教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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"信長軍と謙信が真っ向から対決したその結果は" (8/3 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「信長と謙信 どちらが強かった?」」から)

 戦国に覇を唱えるべく台頭してきた織田信長だが、その信長が唯一恐れたともいわれている武将が上杉謙信である。毘沙門天の化身と名乗り、実際に合戦においては神かがった強さを見ていた上杉謙信。信長と謙信、実際はどちらが強かったのか。

 

謙信をかなり意識して警戒していた信長

 信長は最初から謙信には気を使っていた。徹底的にへりくだった態度を示していたという。小和田氏によると、やはり信長は謙信を恐れていたが、それだけでなく信玄の後方を牽制してもらうという計算もあったという。その一方で信長は信玄に対しても贈り物などを届けていたというしたたかさである。

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信長はかなり謙信を意識していた

 そんな時に将軍・足利義輝殺害事件が起こる。逃亡した義昭は謙信に助力を頼むが、謙信は北条や武田と対立しており西に向かうことが出来なかった。そこで義昭を支援して上洛したのが信長である。しかしこの時も信長は謙信に対して「自分は義昭の供をしただけで、天下のことについては謙信にお願いする」という謙信に対して配慮した書状を送っているという。

 ここで信長と謙信の戦闘結果を集計すると、信長は勝ちと引き分けを足した負けなかった率が78%なのに対して、謙信は94%とまさに軍神と言うべき驚異的な数値を叩きだしている。謙信のこの強さの秘密は小和田氏によると謙信の統率力に加えて兵が地元の兵で忠誠心が強かったとしている。これに対して信長は戦いの人と言うよりも、外交に長けた人だったとのこと。

 

屏風で謙信の歓心を買う

 しかしやがて信長は義昭と対立、義昭は信長包囲網を働きかける。この中で信長にとっての難敵は宗教勢力だった。比叡山を焼き討ちしたものの、石山本願寺での戦いは大苦戦となる。しかも武田信玄が上洛を開始する。ここで信長は信玄と対抗するべく謙信と同盟を結ぶ。しかし信玄はかまわず西に向かい、三方原では家康と信長の連合軍は大惨敗する。

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信玄が動いて信長は危機に

 絶体絶命の窮地に陥った信長だが、信玄が病に倒れたことで危地を脱する。しかしここで持ち上がるもう一つの危険が謙信の上洛だった。そこで信長は謙信に贈ったのが洛中洛外図屏風だという。狩野永徳の描いた名品であり、この絵を贈られた謙信は「いよいよ信長の深情を感じ給ふ」と喜んだという。謙信がここまで喜んだのは、そもそも洛中洛外図は足利義輝が謙信に贈るために描かせたものだったからだとのこと。ここには謙信が上洛する姿が描かれているという。これが功を奏したかは不明だが、謙信は信長包囲網に加わらず動くことはなかった。

 

ついに謙信が動く

 この後、信長は直ちに動き、足利義輝を追放し畿内一円の支配を固めると加賀にまで迫る。そんな時に、突然謙信が同盟を破棄して上洛を目指して動き始めたという報が伝わる。この時に謙信が動いた大きな理由は石山本願寺が謙信に和解を申し出てきたことで、一向宗が治める加賀を安全に通過できることになったからだという。そこで謙信は上洛前に去就が明らかでない能登の畠山氏を攻めることにする。

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とうとう謙信が動く

 この時の畠山氏の当主は幼少で実権は重臣が持っていた。しかし重臣の長綱連と遊佐続光の意見が対立していた。長綱連は信長に援軍を求めることを主張し、遊佐続光は謙信に降ることを主張する。そして長綱連は密かに信長に使者を送る。その使者からの報告を受けて、信長は謙信と雌雄を決することを決断、柴田勝家を総大将に5万の大軍を送り出す。

 この時の信長軍は大将柴田勝家に、丹羽長秀、前田利家、羽柴秀吉、滝川一益といった織田武将オールスターキャストであった。さらには伊達輝宗に使者を送り、越後の本庄繁長にも働きかけて謙信の背後を脅かすなど万全の構えで謙信に挑むことにする。しかし直後にこのオールスターキャストが災いする。柴田勝家と羽柴秀吉の意見が対立し、秀吉が無断で引き揚げてしまうという事態が発生する。しかも加賀に入った途端に七尾城からの使者が来なくなり、勝家は畠山氏の状況が全く分からなくなってしまうのである。これは実は謙信に味方する一向宗による情報封鎖もあったという。

