教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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10/5 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「家康よりも先に江戸に城を築いた武将・太田道灌」

江戸城を最初に作ったとされている太田道灌について

 江戸と言えば家康の都であるが、家康が江戸城を築く前にこの地を治めていたのが太田道灌である。

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太田道灌

 道灌は1432年に関東の名門である上杉家の家宰で、関東不双の知恵者といわれた太田道真の嫡男として生まれる。道灌(これは出家後の名で、諱は資長だった)は幼少時より聡明だったとのことで、父にひけをとらない知恵者だったという。父が「知恵がありすぎる者は偽りが多く、物の道理を曲げる偽りは災いを招く。障子は真っ直ぐだから価値があり、曲がっていては価値がなくなる。」と話したところ、道灌はすかさず「屏風は曲がっているからこそ立つ。」と切り返したというが、まるでこれでは一休さんである。

 当時の関東は室町幕府が設置した鎌倉府が支配しており、その長官の鎌倉公方が足利氏であり、補佐する関東管領は上杉氏だった。上杉氏に関東管領の山内上杉家が上野国と武蔵国の守護、扇谷上杉家が相模の守護、越後上杉家が越後の守護を務めており、扇谷上杉家に仕えていたのが大田道真であった。彼は家宰として政務を取り仕切っていた。

 

実は江戸城は道灌が建てたわけではない

 ちなみに江戸城は太田道灌が20才の時に築いたとされているが、実はそうではないという。江戸城築城の18年前の1438年に鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実の対立が激化、室町幕府の支援を得た憲実が持氏を自刃に追い込んだことで鎌倉府が崩壊した。しかし足利方は成氏を新たな公方に立て、成氏は上杉方を破りながら下総の古河に拠点を置いたことから古河公方と呼ばれることになる。この古河公方と上杉方の対立が続くことになり、これを享徳の乱という。応仁の乱よりも10年早い時代だが、関東ではこの時点で実質的に戦国時代に突入したのだという。

 そして1456年、上杉方の下総市川城が古河公方に攻略され、このままだと上杉方の武蔵が危うくなってくる。そこで武蔵に勢力を伸ばしていた扇谷上杉家が前線基地として下総との国境に設置したのが江戸城だという。江戸は河川交通の要の位置にあり、物資の集積が容易で前線基地にはまさに格好の位置にあったという。というわけで、江戸城は扇谷上杉家によって築かれたものであり、道灌が築いたというわけではないという。そして完成したこの城を任されたのが太田道灌だという。

 そしてこの頃の江戸城であるが、場所は家康の江戸城と同じ場所にあり、30メートルの崖の上に建ちその規模は現在の江戸城に匹敵するものであったらしい。また周囲は堀で覆われ、かなり大規模な城だったという。道灌はこの城で政務を執った。それ以前は軍事施設と政務を執る館は別だったのだが、この頃はもう既に戦乱の時代に突入していたからだという。さらには城下町も整備し、江戸の町を発展させたという。後に家康がこの地に来た時には何もないド田舎のように言われているが、実際はこれは家康の功績を持ち上げるためのもので、道灌の時代に既に江戸はかなり整備されていたらしい。

 

家宰を継いで、上杉家の内紛を鎮めるものの・・・

 道灌は武勇に優れ、騎馬武者の一騎討ちでなく足軽を中心とした集団戦に長けていたという。そのために日頃から軍事教練は欠かさなかった。また和歌を詠むことに熱心で教養もある文武両道の武将だったらしい。そして30才の時に家督を継ぎ、家宰の地位も継ぐことになる。

 1473年、上杉氏が本陣を構えている五十子陣が古河公方方に襲撃され、道灌が仕えていた扇谷上杉家の当主である上杉政真が戦死するという事件が発生する。政真には子がなかったために重臣達が協議して叔父の定正が当主となる。元々定正は上杉の一門衆として家宰の道灌から指示を受ける立場にあったので、定正は当主と言っても道灌には頭の上がらない関係になってしまったと考えられる。

