教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

"琉球王国の苦難の歴史と首里城の存在" (8/26 NHK 歴史秘話ヒストリア「あざやかなり首里城」から)

 昨年、まさかの火災で全焼してしまい、日本中を落胆させた首里城。この首里城は琉球王国の中心であり、沖縄の歴史また誇りそのものでもあった。そのような首里城の歴史について紹介。

 

琉球王国の成立と共にその象徴となった首里城

 首里城が最初に築かれたのは600年ほど昔。足利尊氏が室町幕府を開いてしばらく経った頃だという。1429年にそれまでの三山と言われた三つの勢力を尚氏が統一して琉球王国が成立、首里城が王の居城となる。それから450年間首里城は琉球王国の象徴として存在することになる。

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首里城正殿(2012年撮影)

 番組では焼失前の首里城の姿を紹介しているが、朱塗りの非常に鮮やかな宮殿で、美しい装飾が施されている。

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煌びやかな装飾が施されている

 しかし首里城の特徴はそれだけではない。番組はまず多角形の石垣を紹介しているが、例の城郭考古学の千田氏によると、首里城は江戸城に相当する城で、多数の枡形を備えた非常に堅固な城であるという。首里城は江戸城よりも200年早くこれだけの高度な城を築いたことになる。

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多角形の石垣

 琉球がこのような高度な城を築いたのは、日本よりも戦乱期が早く始まったことが影響しているという。12世紀頃から各地の豪族が城(グスク)を築いて争った。12世紀前半になると山北・中山・山南の3つの勢力が存在する状態になる。この頃に中国では明が興隆し、三国はそれぞれ明と興隆することになる。当時の明では巨大城壁が築かれており、これが沖縄の城に影響を与えたという。当時のアジア最先端の石垣の技術が沖縄に伝わったのである。

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このような直線的な高石垣は中国様式

 

貿易立国琉球

 その後、琉球王国が成立するが、琉球王国は万国津梁(国々の架け橋となる)を唱える貿易立国を目指す。特に明との交易が重要だったという。明は当時は一種の鎖国を行っていたので、琉球は明の商品とアジアの商品の中継貿易の地となった。日本から東南アジアまでその交易の範囲は広がっていたという。この頃、日本の南九州地区も琉球と強い結びつきがあったという。当時の島津氏の文書などには琉球国王を奉る記述があるという。

 なお三山の時代の前のグスク時代は唐突に始まっているらしいが、その経緯はこの時代に喜界島から夜光貝を求めて大量に移民があったことが切っ掛けになっているというのが近年の研究の結果とのこと。

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山上に築かれた堅固な勝連城

 

苦難の歴史の中で文化によって独立を保とうとするが

 また琉球は琉球舞踊などに見られる独自の文化を有しているが、それは琉球の存続にも関わってきたという。16世紀初頭、琉球と親密な関係を築いてきたマラッカ王国がポルトガルの攻撃で滅亡、琉球の東南アジアとの交易は衰退することになる。その後、日本では徳川家康が天下を統一し、その意を受けて1609年に薩摩の島津氏が琉球に攻め入ってくる。琉球は抵抗するものの戦慣れしている日本とは勝負にならず1月ほどで制圧されてしまう。そして首里城は薩摩の手に落ちる。そして琉球は薩摩に臣従を誓わされることになる。しかし薩摩に併合されないために琉球の独自文化を主張したのだという。琉球は文化の力をアピールし、そのことによって琉球の独立を印象づけることになる。ただしこの日本との接近は明の反発を呼ぶことになる。そこで明に対してはまた組踊りという新しい芸能を披露するなどをして日中の間を渡り歩いたのだという。

 しかし琉球に過酷な歴史が押し寄せる。日本で明治維新が起こると、1879年に新政府は強引に琉球王国を廃して琉球を沖縄県として日本に併合する。明治政府は首里城に軍隊を派遣、武力行使も辞さない姿勢を示す。これに対して琉球国王尚泰は悩んだものの、血が流れることを恐れて首里城を明け渡す。こうして琉球王国は滅亡する。

 その後の首里城は荒れ果て、ついには沖縄神社の社殿にされてしまう。そして太平洋戦争では首里城の地下には日本軍の地下壕が掘られて司令部が置かれる。その結果として米軍の猛攻撃を受け、首里城は完全に破壊される。

 

沖縄の本土復帰で首里城復元プロジェクトが始動する

 1972年、ようやく沖縄の本土復帰が果たされた頃、沖縄では首里城復元の気運が盛り上がり始める。で、首里城復元プロジェクトが始まるのだが、ここから番組は2002年2月5日に放送されたプロジェクトXの要約に入る。以前から度々プロジェクトXを匂わせる内容の時があったが、とうとう本当にプロジェクトXが登場してしまった。

 と言うわけで、私の方もNifty時代の「教養ドキュメントファンクラブ」に掲載した記事の中にこの回の内容があったので以下に丸ごと引用することにする。

 

