教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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10/26 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「日本初のファーストレディ!伊藤博文の妻・梅子」

 伊藤博文の妻として、日本初のファーストレディとなった梅子が今回の主役。

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伊藤梅子

 

18才の時に伊藤と知り合う

 伊藤と梅子が初めて出会ったのは梅子が18才の時、下関の亀山八幡宮の境内にはかつてお亀茶屋と呼ばれた茶屋があり、梅子はここで働いていた。そこに駆け込んできたのが伊藤だったという。追われているので匿ってくれという伊藤に、梅子はゴミ溜を指さす。躊躇わずにそこに飛びこんだ伊藤は追っ手を巻くことに成功した。

 伊藤が命を狙われていたのは下関の開港を目論んでいたからだという。ヨーロッパに渡ってその実力を目の当たりにしたことで攘夷派から開国派に転じる。そして伊藤は高杉晋作らと下関の開港を画策したのだが、下関は本藩である萩藩ではなく支藩である長府藩の所属だったために、長府藩の藩士が「何を勝手なことをやってるんだ」と怒って伊藤の命を狙ったのだという。

 事情を知った梅子は伊藤に隠れ家として知り合いの家の土蔵を紹介し、食料を運ぶなど何かと世話を焼いたという。こうして二人は恋に落ちる。だが長州征伐を控えていた長州藩は武器の購入のために伊藤を長崎に派遣、二人はしばらく会えなくなる。ようやく下関に戻ってきた伊藤だが、お亀茶屋から梅子の姿が消えていた。梅子は父親の借金のかたとして身売りされ置屋で芸者見習いをしていた。梅子に会いたい伊藤は悩んだ結果、梅子を身請けすることを決意する。金を工面して置屋の主人と面会したところ「梅子を本妻にしてくれるのなら嫁入り支度もして差し上げましょう。しかし側女というならお断りします。」と言われる。

 こう言われた伊藤は返答に窮してしまう。実はこの時、伊藤には既に妻がいたのだという。梅子と出会う2年前に両親が決めて結婚して既にいたのだという。しかもその妻を母が気に入っていたからおいそれと離婚とは行かなかったらしい。ただそれで引き下がれない伊藤は木戸孝允に母を説得してもらって離婚、梅子を身請けする。この時に梅子は文字を学ぶように伊藤に言われたという。それは伊藤が旅先から手紙を書けるようにだという。後に梅子は伊藤の代筆までしたというから、かなりの努力をしたことが覗える。

 

社交界を取り仕切った賢夫人

 正式に結婚後も伊藤は各地を飛び回っていて新婚生活どころではなかった。しかも伊藤の家には長州藩士達が宿の代わりにしょっちゅう泊まりに来ていたらしいが、梅子は家を切り盛りしていた。伊藤は命がけで各地を飛び回っており、いざという時のために致死量のモルヒネを着物の襟に縫い込むように梅子に頼んだこともあったという。

 明治になると伊藤は兵庫県知事となったことから梅子は神戸に引っ越す。この時に長女が亡くなるという不幸があったが、東京に仕事で行っていた伊藤はすぐには戻れなかったという。その後、東京に移るが、伊藤は欧米視察のために海外に渡る。その間に梅子は井上馨の兄の長男である勇吉を養子として引き取ったという。母代わりで面倒を見ていた勇吉の祖母が梅子のことを見込んでいて、死ぬ前に梅子に勇吉のことを託したのだという。後に勇吉は博邦と改名して伊藤の後継者となったという。

 日本では不平等条約改正のために欧化政策を進めていたが、その象徴が鹿鳴館だった。しかし欧米文化に馴染みのない日本人は猿まねと欧米人から皮肉られたという。しかし梅子は英語の猛勉強をして英語で手紙が書けるところまでなったという。また貴婦人70人を引っ張り出して社交ダンスの習得なども行ったという。そして宮中の女官が和装から洋装に変わることになった時に、その洋服制作に梅子が起用されることになったという。

 そして伊藤は初代の内閣総理大臣となる。英語を使いこなし、細やかな気配りを見せる梅子は「賢夫人」と呼ばれたという。梅子の英語の家庭教師をしていた津田梅子は「伊藤夫人は子どもに対して良い母親である」と記しているという。しかし同時に伊藤には問題があったことも記している。

 

女癖の悪い伊藤を大目に見ていた度量

 伊藤の問題とは女癖の悪さ。衣食住に興味がなく金銭にも無頓着な伊藤だが、とにかく女遊びが好きだったという。あまりの女癖の悪さに明治天皇が「ほどほどにしたらどうだ」と言ったぐらいだったとか。しかも伊藤は浮気相手の芸者を家に連れてくることまであったらしい。それでも梅子は芸者を丁重にもてなしたという。激務に耐えている夫の女癖の悪さは大目に見ていたようだ。ただそれでも伊藤が住み込みで働いていた若い女中に子どもを産ませた時には「あの子の人生を台無しにするおつもりですか」と激怒したという。梅子は彼女が産んだ子どもを引き取って自分の子どもと一緒に育てたという。

 そんな梅子の意外な趣味は花札だったとか。伊藤が賭け事が嫌いなので、伊藤が寝た後に近くの西園寺公望や井上馨を呼んで花札に興じていたとのこと。伊藤が途中で起きてきて見つかって怒られたこともあったらしいが、これだけは辞めなかったとか。

 伊藤は朝鮮で日本の統治に反対する活動家に暗殺されるが、この時に梅子はショックを受けてはいたものの涙は流さなかったという。以前から伊藤に「自分は畳の上では満足な死に方は出来ぬ。敷居を跨いだ時から、これが永遠の別れになると思ってくれ。」と言われていて、常に覚悟が出来ていたからだという。


 まあすごい女性ですな。こういうしっかりした女性が後方を守っていたからこそ、伊藤も思う存分に仕事が出来たと言うことだろう。まさに良妻賢母と言いますか、日本的賢夫人そのものですが、今時は女性にこういうものを求めるのはあからさまな性差別でしょう。

 

忙しい方のための今回の要点

・日本最初のファーストレディとなった梅子は、追っ手に追われていた伊藤を匿ったことから伊藤と知り合う。
・その後、伊藤は置屋に身売りされた梅子を身請けして、二人は結婚することになる。
・しかし結婚後も伊藤は各地を飛び回っていて、二人でゆっくり出来ることはなかった。
・明治になると欧化政策の象徴として鹿鳴館が出来るが、欧米文化に馴染まない日本人は猿まねと揶揄されていた。そんな中で梅子は自ら英語を学び、70人の貴婦人達を率いて社交ダンスの練習をするなど、伊藤の政策に協力する。
・伊藤が初代総理大臣となった後は、梅子は英語を自由に駆使して細やかな気遣いを見せることで「賢夫人」と評価される。
・伊藤は女癖が悪く、浮気相手の芸者を家に連れてくることまであったが、梅子は伊藤の浮気を大目に見ていたという。ただし伊藤が若い女中を妊娠させた時は「この子の人生を台無しにするつもりか」と激怒し、子どもを引き取って自らの子どもと一緒に育てたという。
・朝鮮で伊藤が暗殺された時も、日頃から「自分は畳の上では死ねない」と伊藤から言われていた梅子は涙を流すことはなかったという。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・尊皇の志士は結構芸者と結婚している例が多いといいます。一渡りの習い事などをしているので社交界で即戦力になったとかで。もっとも実際はそんなことよりも、尊皇の志士たちが芸者遊びが大好きだったってのが実態の気もしますが。

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