経済破壊兵器としてのニセ札製造
戦争の武器は何も兵器や弾薬だけではない。第二次大戦においてナチスはニセ札を武器として使用しようとした。当時のヨーロッパの基軸通貨であったイギリスのポンド紙幣を大量に偽造して、それをヨーロッパ上にばらまくことによってイギリスの経済を崩壊させようとしたのである。
1959年8月、オーストリアのトプリッツ湖から大量のポンド札が発見された。全部で25億円相当だが、これが全部ニセ札だったという。これがヒトラーのニセ札だという。
1939年にポーランドに侵攻したドイツに対し、イギリスとフランスが参戦して第二次大戦が開始される。ナチスがポンド紙幣のニセ札を製造しようとしているという情報はイギリスにスパイからもたらされていたという。
アンドレアス作戦と銘打たれたニセ札製造作戦の責任者は親衛隊のアルフレート・ナウヨックス大尉だった。彼は策謀の専門家だったという。しかしニセ札作戦にはドイツ銀行総裁のヴァルター・フンクが強硬に反対した。彼は「ニセ札作りは国際条約に反している」と主張した。実際にニセ札製造行為はジュネーブで結ばれた条約によって禁じられていたという。中央銀行の協力を得られなかったナウヨックスは民間の研究者や印刷職人を集めて独自にポンド札の研究を開始する。
紙幣作りには4つのポイントがあるという。まずは原料集め、次が製紙する際に透かしを入れる。さらに原板作りに印刷である。この各段階で紙幣には偽造防止の技術が駆使される。
ナウヨックスはまず5ポンド紙幣の偽造に挑む。現在の価値で2万5千円の高額紙幣だが、1850年代から使用され続けている。100年前の技術なら偽造は簡単とナウヨックスは考えたのである。まず原料の調査の結果、トルコ産の亜麻とハンガリー産の苧麻を4:6で配合していることが判明した。
早速この原料を用いて製紙するが、ナウヨックス達の紙は本物よりもざらついている上に、本物の紙幣は紫外線で青く発光することが分かった。何らかの蛍光物質が混ぜられていることが分かった。
実はナチスがニセ札を製造しようとしているという情報を得た時に、イングランド銀行は自信満々に「おとぎ話のような計画だ」とニセ札製造が不可能であると断言していたのだという。
さらに透かし入れも難航した。透かしは製紙の際の紙の厚みの差で生じるのだが、どうしてもぼやけた透かししか出来なかったという。
情報部員からの情報で紙の問題を解決する
そこにイングランド銀行に潜入していた情報部員から「5ポンド紙幣は使用済みのボロ布を材料に使用している」との情報が入ってくる。ナウヨックスは直ちに試してみたところ、布が使い古されることで繊維が摩耗して細かくなり、柔らかい手触りになることが判明した。また繊維が細かくなることで透かしもシャープになり、使い古された繊維を漂白するために蛍光増白剤が入っていることも判明し、紙の問題は解決した。
次は原板作りであるが、ここでも偽造防止の技術がある。一番の鍵は隅のブリタニア像でナウヨックスが作らせた原板では細かい部分が黒くつぶれてしまったという。また印刷工程でも問題が発生した。実はイングランド銀行では10万枚印刷ごとに原板を改変していたのだという。その数は100カ所に及ぶという。この情報を持つイングランド銀行では判別が可能なのである。
そこでナウヨックスは諜報部員をスイスの銀行に派遣してニセ札の鑑定を依頼する。その結果、ナウヨックスのニセ札は本物と鑑定された。イングランド銀行の鑑定システムは国内では鑑定できるが、機密保持のために外国にはその情報を明かしていなかったので、外国の銀行では判別できないのである。これで不完全な紙幣でも外国の銀行を通せば流通は可能であると判断された。
いよいよアンドレアス作戦発動と思われたのだが、ここで突然にナウヨックスが失脚する。上官であるラインハルト・ハイドリヒとの対立が原因との噂があるが真相不明だという(ナチスはこの手の内部での足の引っ張り合いが実に多い)。
戦線硬直の中で目的を変えてニセ札計画が再浮上する
ナチスがソビエト侵攻で戦線が膠着した1942年5月。ナチス親衛隊は再びニセ札製造に乗り出す。責任者は書類偽造課長のベルンハルト・クリューガー。ベンルンハルト作戦と銘打たれた今回の作戦の目的は、偽造したポンド紙幣で武器や物資などを購入することにされた。
ベルンハルトはこの極秘計画を連合国のスパイに気づかれずに実施するために、ユダヤ人の強制収容所内で実施することにする。彼はここで印刷工、彫金師、グラフィックアーティストなどのユダヤ人を選び出し、彼らをニセ札製造の職人として働かせた。良い仕事をすれば報酬と命の保証があるが、働かない者は容赦なく撃ち殺すと彼らに告げる。
こうしてユダヤ人達はナチスのために働かされることになる。彼らは原板の修正などの作業に従事させられ、以前のアンドレアス作戦のものよりもニセ札の品質は向上する。しかしこれらを製造させられたユダヤ人達は葛藤の中にいた。その中の一人で印刷工のアドルフ・ブルガーは何とか密かに抵抗を試みた。印刷のローラーをわざと汚したり、原板に傷を入れたりなどの妨害工作を密かに行った。またイギリス人はポンド札をピン留めして保管することから、流通しているように見せかけるために穴が開けられたが、ブルガーはこれをイギリス人が避けるはずのブリタニアにわざと穴を開けたという。手にした者が違和感を感じるように仕掛けたのである。しかしブルガーの抵抗は微力だった。1億3400万ポンドのニセ札が製造され、その内の1000万ポンドは少なくとも使用されたという。これは現在の額で560億円に相当する。
