることは禁じられていた。そこで鑑真は密出国をすることにするのだが、743年4月の第1回目の渡航計画は船に乗る前に頓挫した。鑑真の弟子の一人が栄叡と普照が倭寇の一味であると嘘の密航をして彼らが捕らえられたのである(鑑真の日本行きを阻止しようとしたのだろう)。彼らの無実が証明されて解放されたのは4ヶ月後。そして鑑真はその年の内に日本に渡ろうと鑑真の出した銅銭80貫で新たに船を調達して12月に出航する。しかしこの船は嵐に遭って遭難、何とか近くの島にたどり着いて5日後に救助される。さらに翌年3回目の計画を立てるが、栄叡がまた捕まってしまう。鑑真の日本行きを阻止したい者による密告だった。しかし彼を都に護送する役人が密かに彼を逃がしてくれたようだ。そして4回目の渡航は役人の目を逃れるために揚州からでなく福州から出航しようとするのだが、そこに行く途中でまたも弟子の密告で一行が捕らえられてしまう(弟子達はよほど強硬に反対していたのだろう)。

 渡航の準備の度に莫大な費用がかかったはずだが、これらは鑑真が授戒を行った謝礼で賄われたという。鑑真は費用捻出のために四万人あまりに戒律を授けているとのこと。鑑真もかなりの執念である。

 そして749年に62歳になった鑑真は5回目の渡航を試みる。しかしこの航海は嵐に遭って難破。飲み水もなくなった中で14日漂流した挙げ句に海南島に流れ着く。一行はここで1年間とどまってから揚州に戻ることにするが、旅の途中で栄叡が病に倒れ、この世を去る。さらには相棒を失って気落ちしたのか、普照は「これ以上迷惑をかけるわけにもいかない」と鑑真の元を去る。喪失感に襲われた鑑真はさらに両目の失明という不幸に見舞われる。そして3年の月日が流れる。

 

ようやく遣唐使と共に日本に渡航するが

 そんな時に一筋の光明が差す。20年ぶりの遣唐使船が訪れたのである。普照はただちに大使の藤原清河の元を訪れて帰りの船で鑑真を日本に連れて行ってもらうように依頼する。鑑真66歳でようやく日本に渡れる・・・と思ったのだが玄宗皇帝の許可が下りない。外交問題に発展するのを恐れた清河は鑑真一行を自らが乗り込んだ一番船から降ろすことにする。しかし一行に副使である大伴古麻呂が救いの手を差し伸べ、一行は二番船にさらに駆けつけた普照は三番線に乗船する。結局はこれが運命のいたずらで、一番船だけが唐に流れ着いてしまって、鑑真達は無事に日本にたどり着く

 日本ではようやく授戒の出来る高僧の到着で、諸手を挙げて大歓迎・・・とならなかった。鑑真が厳格な授戒の基準を設けたことで、今まで適当に僧になっていた連中が「俺たちの立場はどうなるんだ」と騒ぎ出したのである。今まで誰でも医師を名乗っていたのが、突然に国家試験が導入されたみたいなものである。鑑真自らが興福寺で戒律に対する説明会を行ったのだが、それでも不満の声は収まらない。しかしこれに対して普照が激怒した「誰もが安易に僧になれたゆえに我が国の仏の道は乱れたのだ! 鑑真和上が伝える正しいやり方で授戒して初めて真の僧侶となれる。そうでなければ僧と呼べない。」。思託が伝えるところによると、皆は普照に対して敵のように怒ったらしいが、ここで普照が頑張ったおかげで正しい戒律が日本に伝わったのだという。

 

日本の仏教のために命を捧げた生涯

 鑑真はさらに東大寺に「華厳経」「大般涅槃経」「大集経」「大品経」を貸し出してくれるように依頼する。これらの経典は実はすべて鑑真が持参していたのだが、わざわざ取り寄せたのは、これらの基本的な経典が正しく伝わっているかを確認するためだったという。これらの経典を完全に暗記している鑑真は、弟子に読ませて自身の記憶から修正を加えたという。

