校庭の銅像で有名な「あの人」の生涯
二宮金次郎は以前に「ヒストリア」でも放送されており、今回の内容もエピソードの取捨選択に微妙な違いはあるものの、大筋はその時の内容とかなり被る。
裕福な農家から水害で極貧生活に転落する
二宮金次郎は小田原藩の比較的富裕な農家に生まれ、幼い頃から学問の好きな少年だった。また父親は人格者で、どんな人にも頼まれると金を貸したという。金次郎はそういう父親を見て育った。しかし彼が5才の時に運命が暗転する。水害によって全ての田んぼを失ってしまったのである。それでも父親は必死で田んぼを再生しようと取り組むが、貧困な中での過労が祟ったのか金次郎が12才の時に病で倒れ、まもなく亡くなってしまう。
父親を亡くした金次郎は弟たちを抱えて必死で農作業に励むが、極貧の中でまもなく母も死亡する。しかも非情にも再び水害が発生して、復旧途中の田んぼがまたやられてしまう。見かねた親戚達が集まって相談した結果、金次郎は父の兄である二宮万兵衛の元に、二人の弟は母の実家に預けられることとなる。
叔父の元で金次郎は農作業に励みながらも、その合間に学問に精を出す毎日だった。いつかは二宮家を再興させるというのが金次郎の目標だった。しかし伯父は「百姓に学問はいらないし、行灯の油が無駄だ」と金次郎の学問には反対した(伯父としては金次郎に早く一人前の百姓になってもらいたいという親切心でもあると擁護してましたが)。しかし学問をしたい金次郎は、知人から菜種を分けてもらい、これを荒れ地に撒いて蒔いた種の100倍以上の菜種を収穫、これを代金の代わりとして菜種油をもらったのである。こうして伯父に迷惑をかけることなく夜に読書するための油を調達したのである(ここまでされたら伯父も文句は言えまい)。さらにはあぜ道に捨てられている苗を荒れ地に植えて米を収穫するということも行ったらしい。小さなことをコツコツと積み上げていくという「積小為大」はこの後も金次郎の人生の方策となる。
努力と才覚で名を上げていく
18歳になった金次郎は伯父の家を出て独立する。金次郎は二宮家再興のために働きに働きお金を貯め、2年で生家の近くに小屋を建て300坪ほどの土地を買い戻す。さらに仕事に精を出し、野菜を小田原城下で販売して金を得ると、これを人に貸して利息収入を得て土地を買い広げていった。弟たちを呼び戻すという夢は三男が幼くして病死し、次男も母の実家の大事な働き手となっていたために叶わなかったが、金次郎は二宮家再興のために働き続け、24才にして4200坪の土地を所有する村でも指折りの大地主となった。
二宮金次郎の名は世間に広がり、小田原城下にまで伝わることになる。そうして小田原藩家老の服部十郎兵衛の3人の子どもの世話係として住み込み奉公をすることになる。漢学塾への送迎や復習の補助をする仕事だが、教室の外で儒学の講義などを聴くことも出来る金次郎にとっては願ってもない仕事だった。金次郎は十分な給金をもらっていない奉公人から借金の申し込みをされることも多かったという。そこで金次郎は返済プランも立てた上でお金を貸してやったという。相手に希望と責任感を持たせる上に、借金の焦げ付きを防ぐという妙策だった。さらには五常講という奉公人が互いに金を出し合い積み立て、必要な人がそこから無利息で金を借りることが出来る制度を作る。現代の信用組合に通じる考えだという。
金次郎の才覚に服部十郎兵衛は目をつけ、火の車である服部家(借金が今の価値で2000万以上あったらしい)の財政建て直しを依頼する。金次郎は調査の結果、収入が減っても贅沢な生活をしていたのが借金の原因であることを突き止め、倹約生活を課すことにする。その最中、金次郎は小田原藩主の大久保忠真から「心がけの良い領民」として表彰されることになる。ついに金次郎の名は藩主の耳にまで届いたのである。この時、金次郎は32才だったという。この後、金次郎は「社会のために働く」ということを意識するようになるという。そして服部家は年数はかかったものの借金の完済を遂げる。
