教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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番組リスト

11/11 BSプレミアム 英雄たちの選択「バサラ大名 佐々木道誉 乱世を駆けぬける!」

バサラ大名・佐々木道誉の生涯

 従来の価値観に囚われず生きるのがいわゆるバサラという生き方。南北朝時代にまさにそのバサラそのものの大名が佐々木道誉だという。

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佐々木道誉

 

寝返りを重ねつつ、室町幕府の要人に

 鎌倉幕府の配下であった佐々木道誉は、27才で検非違使に任じられるぐらいのエリート御家人だった。後醍醐天皇が決起して敗北、隠岐に流される時に護送したのが佐々木道誉だという。道誉はこの時に後醍醐天皇から幕府を撃つべき理由などを聞かされたという。天皇の挙兵がきっかけとなって、各地にに反鎌倉幕府の兵が挙兵し、後醍醐天皇も興を脱出する。鎌倉幕府は鎮圧に足利尊氏を派遣する。しかし道誉は尊氏をもてなし、後醍醐天皇から鎌倉幕府討伐の綸旨を受けたとして尊氏と共に寝返ってしまう。尊氏は六波羅探題に攻め込み、道誉は鎌倉に逃げる北条仲時ら六波羅探題の軍を蓮花寺に追い込んで自害させたという。

 間もなく後醍醐天皇による建武の新政が行われ、道誉も雑訴決断所の幹部に抜擢される。しかし後醍醐天皇の政治は貴族を重んじて武家を軽んじるものであり、恩賞などにも不公平があって武士の間で不満が高まっていく。

 2年後、北条の残党が信濃で放棄して鎌倉が占拠される。尊氏は討伐軍を率いて鎌倉に向かい、鎌倉奪還に成功するがそのまま鎌倉に居座って天皇の許可なく恩賞を与え始める。これに対して後醍醐天皇は尊氏を朝敵として討伐軍を派遣する。尊氏と共に従軍していた道誉は尊氏に天皇方と戦うことを強く促したという。道誉は討伐軍と激戦し、弟は討ち死にして自らも痛手を負う。ここで道誉は後醍醐側に寝返ってしまって尊氏軍と戦う。しかし尊氏側が他の戦場で優勢との情報に再度寝返って後醍醐側の軍勢を蹴散らしてしまう。なおこの時の道誉の寝返りは偽装だったのではという説もあるという。やがて室町幕府が開かれると、道誉は若狭や近江の守護となり幕府の中心人物となる。

 道誉の生き様だが、とにかく裏切りに抵抗を感じていないことは確かだが、これはこの時代の武士としては当たり前の生き方でもあるという。むしろ自分に利益をもたらさない者に付く方がおかしいという考え方である。番組ゲストからはヤンキー的だがパリピーでもあるとかいろいろな指摘が出ていたが、「俺様一番」が徹底した輩だったのではという気はする。

 

バサラ大名としての奔放な行動

 幕府で重用される道誉だが、幕府が開かれた3年後に事件を起こす。ある寺の紅葉の枝の美しさに目を奪われて家来に「あの枝を折って持ってこい」と命じたのだが、その寺が門跡寺院で僧兵によって家来はボコボコにされてしまう。これに怒った道誉はその晩に兵を率いて寺を焼き討ちにしてしまって、挙げ句に寺の宝物まで奪い取ったという。当然ながら焼き討ちされた寺の本山である比叡山延暦寺は激怒、幕府に道誉の死罪を要求する事態になる。この前に美濃守護の土岐頼遠が天皇の兄の車に矢を射かけて死罪にされたという事件があったところで、道誉の処罰がどうなるか注目されたという。しかし処分は上総の国への配流という軽いもので、道誉一行は一族郎党を引き連れて遊女まで連れて罪人一行とは思えない有様で上総に向かったという。しかも猿を神の使いとして叡山への当て付けとして、猿の毛皮を腰に巻いていたとか。

 まさにバサラ大名そのまんまの奔放な行動だが、実際には道誉は単に無茶をしているのではなく、どこまでならOKかのしたたかな計算をしているという。土岐頼遠が死罪になったのは室町幕府を正当化する根拠である北朝の権威を貶める行為であったからだが、道誉が楯突いたのは叡山であり、力を持つ叡山のことを快く思わない武士は少なくないので、むしろ内心は「よくやった」ぐらいの感覚があるだろうという。道誉はその辺りの計算が出来るしたたかな男だったという。

 また幕府にとって道誉は欠かせない存在だったという。道誉は連歌の名人であり、連化の宴会をプロデュースすることで武家と公家を融和させる重要な役割を果たし、朝廷への窓口だったという。実際に処分から4ヶ月後に尊氏は道誉を呼び戻して幕府の政治に復帰させている。ちなみにゲストから「何を考えているから分からない」と思わせるのはマインドコントロールの一つの手法であり、道誉はその辺りに長けているとの指摘があったが、これは面白い観点。

 

