教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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番組リスト

11/18 BSプレミアム 英雄たちの選択「新視点!信長はなぜ本能寺に泊まったのか?」

歴史のターニングポイントであった本能寺の変

 歴史における重大事件としてトップ5ぐらいには挙げられるであろう本能寺の変だが、この時に信長か討たれていなかったら当然のように歴史は大きく変わったろうが、その影に隠れているがもう一つ極めて大きかったのが嫡男の信忠も信長と共に討たれてしまったということがある。もし信忠が生き残っていたら、信長がいなくなったとしても速やかに織田家の頭領が信忠に入れ替わって織田家は力を失わなかった可能性が高い。実はこの時の信忠の選択が歴史を変えたわけである。

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織田信忠像、やはり信長に似ている

 

自らの実力を見せることで信長の後継者となった信忠

 さて信忠とはどういう人物であったかであるが、信長の長男として生まれた信忠は嫡男として育てられ、次男以降の男子は養子に出されている。信長は信忠を厳しい帝王学で育てる。家臣が「信忠様は器用な人で皆の予想に違わぬことをされる」と評価したらしいのだが、これに対して信長は「家臣に手の内を読まれるなど信忠は大将の器ではない」と言ったらしい。周囲の予想を違える奇想に動いた信長らしい評価ではある。また信忠が能が好きであることに対して「武将たる者が能にうつつを抜かすとは」と怒って信忠の能の道具を捨てさせたという。

 厳しい父親の元で英才教育された信忠であるが、長篠の戦いの後の武田攻略の総大将に抜擢されたのが19才の信忠である。信忠は堅固な岩村城の攻略に苦戦し、5ヶ月も城を落とせない状態になる。そこに武田の援軍が迫ってくる。それを聞いた岩村城兵は討って出る。しかしこの時に信忠は自ら先陣として討って出て、大将格21人を討ち取って返り討ちにしたという。これで岩村城は落城している。これに信長は茶器などの名器と尾張・美濃などを与え、信忠に家督を譲ることを表明した。信忠は自らの実力で家督を確実にしたのである。そして6年後には自ら先陣を切って高遠城を1日で落城させ、武田を滅亡させている。ここで信長は信忠に天下を譲ることを表明する。織田家の家督のみならず天下人の地位も信忠に譲ることにしたのである。

 26才と若年で亡くなったことからどうも信長の影に隠れてあまり評価されていないが、信忠は概ね優秀な人であったことは間違いなく、信長も自らの後継者として信頼していたようである。こうして織田家も信忠に譲られていく状況になっていた。

 

信長が本能寺に宿泊した理由

 では京の惣構えの外という決して防御が絶対的に堅固とは言えない本能寺(と言っても幅広い堀や土塁に囲まれた要塞ではあったのだが)に信長が宿泊したかだが、信長の京での宿舎としては妙覚寺や信長が京での宿舎として建造していた二条御新造などもあったという。しかしこの時には信忠も京を訪れていて兵500を率いて妙覚寺を宿舎にしており、二条御新造は皇太子誠仁親王に提供していたので、信長が泊まれるのは本能寺しかなかったのだという。

 そして信忠と信長が共に京に上洛していた理由であるが、これは信長が自身の官位である右大将(武家の統領を意味する)を信忠に譲りたいと考えて朝廷工作を行っていたからではないとする。この時はいつもなら「面倒臭い」と公家衆との面会を断っていた信長が彼らに面会して茶器の披露まで行っており、朝廷工作の一環ではないかと推測されるという。

 まあ何にせよ、信長が自分の勢力圏の京で誰かに攻撃されるという可能性を全く考慮していなかったのは明らかであり、そこに信長の油断があったとされる。つまりは信長は光秀の謀反を全く予見していなかったということになる。

 

織田家の運命を決めた信忠の選択

 しかし本能寺が光秀軍1万5千の軍勢に襲撃される。本能寺と信忠のいる妙覚寺の距離は600メートルほどなので本能寺の騒ぎはすぐに信忠にも伝わった。ここで信忠の選択である。1.直ちに本能寺へ救援に向かう。ただし500の兵では光秀軍1万5千にかなうわけもない。2.安土城に撤退する。しかし途中で光秀の兵に補足される可能性もある。3.光秀を迎え撃つ。とは言うが多勢に無勢でかなうはずもない。以上の3つである。これについて番組ゲストは「後世に名を残すということを考えると」と3を支持するものが多かったが、磯田氏は「迷わず安土に撤退」とのこと。これは私も全く同感。ここはそれこそ雑兵に身をやつしてでもとにかく生き延びることを優先して、なりふり構わなずに逃げることこそが重要だったと考える。

 しかし真面目な信忠は妙覚寺よりも守りが堅いと考えた二条御新造に移って明智勢を迎え撃つ選択をする。新陰流の免許皆伝で実は剣の達人であった信忠は、自ら剣を振るって十七人を切り伏せたという。しかし追い詰められて家臣に遺体を隠すことを命じて炎の中で切腹して果てたという。実はこの時の光秀は京の出口を押さえてはおらず、信忠がなりふり構わずに逃亡していたら逃げ切れた可能性は高いという。

 

 こうして織田家は力を失い、天下は秀吉、家康のものとなっていくのであるから、歴史の大きな歯車である。信忠が安土に逃げおおせたとして、光秀を討つのは秀吉の方が早かっかった可能性があるとの話が出ていたが、いくら秀吉といえども信忠が健在では光秀を討ったからと言って織田家から実権を奪うのは無理だろう。せいぜいが織田家家臣の筆頭となって時機を覗うぐらい。まあ次は秀吉が本能寺パート2を実行して信忠を討つ可能性もあるが。

 ここで信忠の立場が信長なら、迷わずになりふり構わずに逃亡したと推測できる。信長はとにかく逃げる時は徹底して逃げる人物で、それは朝倉攻めの時に披露されている。このなりふり構わぬ逃亡というのを信忠に伝授していたら、織田の天下が終わることもなかっただろうに。

 

忙しい方のための今回の要点

・信忠は武田攻略で活躍して信長に力量を認められ、織田家の家督のみならず天下人としての地位までも譲られる。
・信忠と信長が同時に京にいたのは、信長が自身の右大将の官位を信忠に譲るための朝廷工作をしていたからだと推測できるという。
・また信長の京での宿舎は、妙覚寺、二条御新造、本能寺があったが、妙覚寺には信忠が宿泊しており、二条御新造は皇太子誠仁親王に提供していたので、比較的防御が手薄な本能寺しか残っていなかったという。
・本能寺の変は600メートルほどしか距離がない妙覚寺の信忠にもすぐに伝わった。ここで信忠は直ちに安土に撤退するという選択肢もあったのだが、途中で光秀の兵に補足されることを恐れて、光秀軍を二条御新造で迎え撃つという選択をする。信忠は自ら刀を振るって獅子奮迅の戦いをしたが、多勢に無勢で敗北して炎の中で切腹して果てる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・信長も天下人になって、息子達には自身のええ格好しか伝えてなかったのかなという気がする。とにかく手段を選ぶなとか、何が何でも生き残れとか、場合によっては強い者には頭を下げてやり過ごす利口さも必要とかの、ここに至るまでの「えげつない」やり方を息子に伝えてなかったのではという気がする。信忠が信長のえげつなさの半分でも継いでいれば・・・。

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