幕府と対立して攘夷の象徴となった孝明天皇
今回の主役は江戸時代最後の天皇となった孝明天皇。彼の行動が幕府の運命にも大きな影響を与えたという。この孝明天皇に注目。
孝明天皇は16歳で即位したのだが、彼が天皇になった時代の日本は激動の時代となっていた。ペリー来航によって日本が開国を迫られるという事態が発生、この時に孝明天皇は前代未聞の行動をとる。関白を通して「幕府は海防を強化しろ」という勅書を出す。幕府に対して天皇が口を出すというのは前代未聞であったという。天皇や公家は幕府からの支援を受けていたので、形の上はともかく、天皇が自ら幕府の政策に口を出すことはなかったのだという。しかし孝明天皇は諸外国の介入に対して非常に警戒していたのだという。
ただし和親条約の段階では孝明天皇は反対はしなかった。しかしハリスが修好通商条約を求めてくるに当たって状況が変わってくる。アヘン戦争による清の惨状を知っていた幕府はアメリカとの戦いは避けるべく条約締結に動くが、これに対して諸藩の意見は真っ二つに分かれる。そこで天皇の勅許を得て大名たちを説得しようと幕府は考えたのだが、ここで孝明天皇は明確に反対の意思を示すという前代未聞の行動をする。これに当惑した公家たちは「今一度諸大名の意見を聞け」との意志を幕府に伝える。これに対して幕府は当惑する。これではまとまるはずがない。ついには幕府側が「条約締結か戦かを幕府が選択しても良いのか」と迫ったが、孝明天皇は「アメリカが武力に訴えるなら戦も仕方ない」と答える。ハリスの強硬な姿勢が孝明天皇の反発を生んだのだろうという。
これに対して幕府は大老の井伊直弼が独断で条約を締結してしまう。これに激怒した孝明天皇は幕府に猛抗議をするとともに、水戸藩に勅書を送って幕府に経緯の説明を求めるように要求する。しかしこれに対して井伊直弼は尊王攘夷派を大量処罰する安政の大獄を起こす。これについても孝明天皇は激怒して、関白を扇で打ち据えたという。
公武合体の機運の中、幕府に歩み寄る孝明天皇
しかし桜田門外の変によって事態は急変する。この事件によって幕府の権威は完全に失墜してしまう。権威を取り戻すために幕府は公武合体を進めることになる。その象徴として考えられたのが皇女・和宮と将軍・家茂との結婚だった。孝明天皇も公武合体には賛成だったが、妹である和宮には既に婚約者がいたことからこの案を却下する。しかし幕府は食い下がる。孝明天皇が岩倉具視に助言を求めたところ「幕府が攘夷の実行を約束するなら降嫁の許せば」との回答を得る。これを幕府に伝えたところ10年以内に鎖国体制に戻すとの約束を得る。しかしこうなると破談にはできなくなった。そこで孝明天皇は生まれたばかりの娘の寿万宮を嫁がせることを考えるが、これを聞いた和宮は自らが将軍家に嫁ぐことを決断する。和宮は江戸に行って京都流を通すことを条件に幕府に嫁ぐ。これで孝明天皇は幕府への発言権を増す。
家茂は優しい男であり、和宮との関係もうまくいった。これで幕府と天皇の関係もうまくいくと思われたのだが、尊王攘夷運動が暴走気味になってくる。京に集まった尊王攘夷の志士たちは朝廷内でも発言権を増す。そして将軍家茂が上洛して孝明天皇と謁見する。
孝明天皇と幕府が約束した攘夷決行の日、長州藩が独断でアメリカ商船を砲撃する事件が発生する。さらには孝明天皇の行幸を勝手に計画してしまう。この過激さを増す尊王攘夷派の行動に孝明天皇は会津藩と薩摩藩に命じて尊王攘夷派を追放するクーデターが発生する。孝明天皇は長州藩が進めるような急進的な攘夷を求めておらず、もっと穏健な形で攘夷を進めることを考えており、暴走した尊王攘夷派は孝明天皇にとっても邪魔となっていたのだという。
転向と見えた行動が周囲の不信感を招き、家茂の死で行き詰ってしまう
この後、再び上洛した家茂に孝明天皇は「無謀な征夷は実に朕が好む所に非ず」と述べる。ガリガリの攘夷派だと思われていた孝明天皇のこの姿勢は多くの者に不信感を抱かさせることになる。しかし孝明天皇は家茂に対し「互いに親子のような情愛を持って接することが天下の安定につながるだろう」とさらに接近を行う。彼は幕府から京都に派遣されていた一橋慶喜、松平容保、松平定敬らと信頼関係を築く。特に容保のことを強く信頼したという。