尊氏の死後の権力争いでのしたたかな行動

 幕府が開かれた14年後には尊氏と弟の直義とが対立する観応の擾乱が発生する。この時に直義は南朝と結んで後醍醐天皇から尊氏討伐の綸旨をもらっている。これで直義が有利となる。この時に道誉は尊氏を説得して尊氏が南朝に降伏するという離れ業で直義追討の綸旨を獲得して形勢を逆転させる。こうして観応の擾乱は2年で終息するが、間もなく尊氏が戦いで受けた傷が元で他界、義詮が二代将軍となるが、この義詮が他人の意見に動かされやすい頼りない人物だったらしい。

 この頼りない将軍を補佐するのが細川清氏、仁木頼章、土岐頼康、佐々木道誉ら有力守護らからなる評定衆だったのだが、当然のようにこの中で激しい勢力争いがなされることとなる。まずは仁木義長兄弟が6カ国の守護を兼ねて他の守護の土地を奪うなどの問題を起こした挙げ句に、義詮を軟禁するに至った。この時に道誉は義詮を救出して他の評定衆と共に仁木を京から追い落とす。すると次は細川清氏が台頭、道誉に圧力をかけてくるが、道誉は清氏が義詮を呪う祈祷をしていると密告して清氏は討伐された。

 こうやって足利一門を追い落としていく道誉の前に立ちはだかったのが、やはり足利一門の斯波高経である。幕府の要職を独占した高経は強引な政策を進めていく。ここで道誉の選択である。高経の好きにさせるか高経を排除するかである。

 ここで道誉が行っていたことであるが、歴史家の呉座勇一氏によると、ナンバー2を追い落とすということだったという。つまはナンバー2が登場すると将軍の地位が危なくなるのでナンバー2は不要というのが道誉の考え方だったという。オーベルシュタインかいっ!!とツッコミ入れたくなったが、とりあえず道誉の対応としては意見は分かれていたが、私の意見は「ここまでやったのならどうにかして高経もやっちゃうでしょ」ってもの。

 で、道誉のやったことであるが、高経が公家や守護達を将軍御所に招いて盛大な花見の宴を開催して斯波氏の権勢を見せつけようとした時、道誉は高経の招待に「参加する」と返答しながら、同じ日に10キロほど離れた大原の勝持寺で盛大な宴を開いたのだという。その内容たるや毛氈を敷き詰めて寺の高欄には金箔を施すという豪華なもの。また巨大な香炉に名香を一気に炊かせるという派手なものだったらしい。ここには大勢のお客が押し寄せる。おかげで高経主催の花見は客が来ずに閑散となり、高経の面目は丸つぶれとなった。当然高経怒り、道誉の摂津守護職を召し上げるのだが、これは高経が道誉の挑発に乗ってしまったのだという。道誉は多くの守護を味方につけ、高経のような政務に私情を挟む者は天下の政を担えないと義詮に進言して、高経を追放する。まんまと高経を排除してしまったわけである。

 道誉の滋賀県甲良町では荒れ地の開墾などを行い、領民達に慕われたという。領民から非常に高く評価された領主だったらしい。なお道誉は「私の世間の噂など気にしない。新たのすることは理解されなくてもよい。」という言葉を自身の肖像画に自筆で記している。どうやらとことん「ゴーイングマイウェイ」の人物だったようである。

 

 道誉の花見についていささか下品なのではないかという指摘もゲストから出ていたが、呉座氏は「まだ東山文化なんかも出ていない時代の先駆けだから洗練されていないのは仕方ない」というフォローが入っていたが、何しろ金閣寺もまだ登場していない時代なわけだが、まあ成金趣味的なものは確かに致し方なかろう。それにしても欲やらそういう人間の本質というものをあからさまに暴き出す人物でもある。

 バサラと言えばどちらかと言えば戦国時代のイメージがあるが(まさにそのまま「戦国BASARA」って作品もありましたね)、そういう反権力的な生き方というのはいつの時代にもあったと思われる。例えば平安時代の小野篁なんかも大概な生き方してますから(笑)。もっとも佐々木道誉の場合、反権力ってよりも室町幕府の中で影響力を増すための活動に余念がないのですから、権力に背を向けてはいないですね。

 

忙しい方のための今回の要点

・鎌倉幕府のエリート御家人だった佐々木道誉は、後醍醐天皇側について鎌倉幕府打倒に活躍する。
・しかし建武の新政は武士にとっては不満の多いものであり、道誉は尊氏と共に後醍醐天皇に背く。その結果として、道誉は室町幕府での重要人物となる。
・道誉は連歌の才に優れ、公家との連絡役のような役割を果たしていたため、室町幕府でも重視される。だから比叡山ともめた時も軽い処罰で済んだ。
・観応の擾乱では尊氏を説得して南朝に降らせるという大技を行い、結果として劣勢を挽回して尊氏を勝利に導いている。
・尊氏の死後は頼りない息子の義詮を支える評定衆の一員となる。評定衆内では権力争いで次々と主導権を握ろうとする者が現れるが、道誉はその度に巧みにその人物を排除していく。
・結果として道誉は室町幕府の重臣として義満の時代に至るまで仕えることとなる。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・バサラをどう定義するかですね。バサラと言えば前田慶次のイメージが強いですが、前田慶次は風来坊のようなもので、結局は要職に就いたりしていない。それに対して佐々木道誉はもろに用心ですからね。行動には破天荒なところがあるが、非常に計算高い政治家という側面が強い。

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