 756年に朝廷から仏教の指導者である大僧都に任命された鑑真は東大寺の戒壇院で授戒の儀式を続ける。2年後に71歳という高齢を理由に大僧都の任を解かれた鑑真は、平城京に与えられた土地に唐招提寺を建立し、ここで戒律を教えた。そして日本に来て10年が過ぎたある夜、弟子の一人が講堂の梁が折れるという不吉な夢(高僧が死ぬという暗示だそうな)を見たことから、鑑真の最後を悟った弟子達が慌てて鑑真の姿を残そうとして彫った木像が現在伝わる国宝の鑑真和上坐像だという。その2ヶ月後、鑑真は座禅を組んだまま静かに亡くなったという。

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国宝・鑑真和上坐像

 執念の人・鑑真の生涯でした。かなり強い使命感に駆り立てられての行動であったようだが、正直なところ日本の僧の中には鑑真のことを鬱陶しく感じていた連中が少なくなかったようである。71歳で「高齢を理由に」大僧都の任を解かれたとあったが、実はその裏にはそういうことも影響していたと聞いている。まあそれまで甘々の環境で温々とやって来た連中にすれば、いきなり厳格なお偉い人がやってきて、今までのやり方を厳しいやり方に変えていったら鬱陶しくもあろう。ショムニにいきなりエリートのやり手課長が赴任してきたみたいなものである。

 

忙しい方のための今回の要点

・鑑真は戒律を学んで授戒の大師と呼ばれるような唐を代表する僧となる。
・その頃の日本の仏教界は乱れに乱れていて、授戒をまともに出来る者がいなかったため、授戒を出来る高僧を連れてくるために栄叡と普照が唐に送られる。
・彼らは多くの僧に日本に来るように頼んだが、わざわざ危険を冒して日本に渡ることに同意する高僧はいなかった。そして9年が経ち、彼らは鑑真の元を訪れる。
・彼らの願いを聞いた鑑真は、弟子達の中に日本に渡ることを名乗り出る者がいなかったことから、自らが日本に渡ることを決意する。
・しかし鑑真の渡航は国の許可が出なかった上に、日本行きに反対する弟子の密告などで5回も失敗(2回は出航したものの嵐で漂流)、そして栄叡も亡くなり、これ以上迷惑をかけられないと考えた普照も鑑真の元を去り、残された鑑真も両目の視力を失ってしまう。
・だがその3年後、日本から20年ぶりの遣唐使が訪れ、普照は早速大使の藤原清河に帰りの船で鑑真を日本まで送り届けるように依頼する。
・しかし玄宗皇帝から許可が出なかったため、外交問題化することを懸念した藤原清河は一番船から一行を下船させる。しかし副使の大伴古麻呂が一行を二番船に乗船させる。結局一番船だけが日本にたどり着けずに唐に戻ってしまったので、結果として船を変えたことが幸いして鑑真一行は日本にたどり着く。
・鑑真は早速日本で授戒の儀式を行い、その正式な型式を定める。しかしそれに対しては国内の僧から自分達の立場が危うくなるとの不満が噴出する。だがそれを普照が一喝して押さえ込む。
・大僧都になった鑑真は、2年後にその職を解かれても唐招提寺を建立してそこで授戒を続けた。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・私は鑑真が5回に渡って渡航に失敗したというのは知ってましたが、その度に漂流したのかと思ってました。結局は漂流したのは2回で、後の3回は事前に妨害されたんですね。
・まあ弟子が反対するのは分からないではないです。純粋に師匠のみを案じてと言うのがあるでしょうし、師匠がいなくなった後の自分達の後ろ盾を心配したなんてのもあるだろうし。
・鑑真は宗教的情熱に駆られて危険を冒して日本にたどり着いたのですが、これと同じことを後にキリスト教の宣教師もしてるんですよね。つまりは宗教的情熱というのは一番人間に無茶をさせるということ。
・だからこれを悪用したら、容易に人間を狂戦士に出来るんですよね。ジハードってやつです。だから宗教は権力と結びついたらいけない。

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