 実はこの時、七尾城内では遊佐続光が対立する長氏一族を殺害するという大事件が発生していた。そして七尾城は開城する。柴田勝家はそんなことはつゆとも知らず、手取川を越えて松任城に到着するが、事態を全く把握できない状況であった。しかしこの時、謙信は既に能登南端の末森城を落としてそこに迫っていたのである。この時に謙信は将兵達に「一人も生きて返さない」と宣言し、来年春には上洛することを高らかに告げたという。

 

手取川で上杉軍に織田軍が大敗する

 一方、上杉軍のことが全く分からない勝家は退却を決意する。夜、五万の織田軍が退却するが、手取川にさしかかったところで上杉軍の奇襲を受ける。大混乱した織田軍は増水した手取川に阻まれる。この時とばかりに猛攻をかける上杉軍の前で、討ち取られた者が千人余り、川に流されて溺死した兵は数え切れないほどという大惨敗を喫する。戦略及び情報戦の全てにおいて謙信が遥かに上回っていたのである。しかし間もなく冬であったことから謙信はここで引き返す。そして来年の春には楽勝で上洛と考えていたようだが、その半年後に謙信は突然に倒れて49才で亡くなる。やはり信長はかなり強運だったと言うことである。

 

 ちなみにもし謙信と信長が真っ正面から戦えばであるが、小和田氏は純粋に合戦では謙信の方が強かったろうとしている。これは私も同感。信長軍の最大武器と言えば武田軍を壊滅させた鉄砲隊であるが、謙信はまさか馬防柵に正面から突撃するようなことは絶対にしないだろうと断言できる。巧みに織田軍の鉄砲隊を無効化しつつ、自ら先頭に立って突撃を駆けてくるはずである。神がかりを先頭にして「ジハード」を唱えながら突撃してくる狂戦士軍団なんて、さすがの信長でも止めようがないだろう。それに乱戦になってしまえば尾張の兵は弱いことは既に明らかとなっている。

 もっとも信長のしぶとさはかなりであるから、形勢不利とみればさっさと逃亡するだろう。戦で散るは武士の本懐なんて感覚は信長には微塵もないから、それこそどこかに潜んででも再起の機を覗うはずである。場合によっては一時的に謙信に降ることさえあり得るだろう。信長がなりふり構わず謙信に媚びまくれば、謙信も信長の命までは取らない可能性がある。で、本能寺で宿泊する謙信を信長が「敵は本能寺にあり!」という逆本能寺・・・なんて妄想はいくらでも膨らむところである。

 

忙しい方のための今回の要点

・信長は当初より謙信を警戒して、かなりへりくだった書面を送ったりしている。
・信長の考えは、東で謙信と信玄と北条が互いに争っていたら東の脅威が減少するというものだった。
・信長が義昭を奉じて上洛した時も、謙信にかなり気を使った書状を送って、謙信の警戒を解こうとしている。
・しかし信長と義昭が対立、反信長包囲網が形成されて武田信玄が上洛を開始する。この時に信長は謙信と同盟を結ぶ。
・信長と家康の連合軍は三方原で信玄に惨敗するが、信玄が病に倒れて武田軍が引き返したことで信長は窮地を脱する。しかし謙信の上洛を封じるために、ここで信長は洛中洛外図屏風を謙信に贈る。謙信が上洛する姿を描いた屏風に謙信は喜び、この時に上杉軍は動かないで終わる。
・しかし、石山本願寺が謙信と和睦したことでついに謙信が上洛を開始、まずは能登の畠山氏の七尾城を攻める。これに対して信長は謙信と雌雄を決するべく、柴田勝家を総大将に5万の大軍を七尾城の援軍として送る。しかし秀吉と勝家が対立して秀吉が離反したり、救援に向かった七尾城が早々と落ちてしまったりなどの信長軍の想定外の事態が起こっていた。
・手取川を渡って松任城に入った勝頼であるが、能登の状況が全く分からない中で撤退を決意する。しかし手取川の手前で背後に迫っていた上杉軍の奇襲を受け、大惨敗を喫する。
・危機に陥った信長であるが、一旦越後に引き返した謙信が、その半年後に急死したことでまたも窮地を脱する。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・成功する人物は運が味方をするというが、確かに信長は信玄の時も謙信の時も明らかに運に助けられている。
・ただそのラッキーマンも、自分の最後は予測できていなかったようである。
・織田軍の強さというのは、兵の強さではなく、信長が戦いの前に確実に勝てるように策略を巡らし、さらには圧倒的な経済力で装備を充実させていたというのが一番の要因です。ですからいきなり乱戦に持ち込まれてしまえば、越後や甲斐の兵の前ではひとたまりもなかったはず。
・何せ、兵隊は北国の方が強いというのは第二次大戦の時もそうでしたから。精鋭は雪国の兵隊ばかり。一方都会の兵隊は滅法弱かったとか。

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