教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

11/5 BSプレミアム ザ・プロファイラー「上杉謙信 君よ"義"に生きろ」

動乱の越後で若くして総大将として出陣

 陰謀渦巻く戦国時代にひたすら義を貫いた異色の武将、上杉謙信。その異色さと抜群の戦の強さで人気も高い武将であるが、その上杉謙信を紹介する。

 上杉謙信は越後の守護代の長尾為景の次男・景虎として生まれる。この時代には既に越後の守護の力は弱まり、各地で反乱が発生しているのを守護代の為景がその抜群の武力で抑えている状態であった。

 景虎はいわゆる腕白小僧で弓や刀をもって暴れ回っていたという。7才の時に家督は兄の晴景が継ぐことが決まったので、景虎は林泉寺に送られそこで禅宗を学ぶことになる。

 しかし景虎が11才の時に越後に動乱が訪れる。今まで武力で越後を抑えていた為景が亡くなったのだ。為景の死で反長尾派が反乱を起こしていたので、為景の葬式は全員甲冑を着けてのものという異様なものだったという。景虎もこの時に甲冑を着て葬式に臨んでいる。各地で動乱が発生したが、家督を継いだ兄の晴景は子どもの頃から病弱だったので合戦の指揮を執ることが出来なかった。そこで兄に代わって14才の景虎が総大将として出陣することとなった。

 栃尾城での戦いでは6000の敵兵と2000の景虎軍が川を挟んで睨み合った。数日後、敵が陣太鼓を鳴らして川を渡ろうとし始めた。このままでは攻撃を受けてしまうと家臣達は急いで出陣するように景虎に訴える。しかし景虎は「今は兵を出す時ではない、しばし耐えよ」と命じる。これに対し家臣達は「結局は若造だ、臆病なことよ」と景虎を嘲ったという。しかし敵が川を渡って目の前に迫ってきた時に景虎は総攻撃の合図を出す。冬の冷たい川を渡ってきた敵兵は、身体が冷え切っている上に甲冑が濡れていて思うように動けない。そこを景虎軍は急襲してやすやすと撃退してしまう。この景虎の鮮やかな手はずには家臣達は舌を巻く。その後も景虎は次々と敵対勢力を打ち破って名を挙げる。やがて家臣達から景虎こそが当主に相応しいの声が上がり始める。そして19才の時に景虎は兄から家督を譲られる。この時に「自分だけの利益のために弓矢は取らない」という覚悟を語っているという。

 

 

家督を継いだものの家臣が離反、出奔してしまう景虎

 景虎が20才の時に越後の守護の上杉定実が死亡し、景虎は実質的に越後の領主となる。そして24才の時には兄も死亡する。この頃に信玄に追われた信濃の領主達が景虎を頼って落ちてくる。これを景虎は見捨てることは出来ないと信濃に出兵して信玄と戦う。これが第一次川中島の合戦である。この戦いで、通常は前線の背後に大将は控えるのが常識の中で、景虎は自らの回りに精鋭戦力を集めて、自分が先頭に立って自ら太刀を振るって戦ったという(越後バーサーカー軍団の誕生である)。景虎は自らを戦いの神である毘沙門天に重ねていた(ビシャえもんの誕生である)

 しかし景虎が奮闘したがこの戦いでは勝利を収められず、2年後再び信玄と戦うが長引く戦いに疲れて戦線を離脱する家臣が出始める。ひたすら義を掲げて戦う景虎だが、家臣達は戦いの目的を見いだせずに景虎についていけなかったのである。こうして第二次川中島の合戦も決着が付かずに終わる。゜

 翌年、27歳になった景虎は突然越後を出奔する。林泉寺の住職に「家臣達の意見がまとまらず見放されたように感じる。このままでは大名としての仕事を続けられそうにない」との手紙を送っているという。景虎は高野山に向かい、そのまま僧侶になるつもりだったという。しかし2ヶ月後、長尾家の家臣か景虎の居場所を突き止めて追いかけてくる。重臣の一人が信玄と内通して挙兵したことを伝え、「国衆の面々が困っているのに亡き兄の命に違えてこのまま隠遁するおつもりですか。先祖代々の武名が穢れることになります。」と景虎を説得する。この言葉を聞いて景虎は帰国、謀反を起こした家臣を追放して越後の動乱を鎮める。

 

 

室町幕府を盛り立てることを考えていた謙信

 景虎は室町幕府の権威を高めて将軍を中心として社会を安定させることを目指していた。景虎は将軍に貢ぎ物を献上して越後の国主と認めてもらったことで、それまで景虎に逆らっていた領主達も景虎に従うようになった。このような景虎の財力の源は青苧で麻の一種でその繊維には光沢があり、これを織った布は越後上布として都でも珍重されたという。景虎はこの青苧の栽培を奨励していた。

 景虎が29才の時に足利義輝から上洛を促す手紙が届く。これに対して景虎は「越後を失っても幕府の権威が復活するようにする」と返答している。そして翌年、5000の兵を率いて三好を倒すために上洛するが、三好の抵抗に遭って1500の兵しか京には入れず、将軍との面会もかなわなかったという。しかしその2ヶ月後、義輝から関東管領の地位を与えられる。これを受けて景虎は北条氏康の征伐に向かう。景虎は軍勢を率いて小田原城に迫り、鎌倉で正式に関東管領に就任し、この時に上杉氏の養子となり上杉輝虎を名乗り、後に謙信を名乗るようになる。そして総勢10万の軍勢で小田原城を囲むが、1ヶ月経っても城が落ちず、軍からは脱落者が出、越後も信玄が侵攻してきたとの報が入ったことから謙信は引き返すことになる。