しかし孝明天皇の思いとは別に禁門の変などの事件が発生、さらに兵庫沖にアメリカ・イギリス・フランス・オランダの連合艦隊が来航、天皇に通商条約締結の勅許を迫る事態が発生する。孝明天皇はこれを拒否し、幕府は板挟みになる。これに対して一橋慶喜は孝明天皇に対し「欧米諸国が京都に乗り込んで孝明天皇の命が危険に去られる事態も起こりうる」と天皇に対して脅迫、孝明天皇はこの事態に震撼したのかようやく勅許を下す。
さらに将軍徳川家茂が突如病に倒れる。孝明天皇は急いで医師を送るが願いも空しく家茂は死亡する。そして孝明天皇に対する批判も高まってくる。そして孝明天皇も36歳で亡くなる。これで幕府の命運は尽き、幕府崩壊へと結びつく。
何か万事中途半端な印象を受けてしまうのだが、孝明天皇が攘夷にこだわったのは「自分が守ってきた日本の地が異人たちによって踏み荒らされるのは嫌」という単純な嫌悪感が根っこにあったような気がする。しかし諸外国との全面戦争を決意する勇気まではなかったろう。その辺りはやはり宮中しか知らない天皇という人物の限界であるような気はする。常に意図が空回りしているような気がする。
また将軍家茂とは単純に気が合ったのではないかというように感じられる。最初は江戸に行くのを嫌がっていた和宮が、家茂とは良好の関係を築けたとあるように、家茂はとにかく周りに配慮できる優しい男であったようである。だから孝明天皇も家茂と実際に対面して、彼のことを気に入り、彼となら良好な関係を築けると確信したのではないか。で、そういう個人的な関係がまずあってから幕府との関係が良好となったのではないかと思われる。
しかしこういう孝明天皇の態度は周りから見れば「変節」と思われて不信を招くし、ましてや尊王攘夷で突っ走って、藩丸ごとテロリスト集団のようになっていた長州としてははしごを外されたという怒りもあったろう。結局はそれが孝明天皇を追い込んでいく。孝明天皇の36歳という若さでの死も、暗殺の可能性もなきにしもあらずではという気がしてならない。岩倉具視なんか「こうなった以上は我が君にお隠れいただくしかない」なんてこと言いそうな気もするし。
忙しい方のための今回の要点
・孝明天皇は開国に反対し、修好通商条約に対しての勅許を出すのに抵抗する。しかし幕府は大老・井伊直弼が独断で条約締結。さらに尊王攘夷派を弾圧する。これに孝明天皇は激怒する。
・桜田問題の変で権威の失墜した幕府は公武合体を進める。これは孝明天皇も同じ考えで、結局は幕府に攘夷を約束させることで和宮と家茂の結婚が実行される。
・しかし尊王攘夷派は暴走し、長州藩が独断でアメリカ商船に砲撃する事件が発生、孝明天皇は急進的な攘夷には反対し、家茂と協力したうえで穏健な攘夷を進めようと尊王攘夷派を京から追放する。
・しかしこの天皇の姿勢が不信感を招き、長州は禁門の変を起こすなどさらに暴発する。また四か国連合艦隊が強引に通商条約承認の勅許を求める事件まで発生し、孝明天皇もこれを飲まざるを得なくなる。
・そんな中、将軍家茂が急死、さらに孝明天皇に対する批判も高まってくる。失意の中で孝明天皇は36歳でこの世を去る。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・孝明天皇の攘夷の姿勢は結局は思想というほど深いものではなく、外国人がウロウロするのは嫌という程度の感覚的なものだった気がしますね。所詮は温室育ちの世間知らずだから、残念ながら思想と言えるほどの実感やら背骨がないような気がします。なのにやけに我を張るから周りから煙たがられるようになったというところでしょうか。
・しかも知らない間に攘夷運動の旗頭に担ぎ上げられて、気が付けば回りは長州テロリストばかり。しかも連中は尊王を掲げているが、その実は天皇を担いで自分たちがやりたいようにやりたいだけ。その状況に気付いた時に孝明天皇は愕然としたでしょうね。
・しかしここに来ての柔軟路線はテロリスト共からしてみたら「転向」そのもの。暗殺されていても不思議でないと思いますよ。
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