2/5 プロジェクトX「炎を見ろ赤き城の伝説~首里城・執念の親子瓦~」

 今回のテーマは、沖縄の首里城の復元。伝説の赤の復活に賭ける古文書の鬼、赤瓦に命を賭ける執念の瓦職人親子といった調子で、初っ端から親父族の琴線に訴えるキーワードの連発である。大体、サブタイトルからしてキーワードが二つも入っている。

 沖縄の誇りだった首里城。しかし昭和20年の沖縄戦の際の米軍の攻撃により、城は完全に焼失してしまう。

 翌年、一人の復員兵が帰ってくる。瓦職人・奥原崇実、彼はかつて父や兄と共に首里城の赤瓦の葺き替えに携わった男だった。彼はいつの日か再び首里城の赤瓦を焼くことを誓いながら、兄と自分の子供11人を養うためにひたすら瓦を焼き続ける。

 20年後、51才になった奥原は、昼夜を徹して毎日子供達のために瓦を焼き続けていた。彼が瓦焼きのの技を仕込んだのが三男の崇典。しかし崇典は絵描きになりたいと考え、そのことを父に打ち明ける。父は「お前の行きたい道を行け」と告げ、崇典は日本画家になる。

 また泣かせる父と子の物語の始まりである。いかにも職人の親父が胸を打つ。そしてこの父と子の物語が、今回のメインストーリーである。

 沖縄が本土に復帰した翌年、沖縄の文化財復元の責任者・源武雄が首里城の復元を呼びかける。その訴えに沖縄の老人達が立ち上がる。6000人を越える賛同者が集まり大きなうねりとなり、ついに国の予算もつく。奥原も「俺が首里城の赤瓦を焼く」と立ち上がる。しかし間もなく、彼は心臓発作で仕事場で倒れる。彼は一命を取り留めたものの、もう二度と瓦を焼くだけの体力はなかった。

 ここで「信じられないこと」が起こってしまう。あまりにもドラマチックな展開と言うべきか。ただこれが次の展開につながるのだが、ここまでの構成を見ていると、どういう展開になるのかは大体の予想はつくところである。なんせこの番組は「ドラマよりもドラマチック」であるから。

 昭和60年、首里城後の発掘が行われる。しかし首里城の復元は困難を極めた。あまりにも残された資料が少なすぎた。この困難な作業を委ねられたのが、古文書の鬼と呼ばれた高良倉吉だった。かつて沖縄の国費留学生として本土に留学した彼は、ろくに寝ずに猛勉強を続けた努力家だった。彼は片っ端から資料を調べ始め、やがて文化庁に首里城の修理の時の記録が残っていることを見つける。これで柱のサイズなどの建物の構造が明らかになる。しかし石垣などの高さが分からない。かつて首里城内の国民学校で教師をしていた真栄平房敬に声がかかる。彼は自分の記憶を頼りに石垣の寸法を明らかにする。

 ここでこの番組の定番「鬼」の登場である。それにしても彼の猛勉強ぶりについては「通学の電車の中でしか寝なかった」とか「一日に一冊、古文書や歴史書を読んだ」とか「風呂は週に一回だった」とか、いかにも親父族の胸を打ちそうなエピソードの連発である(最後のエピソードについては、ただ単に不潔だっただけのようにも思えるが)。

 しかしまだ問題が残っていた。首里城の色彩を示す資料が何も残っていなかった。高良のさらなる調査によって、18世紀の改修記録に行き当たる。そこには朱塗り、赤土塗りなどの情報が記載されていた。高良達はアジアに飛んで、紫禁城などを調査、首里城はいかなる赤を使用していたかの情報を収集する。

 赤を求めて三千里、彼らは色見本まで持ってアジア中を飛び回ったらしい(色見本といえば、コシヒカリのエピソードの時も登場しましたな)。各地で彼らは膨大な写真を撮りまくったようだが、一つだけ気になったのは、カラー写真にしてしまうと色調は変化してしまうのではないかということ。だから彼らの写真は、色調の調査よりも、むしろ装飾などの調査に使われたのではという気がするのだが。

 さらにもうひとつの問題があった。それは首里城の赤瓦だった。しかし沖縄中の瓦業者が「とても出来ない」と断る。そんな中、ただ一人手を挙げたのは、奥原の三男・崇典だった。父に瓦焼きの技術を仕込まれた彼は、自分には出来ると考え、父の望みをかなえたいと思っていた。しかし崇典の話を聞いた父・崇実は言う「首里城の赤瓦は生やさしいものではない、止めろ」。

 しかし崇典は退かなかった。彼は一億円を投じて瓦工場を新築する。高貴な赤瓦を思い浮かべて彼は仕事に挑む。しかし三日後、窯の中からは出てきたのは、無惨にただれた黒い固まりだった。赤瓦を焼くには実に微妙な条件が必要だった。彼は失敗を重ね、そのたびに5000枚・50万円が無駄になった。

 当初の予想通り、赤瓦の仕事は三男の崇典が引き受けることになります。極めてお約束の展開というべきか(笑)。それにしても、彼は絵の方は一体どうなったんだろう? 