ついに藩主から声がかかり、桜町寮の再建に起用される
34歳になった金次郎は奉公人のなみと結婚する。そんな中、藩主の大久保忠真から下野の桜町領の復興を命じられる。財政が破綻状態の小田原藩を建て直すため、忠真は金次郎を登用することを考えていたが、農民である金次郎の登用は藩士達の中でも抵抗が強かった。そこで分家に与えていた桜町領の再建をさせることで実績を上げさせた上で藩の建て直しに登用することを考えたのだという。
しかし桜町領の状態は簡単ではなかった。天明の大飢饉以降収穫量が激減し、4000俵納めていた年貢米も1005俵が限界で、農民は飢えと貧困に喘いでやる気を失っていた。自分には荷が重いと断る金次郎に対して、忠真はひかない。そこで彼は「向こう10年はどんなに豊作でも年貢の上限は1005俵として、余剰分は復興資金として自分が管理する。再建費用は小田原藩から与えられる米200俵と金50両で賄い、それ以上の補助金はいらない。10年間は報告を求めず小田原に呼び戻すこともしない。」という条件を提出し、それを忠真に認めさせる。忠真はこの条件を受け入れて金次郎を「名主役格」で登用する。
金次郎は妻と子どもを連れて桜町領に移転、そして領内を歩いて回り、貧困者の救済やインフラの整備を実行する。さらには働き者には鍬などの褒美を与えて「頑張れば報われる」という意識を領民に植え付ける。さらに荒れ地の開墾や借金返済資金の融資、他藩から農民の招致などを行う。しかし役人達や農民の一部には金次郎の反対派もいて、わざと騒ぎを起こしたりなども起こったという。そんな中で復興作業に従事していた金次郎だが、赴任して7年目の正月に「江戸の藩邸に用がある」と家を出たまま1ヶ月経っても戻らないという事件が起こる。失踪した金次郎は成田山新勝寺に行って復興成功の願掛けを不動明王に対して行っていたという。その中で「敵対する人も味方する人も桜町領という一つの円の中にいるのでどちらも切り捨てられない」という一円観の悟りをしたという。
桜町領の再生に成功し、農村再生のスペシャリストと認識される
失踪3ヶ月後、金次郎はようやく桜町領に戻る。すると反発していた役人達は交代していなくなり、不満のあった農民達も金次郎がいなくなってから初めてその偉大さに気づいたことで、不満の声はすっかり消滅していたという。
本当に優秀な人はいなくなるとその存在の偉大さが分かるという例である。私はそういう経験はないが、全く逆にある上司がいなくなることでそれまで滞っていた業務が嘘のようにスムーズになったという経験はある(笑)。しかしそう言われないように保身のために「自分がいないと業務が出来ないようにシステムを変更してしまう(意図的に情報を独占するなど)」という上司もいて困ったものである・・・と、話がそれてしまった。
とにかく金次郎の奮闘で村の再建は進み、米の収穫量も増加、赴任から9年後には年貢米は倍近くの1894俵にまで増加する。忠真はこれに喜んで金次郎を呼び寄せると復興の豊作について訪ねた。これに対して金次郎は「人にはそれぞれの取り柄があるので、それを活かした」と答えたという。これに対して忠真は「汝のやり方は論語にある『以徳報徳』であるな」と語ったという。今後、この報徳がまた金次郎の方針となるという。
金次郎は桜町領を復興させたのみでなく、なすの味がいつもと違うことから冷害の発生を予想して、飢饉に強いヒエを植えさせるという対策を行ったことで桜町領では一人の餓死者も出なかったという。それどころか備蓄米を放出して近隣住民を救済することまで行い、下野に聖人ありと金次郎の名は周囲に知れ渡るようになったという。そのことから周辺の藩からも復興指導を依頼されることも増えたという。
小田原藩を飢饉から救済し、幕臣として再生マニュアルを作成
