教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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番組リスト

11/4 BSプレミアム 英雄たちの選択「奮闘!世直し江川大明神 幕末"海防の祖"江川英龍」

「世直し江川大明神」

 今回は幕末に海防の重要性を訴えて幕府に建白書も挙げていたという重要人物、伊豆韮山の代官だった江川英龍である・・・と言っても大半の人が「誰?」って反応だと思うのだが、実際私も聞いたことのない名前である。どうやら磯田氏によるマニアックなチョイスか。

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江川英龍

 江川家は代々韮山を治める家であり、世襲で韮山の代官を務めていたのだという。江川英龍は非常に職務に真面目な人で、自身は常に粗末な衣服を着ながらも現場を重視して自ら視察に回っていたらしい。

 英龍の代官としての管轄地は内陸の甲斐にも及んでいた。甲斐で一揆が発生したとの報を聞いて英龍は現地に駆けつける。英龍が行商人に扮して甲斐の実情を調べたところ、地元の役人や名主などが賄賂を受け取るなどの汚職をしていたことが判明する。そこで英龍はこれらの腐敗役人を一掃し、自らが陣頭に立ってこの地の建て直しに励む。経済的に苦しむ農民には資金を低利で貸し付けるなどということも行ったという。ゲストの萱野稔人氏は英龍の政策は既に封建時代を超えて資本主義の時代を見据えていると発言していたが、確かに融資を元手にして投資することで事業を回すというのは資本主義の根本である。地元民は英龍の公正で目の行き届いた施政を讃えて「世直し江川大明神」との幟を立てたと言われている。

 

海防強化を訴える建議書を幕府に何度も提出

 そんな英龍が気にかけていたのが海防であった。英龍は海防の強化を訴える建議書を幕府に提出していたという。江川家には海防の最先端と言われた「海国兵談」の書や世界地図も残っており、英龍は日本が水路で遠く欧米にまでつながっているという事実を実感していたのだという。またこの時代には既に沖合で異国船の姿を見かけることが頻発していた。異国船が首都である江戸を目指す場合、最初に中継拠点として制圧をするなら伊豆半島であろうとの読みが英龍にはあった。しかし海防を命じられている藩は財政的に破綻状態で、沖合に大兵力を貼り付けることなど到底不可能で、有事の際に武士だけで対抗することは到底不可能であった。このために英龍は農民を訓練して農兵として有事に対処するという建議書をさらに幕府に対して提出していた。しかしこれは兵農分離をを基礎とする幕藩体制を根本から否定するものであり、幕府としては到底受け入れられる方法ではなかったため、江川の進言は却下されることになる。しかし英龍は諦めずに33通に及ぶ建議書を幕府に提出し続けたという。

 しかし時代の方が激動する。アヘン戦争で海外の脅威を感じた幕府は長崎で西洋砲術を身につけた高島秋帆が指揮をして100人を動員した演習を行う。英龍もこの演習を見学し、これが英龍の農兵への意識を高めたのだろうという。全員が最新鋭の鉄砲を装備して密集して射撃するという戦法は、まさに農兵を起用する必要性のある戦法であった。英龍は早速秋帆の門下生となり、砲術の免許皆伝を受けて指導の許可も幕府から取り付ける。英龍は自らの屋敷を開放して塾を立ち上げて西洋砲術の指導を行った。塾生には佐久間象山や後の幕府の陸軍奉行となる大鳥圭介がいるという。また農民を動員しての隊列の訓練なども実施していたという。英龍は自前の軍隊の設立まで視野に入れていたのだという。

 1849年にイギリス軍鑑マリナー号が来航し、警告を無視して測量を開始するという事件が起こる。ここで英龍が幕府から交渉の命を受ける。英龍は異国との交渉のために鮮やかな野袴を身につけ乗り込み(外交にはハッタリが必要だし、先方に自身を重要な交渉相手と認識させるには服装は重要である)、国際法の知識や船舶法を織り交ぜて交渉してマリナー号を退去させた。

 

ペリー来航でついに幕府中央に起用される

 その4年後にペリー来航が起こる。開国と通商を求めたペリーは1年後にもう一度来航することを告げて去る。慌てた幕府は英龍を勘定吟味役に任命、53才にして英龍はようやく自身の政策を幕府に進言できる立場になったのである。英龍は対応策を幕府の面々と審議する。

 ここで英龍が行える選択は2つ。一つはとりあえず急遽砲台を築いて迎え撃つという政策。もう一つは諸外国に対抗するために海軍を創設するという政策。現在は禁止されている大型船を建造して大砲を搭載して諸外国に対応できる海軍を作るという案である。

 これについて2は期間的に間に合わないというのがゲスト全員一致の考えだが、1は根本的解決にならないと言うことで磯田氏などは「どちらも選択したくない」という意見。これは分かる。逆に私は「どちらも直ちに今すぐ始める必要があるのでは」というところ。