最後には偽ドル紙幣の製造まで命じられる
しかし戦局が悪化してくると、今度は偽ドル紙幣の製造が命じられることになる。これはナチス幹部の国外逃亡の資金のためだった。ブルガーは今まで以上に抵抗を続けることになる。これを怪しいと睨んだベルンハルトは直接に職人達に作業の遅れの理由を問いただすが、ブルガーの妨害工作を知っている若い職人ペーター・ベーレンは「細い線を書くために中国筆が必要です」と訴える。他の職人達も全員これに同意する。彼らはドイツ兵のラジオなどから戦況の悪化をしっており、ドイツ敗北まで偽ドル作りを引き伸ばそうと考えていたのである。
ベルリンに敵軍が迫ってきたことにより、ユダヤ人達は南のマウントハウゼンさらにレードル=ツィプフ収容所に移送される。ここでニセ札製造が再開されると告げられるが、ベルリンが陥落、ナチスの指揮系統が混乱する。ニセ札作りの現場でも証拠隠滅が始まり、作業に従事したユダヤ人達は口封じのために処刑される危機が迫る。しかしすんでのところで親衛隊員達は逃亡し、彼らは解放される。そして生き残った者達によってナチスのニセ札作りが明らかとされた。ブルガーはその経緯を後に書物に記したという。
ナチスの極秘作戦について。戦争時でも国は経済を回しているわけなので、経済破壊作戦というのは結構ポピュラーな方法である。ナチスのニセ札製造にドイツ銀行総裁が頑として反対したというのが驚きだったのだが、彼はそれで大丈夫だったのだろうか? 恐らく彼がニセ札作りに反対したのは、条約云々だけでなく、互いに仁義なきニセ札作りの応酬になってしまったら、ドイツの方も経済崩壊することを懸念したのではないかと推測する。それにしてもイギリスも事前に情報を入手したらしいのに静観していたようだからイングランド銀行もえらく自信を持っていたものだ(実際にはこれで痛い目に遭ったので、その後に紙幣に最新技術を投入したらしいが)。
各国の紙幣とはまさに信用だけが命であるのだから、紙幣の偽造とはその根幹に関わる大問題であるので、各国共に紙幣には最高の技術を投入してあり、日本の紙幣もその例外ではない。もっとも問題は、そのような技術によって専門家はニセ札を容易に判別できるようになっているが、それが必ずしも市井の庶民でも判別可能というわけでなく、ナチスのニセ札なんかよりもはるかに稚拙なニセ札が今でも結構で回ってしまうことにある。専門家が見れば一目瞭然なのだが、素人のぱっと見では分からないようなこともあるという。ちなみに素人がニセ札を作ろうとすれば一番のに思いつきそうなのはカラーコピーなので、現在の紙幣はカラーコピーなどをすると見るからに色調などが変わってしまう仕掛けをしている(紙幣は細線で描かれているので、ドットで描くコピーをすると完全に色合いが変化してしまう)。また日本の紙幣が高度だと言われるのは、洋紙ではなくて和紙を使っていると言うことにもある。だからコピー用紙なんかだったら触感が決定的に変わってしまう。
ちなみにドル紙幣はもっと粗雑に作られているし、印刷所が複数あって印刷所ごとに微妙に違っていたりするので、比較的偽造しやすいなどとも言われている。だから以前から北朝鮮などは国家レベルで偽ドル紙幣を製造しているとの噂がある。たまにこれらが日本にも入ってきて事件になることがあるのは有名なところである。
忙しい方のための今回の要点
・第二次大戦で、ナチスはイギリス経済破壊のために偽ポンド紙幣を大量に発行してばらまくという作戦を計画する。
・責任者に命じられたナウヨックスは100年前から使用されている高額紙幣の5ポンド紙幣の偽造に取り組む。しかし紙作りの段階から失敗して難航することになる。
・イングランド銀行に潜入したスパイからの報告で紙の問題は解決するが、次の原版制作と印刷でも手こずることに。しかしイングランド銀行では判別できても、海外の銀行では判別できないレベルのニセ札の製造までこぎ着けるが、ここでナウヨックスが失脚、作戦は棚上げとなる。
・1942年5月、ソ連戦線の膠着と共に、軍事物資調達の資金として偽ポンド紙幣製造が再開されることになる。責任者に命じられたベルンハルトは、連合国のスパイの目を欺くためにユダヤ人強制収容所内でユダヤ人を使用してニセ札の製造を実行する。
・作業に従事させられたユダヤ人は葛藤することになる。その中で印刷工のアドルフ・ブルガーは、密かに妨害工作を実行するが、それでも1000万ポンドのニセ札が流通することとなってしまう。
・ドイツの戦況の悪化によって今度はナチス幹部の国外逃亡資金として偽ドル紙幣の製造が命じられるが、ユダヤ人達は製造を引き伸ばすことで抵抗を試みる。彼らはあわや口封じのために処刑されるところであったが、すんでのところで親衛隊員達が逃亡して命を救われることになる。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・アドルフ・ブルガー達が生き残ったので、ナチスのこれらの犯罪行為が歴史上で明らかとされましたが、彼らが処刑されていたらなかったことにされたんでしょうね。多分未だにネオナチなんかは全部捏造だなどと言ってそうですが。
・それにしてもナチスという政権は、およそ考えつく限りのあらゆる犯罪を実行してますね。ここまで犯罪的な権力というのは想像が付かない部分があります。確かにこのような狂気がどうやって国を支配することになってしまったかというのは、今後も検証し続けていく必要があるでしょう。
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