50歳になった金次郎は小田原藩の再建に着手することになる。金次郎に反発していた藩士達も、天保の大飢饉への対応がままならぬ現状から、渋々同意したという。金次郎は忠真から託された1000両と倉の米を領内の村に分配、これによってほとんど餓死者が出ないで済んだ。しかし藩の再建に本腰を入れて取り組もうとした矢先に後ろ盾である忠真が亡くなってしまう。それと共に藩内から不満の声が上がり始めるが、それでも多くの領民達を救ったという。そんな矢先に金次郎に幕府から声がかかり、幕臣に取り立てられる。この時に「尊徳」に名を改めたという。そして荒廃していた日光神領の復興計画書の作成を命じられる。この機会に金次郎は農村復興のマニュアルを作成することにする。金次郎は多くの弟子と共に2年以上かけて全84巻の「仕法雛形」を完成させる。
しかし幕府の役人達がこの膨大な報告書の処理に手間取ったせいで肝心の復興にはなかなか取り組めなかったという。ようやく実行になったのは提出の7年後で金次郎は67歳になって大病を患っていたが、それでも村を自ら歩いて視察したという。病床からも弟子達に指示を出していたが70歳でこの世を去る。彼は生涯で600以上の村を再建したという。
スゴい人だな・・・としか言いようがない。単に真面目に働く人と言うだけでなく、頭が切れて非常に経営の才がある人だったというのがポイント。単に真面目一辺倒だけの人だったら再建は出来ない。彼は商才があってアイディアマンだったわけである。恐らく現代なら何らかのベンチャー企業を大きくし、経営再建請負人をしつつ、その一方で社会福祉法人などを立ち上げて公益に尽くしたのではなどと想像する。
しかし再生請負人と言われる者は、再生をして自分は膨大な金を懐にという輩が多いのだが(カルロス・ゴーンのような奴もいた)、金次郎は自分の懐には全く入れていない。こんな人が今の官僚にいれば日本ももっと・・・と思ったが、忖度しないタイプなので真っ先に更迭されて終わりだろうな。今の日本だと。金次郎の功績も、彼を信じて託した大久保忠真の器量があってこそだから。
忙しい方のための今回の要点
・二宮金次郎は裕福な農家に生まれて学問が好きな少年だったが、5才の時に水害で田んぼを失い、貧困なの中で両親も早くに亡くなってしまう。
・親戚に引き取られた後に独立した金次郎は真面目に働きつつ土地を買い広げ、24歳で村でも指折りの農家になる。その金次郎に目をつけた小田原藩家老の服部十郎兵衛の元で住み込み奉公することになる。
・そこで金次郎は奉公人達のための共済制度を作るなどを行い、ついには服部家の財政再建を託され、それに成功する。そして藩主の大久保忠真から桜町領の再建を依頼される。
・金次郎は桜町領の農民に対し、様々な支援を行うと共に「努力すれば報われる」という意識を植え付ける。反対者もいた者の、やがては金次郎の偉大さが伝わり再建は軌道に乗る。
・桜町領で実績を上げた金次郎は天保の飢饉で苦しむ小田原藩の再建に取り組む。彼の施策によって小田原藩は餓死者をほとんど出さずに済んだが、後ろ盾であった忠真の死で彼に対する藩士達の反対も強まっていく。
・金次郎はついに幕臣に取り立てられ、日光神領の再建の計画書の提出を命じられる。彼は弟子達と2年かけて全84巻の「仕法雛形」という農村再生マニュアルを完成させる。
・67才の時に大病をおして日光神領の再建に取り組むが、その途中に70歳でこの世を去る。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・理想を持ちながら、あくまで手段は現実主義。その辺りが金次郎の有能さです。理想が高い者は往々にして理念倒れで現実とずれがちだし、現実手法に長けた者は理念がないという場合が多い。この両者のバランスの取れた人材というのは意外と少ない。金を儲けることを考えながら、公助の精神があるってのはなかなか珍しいです。金を儲ける才能のある者は往々にして単なる金の亡者になりがちですから。
次回のにっぽん!歴史鑑定
前回のにっぽん!歴史鑑定