 英龍の選択は軍船の購入と製造が必要というもの。軍の創設を早急に行うことを訴えた。さらには三浦半島と房総半島の間の浦賀水道に砲台を設置することも提案したという。しかしこの案を幕府は受け入れず、結局は品川沖に砲台を作るというかなり縮小された案にされる。予算と期間の関係で英龍の浦賀案は困難と幕府が判断したのだという。台場建造の陣頭指揮をとる海防掛に任命された英龍は砲台建設に邁進する。予定では11カ所の台場が建設させることになっていた。一方英龍は韮山で大砲製造のための反射炉の建設を始める。 

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品川台場内部

私の訪問記はこちらです

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ペリー再来航が早まったことですべて中途半端になる中で奮闘するが

 しかし予定が変わる。ペリーが予定よりも遥かに早い半年後に来航したのである。英龍は江戸で交渉のお膳立てを行う。そこで条約が締結される。その後も台場の建設は続けられ、翌年に3基が建造される。さらに8基の建造を急ぐ英龍に対し、条約締結で問題解決と考えた幕府府は計画の縮小を命じてくる。これには英龍は「これでは竹の先へ紙をつけてそれを立てておいて、そうして敵を防ごうとするようなものと同じことだ」と激怒したという。不満を感じる英龍だが、その後の台場の建造と韮山での反射炉の建設に注力する。

 そんな時に安政東海地震が発生、関東から近畿にかけて大被害が出る。この時に日本と貿易交渉に来ていたロシア船が津波と地震で大破、英龍は幕府の命で下田に急行し船員達が帰国できるように戸田で新たな洋式船の建造に従事したという。英龍にはこの際に洋式船建造の技術も得ることを考えていたという。しかし江戸と韮山と戸田を移動して職務に励んでいた英龍の身体に変調が表れる。江戸で病に倒れた英龍は1855年に55才でこの世を去る。台場と反射炉の完成をまだ見ることもないうちの死であった。明らかな過労死である。

 結局は英龍の意志は幕府ではなくて新政府で継がれることとなってしまった。韮山の反射炉はその後に建設され、現在は世界遺産にも登録されている。志半ばで散ってしまったこともあって英龍の名もあまり残らなかったようである。

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世界遺産の韮山反射炉

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ここに溶けた鉄が出てくるらしい

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江川義龍の像が立っている

 

 英龍の考えはかなり先進的なものであり、ある意味で既に明治維新を先取りしていたと考えられる。晩年になってようやく自分の提言が採用されるようになって使命感とやりがいで必死で働いていたんだろうが、身体の方が限界が来てしまったということだろう。絵に描いたような過労死パターンである。残念なのはこの時に英龍を補佐して、英龍を仕事を託せるという腹心のような人物がいなかったこと。チーム制で仕事を分担できたら英龍も過労死することはなかったろう。ただ英龍はあまりに時代の先を行っていたから、幕府側に英龍に付いていける人材はいなかったのだろう。傑出していたために余人を持って代えがたい人材であった故の悲劇である。

 この時に英龍がなくなっていなかったら「もしかしたら幕府の手によって明治維新がなされていたのでは」という声が出ていたが、それは英龍の影響力を過剰評価しすぎだとしても、その可能性は全くなかったわけではない。こういう有能の人材をなかなか起用できなくて、しかもサポートすることも出来ない組織というのは、やはりその時点で命運が尽きていたとも言える。幕末を見ていると幕府側にも建て直しを可能とし得る人材は登場していたのだが、早死にするか(過労死が多い)、中枢部と対立して除外されるかで結局は活かせていない。まあそれが組織の終わりというものでもある。

 

忙しい方のための今回の要点

・韮山の代官の江川英龍は、甲斐での一揆の際に不正役人を一掃して民衆から「世直し江川大明神」と崇められた人物である。
・彼は欧米の驚異に対して海防の強化を訴える建議書を幕府に提出、その中では農兵の起用にまで及んでいたが、幕藩体制の基礎を揺るがしかねない進言に幕府は却下する。
・イギリスの軍鑑マリナー号が警告を無視して浦賀と下田の測量を開始した際には、英龍は毅然とした対応にょってマリナー号を退去させた。
・ペリーの来航で危機的状況となった幕府は、英龍を勘定吟味役として起用して対応策を検討。英龍は軍船の建造と浦賀水道の砲台による封鎖を提案するが、予算の問題などから品川沖の台場設置に計画は縮小される。
・英龍は台場建設と同時に韮山で大砲製造のための反射炉の建設を開始する。しかしペリーの来航が早まり、条約が締結されることとなる。
・条約が締結されたことで台場の建造は大幅に計画縮小、英龍は烈火のごとく怒ったらしいが、3基の台場の完成に邁進すると共に、下田沖で津波で大破したロシア船の船員のための洋式船を戸田で建造しつつ洋式船建造の技術の獲得を目指す。
・しかし江戸と韮山と戸田を移動して働いてした英龍は、過労死でこの世を去る。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・日本型組織ってのは、往々にして「優秀な人間が全ての業務を背負ってしまった挙げ句に過労でつぶれてしまう」という結果になりがちです。私も実際に「優秀だったがゆえにつぶれてしまった奴」を何人か見かけています。まあ優秀とはほど遠い私には無縁の世界ではありますが。

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