 そんな時に山内上杉家で内紛が発生する。山内上杉家の家宰である長尾景信が亡くなったことがきっかけである。嫡子の景春は自分が家宰を継ぐと思っていたのだが、当主の顕定が景春がまだ若かったことから家宰に叔父の忠景を任命したことで景春が不満を持ったのだという。景春の元には支持者が集まり、五十子陣に兵を送って上杉方と睨み合いになってしまう。ここで道灌は内紛によって上杉方が弱体化することを懸念して仲裁に乗り出す

 しかしそれがなかなか上手くいかない。最初は忠景が就任していた武蔵国守護職を景春に譲らせて納得させようと考えたのだが、これを忠景が拒絶する。そして1477年、ついに景春は五十子陣に攻撃に及ぶ。やむなく道灌は景春追討に動くが、景春方とまともに戦える武将は道灌ぐらいだったという。道灌は終息を早めるために景春方に付いた武将で降伏した者の所領の保証を山内上杉家の当主の顕定に願い出る。顕定はこれを承諾するが、すぐにその約束は反古にされる。この後に及んで道灌は戦を行うことにする。江戸城周辺の景春方の勢力を駆逐し、1480年についには景春を関東から追放することになる。こうして道灌は扇谷上杉家の勢力を増すことに貢献するのだが、その道灌が8年後に暗殺されることになる。

 道灌を妬む者があり扇谷上杉家の家臣内での対立があったことや、主君の上杉定正自身(それなりの能力を持った人物だったらしい)が自らが権力を奮うに当たって有力者である道灌の存在が煙たくなったのが原因だとされている。

 

 以上、江戸の基礎を作った太田道灌について。要望が多かったから扱ったという類いの事を番組冒頭で言っていたが、やはり東京の人間が多いということだろうか。

 江戸城は太田道灌が建てたなどと言われていたが、どうやらそもそも道灌が一人で建てるには巨大すぎる城郭であったようである。で、道灌の江戸城を土台にして、その上に家康が江戸城を新たに築いたということか。関東全体を睨むとなれば地の利ではあそこしか場所はないというところのようである。

 最終的に道灌は暗殺されてしまったのだが、殿がただ担がれているだけの馬鹿殿だったら良かったんだろうが、そうでなくてそれなりに能力のある人物だったから道灌が邪魔になったというところか。この頃、古河公方との争いがどうなっていたのか分からないが、それなりに小康状態になっていたのかもしれない。そうでなかったら、いくら少々邪魔と言ってもあえて有能な家臣を斬るということは普通はしないだろう。昔から「狡兎死して走狗煮られる」と言って、敵がいなくなったら優秀な部下は斬られるということはよくあったわけである。もっとも道灌が本当に謀反を企てていた可能性も皆無ではないが。

 

忙しい方のための今回の要点

・太田道灌は扇谷上杉家の家宰である太田道真の嫡男として生まれ、幼い頃から知恵者であった。
・江戸城は道灌が築いたと言われているが、実際は関東管領の上杉家と古河公方の争いの中で、上杉側の最前線基地として扇谷上杉家によって築かれたもので、その後に道灌が城主となっている。その規模は後の江戸城に匹敵するぐらい巨大なものであった。
・30才で家督と家宰の地位を継いだ道灌は、山内上杉家の内紛の仲裁に乗り出す。しかし結局は仲裁に失敗し、反乱を起こした長尾景春を武力によって討伐して、関東から追放することになる。
・これで扇谷上杉家の勢力は強まるのだが、道灌はその8年後に暗殺される。道灌に嫉妬した同僚の陰謀や、君主である上杉定正が道灌を疎ましく思ったのが理由とされている。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・少なくとも武将としては優秀な人だったようですが、内紛の調停が上手くいかなかったり、その後の武力討伐もほぼ単独で行う羽目になっているところを見ると、領民には慕われても同僚には意外と人望がなかったのかも。優秀すぎるがゆえに組織の中で浮いてしまっていたか?

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