 

 

織田信長との親交と対決

 そんな時に謙信に接近してきた武将が織田信長だった。信長は謙信に鷹狩りのための鷹を譲って欲しいとの手紙を送ってきた。これは謙信に親交を求める意味だった。謙信は鷹を送ってやり、その後もやりとりを繰り返す。信長からは狩野永徳の洛中洛外図屏風が送られてきたという。そして謙信が35才の時には信長から息子を養子にして欲しいとの書状までが送られてくる。信長は謙信を使って信玄を牽制しようとしていたのだという。

 そして信長は義昭を擁して上洛、三好勢を駆逐する。しかし信長が義昭を京から追放したことで謙信は激怒する。これをきっかけに謙信は信長が領土を拡大していた越中、能登を攻略する。謙信が能登の七尾城を攻撃したことで、信長は3万の援軍を送るが、援軍到着の前に七尾城は落城、引き返そうとした織田軍の背後を謙信が急襲する。折しも豪雨のために鉄砲は使えず、増水した手取川を渡ろうとして多くの織田の兵が犠牲となる。この完勝劇に謙信は「信長も案外弱い。この分だと天下まで進むのも簡単だ。」という文を家臣に送っている。しかし越後に引き返した謙信は、再度の戦の準備中に突然倒れてそのままこの世を去る。49歳だった。

 

 

 よく言われている謙信の生涯ですが、49歳という没年は当時の一般人としては極端に早いというわけではないですが、武将としては早いです。なお謙信は脳卒中が死因と言われていますが、その原因は明らかに飲み過ぎだろうとされています。何しろ合戦中でも馬上杯でグビクビやっていたらしいですから。もっともこれについては、アルコールで恐怖心を麻痺させて自ら陣頭で戦っていたんではという説もあります。越後バーサーカー軍団を率いる謙信は実は単なる酔っ払いだったという話。

 なお最後の「この分だと天下まで進むのも簡単だ」について謙信の野望を示しているのかという話もあったが、これについては私も石坂浩二と同様に、単に京に上って信長を追い出すことも簡単という意味だろうと考えている。それまで天下を覗う気なんて微塵もなかったのに、ここに来て急に天下に色気を感じるなんてのはまずないだろう。

 それにしても謙信がここで死んでしまったのは信長にとってはこれ以上ない幸運と言えると思います。謙信の強さは本物ですから、さすがに謙信が本気で上洛してきたら信長と言えどもどうなったか分かりません。信長は多分鉄砲で迎え撃つでしょうが、武田が鉄砲でやられたことは当然謙信も知っているはずですから、少なくとも鉄砲に正面から突撃するようなことはせず、何らかの鉄砲を無効化する方法を取るはずです。夜襲をかけるとか、手取川の時のように豪雨のタイミングを突くとか、鉄砲陣地を構築できないように移動しながらの野戦を仕掛けるとか。頼みの鉄砲が効果を上げなかったから、尾張の兵自体は越後の兵と比べるとかなり弱いですから(昔から日本は兵は北方の方が強い)、織田軍もケチョンケチョンになる可能性が高いです。酔っ払った大将が自ら陣頭に立って攻めてくるバーサーカー軍団なんて、まともな神経していたらとても相手にはしたくありません。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・上杉謙信は越後の守護代の長尾為景の次男の景虎として生まれた。当時の越後は為景の武力で諸将を抑えている状態で、景虎は病弱で合戦に出られない兄をサポートするために武力を鍛えられたという。
・為景の死後、各地の反乱勢力を抑えるために景虎は14歳で総大将として出陣するが、そこで巧みな采配によって自軍の3倍の敵勢を撃破し、その武名を挙げる。やがて兄から家督を譲られ、実質的に越後の領主となる。
・その後、信玄に追われた信濃の領主達を保護し、信濃奪回のために信玄と戦うが、あくまで義を掲げる景虎についていけずに離反する家臣も出る。この事態に景虎は「大名として国を治めていけない」と出奔してしまう。
・結局は家臣達が景虎を追いかけてきて景虎は復帰、将軍に働きかけることで正式に越後の国主として認めてもらう。
・さらには関東管領の地位を与えられ、北条討伐にも乗り出す。この時に上杉家の養子となって上杉輝虎、後に上杉謙信と名乗ることになる。
・謙信の元には織田信長が親交を求めてくる。しかし信長が義昭を京から追放したことで謙信は激怒、信長支配下の越中、能登を攻略し、援軍として来援した織田軍を手取川で完膚なきまでに打ち破る。
・しかしこの後、謙信は突然に春日山城で倒れて49歳でこの世を去る。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・まあとにかく戦の強さに関しては傑出してたんですが、番組中でも言われていたようにビジョンがあったかといえば疑問な人なんですよね。とりあえず室町幕府を中心とした秩序を回復しようとしていただけで。果たして謙信が信長を打ち破って上洛し、義昭を京に呼び戻したとしても、果たしてそれで天下が鎮まるかはかなり疑問もあるんですよね。謙信の存命のうちは睨みを効かせられるかもしれないが、謙信が亡くなったら直ちに戦国時代パート2になるのがオチ。そうなったら伊達政宗や真田昌幸なんかに天下取りの芽が出てくる可能性がある。