 高良達は首里城の赤に迫っていた。柱の朱や、壁のベンガラが定まっていく。ただ窓の格子の赤土だけがどうしても分からなかった。古文書に没頭する高良、ある日とうとう、久米島から赤土を献上したという資料を見つける。高良は久米島に飛ぶ。そしてやっと顔料に使える赤土を見つけだす。

 赤土を顔料にしていたというのは驚きである。顔料に出来るほどの土などは私も見たことがない。ところで久米島の名前に聞き覚えがあると思ったが、以前のウリミバエの回に出てきた、ウリミバエに占拠された島である。島の陶芸家が出てきたが、彼もミバエと戦いながら陶芸をしていたのだろうか?(笑)

 その頃、崇典の失敗は4万枚を越えていた。崇典は王達の墓に「瓦を焼く力を与えてくれ」と祈る。再び仕事場に向かう崇典、その時、仕事場に父の崇実が現れる「慌てるな、炎をよく見るんだ」崇実は崇典の後ろにどっかりと腰を下ろす。「父が自分を見ている」崇典の心が落ち着いた。彼は窯の炎を見つめる。

 翌朝、彼は祈りながら窯を開ける。そこには気品溢れる赤瓦があった。最高の赤瓦だった。父は大きく頷くと3年ぶりに仕事場に向かい、飾り瓦の製作を始める。

 そして瓦を葺く日、父は息子に言う「屋根に登るぞ」。5万5千枚の赤瓦が屋根を埋める。首里城が47年ぶりに姿を現した。人々の執念が結実した瞬間だった。

 「友情・努力・勝利」といったまるでどこかの雑誌のキャッチフレーズのような展開である。しかし心臓病で倒れた親父がここで登場するというのは驚き、しかもこの親父、とうとう屋根にまで登ったというのだから奇跡である。なお彼はその一ヶ月後に死去したというのだから、執念だけで生きていたというように思える。人間は精神力だけでも結構もたすことが可能なのかと感心した。

 ところでやはり気になったのは崇典の本職、彼は沖縄一の瓦職人になったということだが、絵の方はどうなったんだろう(笑)。ただ申し訳ないが、彼が父の魂を描いたという絵は、私の目には極めて平凡なものに見えた。やっぱり沖縄一の瓦職人の方が手堅いのではないだろうか。この番組に登場したときの肩書きも「瓦職人」だったし。

 

 以上過去記事引用

 

 と、このような一大熱血プロジェクトで再建された首里城なのだが、これがこの度の火災で完全消失してしまったのである。沖縄県人の落胆や想像に難くないのだが、それでも彼らは再び首里城の再建に挑むべく、予算を集めると共に技術などの蓄積も行っているようである。果たして前回の修復に参加した職人の内のどれだけが健在であるかは不明であるが、また新たな名人が登場してでも必死で再建を果たすことであろう。日本政府も当然のことながら、復元については全面的に協力すべきである。

 

忙しい方のための今回の要点

・首里城は1429年に琉球王国が成立して以降、琉球王の居城として存在した。
・首里城を築いた高度な石垣の技術などは明の影響が大きい。
・琉球王国は万国津梁をスローガンに貿易立国を目指しており、その交易範囲は日本から中国、東南アジアにまで及んだ。
・しかし16世紀初頭に親密な関係を築いていたマラッカ王国がポルトガルの攻撃で滅亡したことにより東南アジアとの交易が低調になり、さらには島津の武力侵略を受けて服従させられることになる。
・そんな中で琉球は独自の文化をアピールすることで辛うじて独立を保ってきた。
・しかし明治維新後、新政府によって一方的に琉球は日本に併合されることになり、ここに琉球王国は滅亡する。首里城は荒れ果て、さらには第二次大戦では地下壕が掘られて司令部が置かれたことで米軍の猛攻を受け、首里城は完全に破壊される。
・沖縄の本土復帰後、首里城再建の気運が盛り上がり、ついには一大プロジェクトで首里城再建が果たさせる。
・しかしその首里城が昨年、火災によって全焼する。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・私が首里城を訪問したのは2012年ですが、とにかく首里城は中国の影響が強い城郭だと感じ、やはり琉球は独立国だったんだなと認識しました。その一方で宮殿には薩摩風の部分を取り入れるなど、やはり薩摩にかなり配慮していたのも覗えました。

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首里城にある日本風の庭園

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そして日本風の座敷

・なお沖縄の歴史博物館に行けば、薩摩による侵略は第二次大戦での沖縄決戦に並んで琉球苦難の歴史の筆頭であり、本土では人気の島津四兄弟なんかも、沖縄では鬼・悪魔・畜生扱いです。確かにその後の薩摩のひどい搾取を考えればそれも当然のこと。そう言えば沖縄では芋は紅芋か唐芋でサツマイモというのは絶対に出てきません。

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