教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

12/21 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「頼朝と天才仏師・運慶~東大寺再建プロジェクト」

天才仏師・運慶の生涯

 東大寺の金剛力士像で世界的にも知られる仏師・運慶。そもそも彼は非主流派の仏師であったが、あえてその彼を東大寺再建に起用したのは源頼朝だという。運慶の生涯と頼朝との関係について紹介。

f:id:ksagi:20201222220819j:plain

運慶

 

当時の常識を覆す画期的な仏像を製作する

 運慶は平安時代末の1150年頃に仏師・康慶の子として生まれた。早くから修行を積んだ運慶が独り立ちしたのは20代半ばだという。この時期に運慶が作ったとされる仏像が奈良の円成寺にある国宝の「大日如来坐像」である。この仏像はそれまでの常識を打ち破る画期的な作品だったという。

f:id:ksagi:20201222220857j:plain

画期的仏像の大日如来坐像

 この時代の主流の仏像は100年ほど前に定朝が確立した定朝様と呼ばれる仏像であり、これがこの世界のスタンダードとして特に貴族などに喜ばれたという。定朝が行った画期的な改革がそれまでの一木造からパーツごとに制作する寄木造を採用することで、多数の仏師での共同製作が可能となり、大量の仏像を生産することが可能になったのだという。当時はまさに末法思想の世で、救われたい貴族達は相次いで大量の仏像を発注した。これで定朝様の仏像が広がり、定番となったのだという。

 定朝の仏像が彫りが浅くて平板的なのに対し、運慶の仏像は非常に立体的で筋肉の表現などが実にリアルである。しかし実は運慶は本来は定朝の流れを汲む仏師であるという。

 定朝の技法は後に円派、院派、奈良仏師の3つに分かれて継がれていく。この中で円派と院派は京の貴族からの大量の仕事があったのに対し、奈良仏師は奈良の仏像の修理などを中心に細々と行っている非主流派の弱小工房だったという。それ故に既成概念には囚われず自由な気風があり、また様々な時代の仏像の修理を手がけたことなどから、多様な仏像を作ることが出来たという。そのような中で運慶は独自の仏像を作り出す野心を持ったのだという。非常に立体的で写実的な運慶の仏像は画期的であった。またこの時に運慶は玉眼という新しい技法を積極的に取り入れている。運慶がこのようなリアルな仏像を作ろうとしたのは、仏教が貴族達のものから一般庶民にも広がっていったことにも関係があるという。

 

源氏の世が到来して頼朝と接近する

 この4年後、以仁王が平氏に対する決起を促したことで各地の源氏や奈良の僧兵までが反平氏で兵を挙げる。これに対して清盛は武力鎮圧に出る。そして奈良に派遣した息子の重衡が奈良に火を放つ。これが南都焼き討ちである。これで興福寺は全焼、東大寺も大仏殿などの多くが焼けるという大災害となる。運慶はこの惨劇を目の当たりにしている。この3年後、運慶ら奈良仏師は奈良の再興を誓っている。

 そして平氏は滅んで源氏の世が訪れる。頼朝は鎌倉に父・義朝を弔うための勝長寿院を建立する。この際に頼朝が起用したのが奈良仏師である。これは円派や院派が平氏と関係が深かったことと、康慶が平氏政権が倒れることを予見して源氏に早くから接触していたからだという(なかなかの政治家である)。ただしこの時に起用されたのは定朝の子孫である成朝だったという。どうも頼朝が定朝の「ブランド」を重視したらしい。しかし結果的に成朝の工房は頼朝の要請に応えきれず、運慶が代わって起用ことになったという。

 運慶が起用されるきっかけとなったのは、北条政子の父である時政の依頼で願成就院の仏像を手がけたことだという。ここで運慶はそれまでの貴族好みの上品な仏像ではなく、力強いいかにも武家好みの仏像を製作した。これが高く評価されたのだという。

 

念願の東大寺再建に取り組む

 この後、運慶の経歴に7年の空白があるというのだが、実はこの間に頼朝が造営した大寺院である永福寺で起用されていたのではと推測されるという。この時、運慶はかなりの数の仏像を手がけ、鎌倉幕府お抱えの仏師となっていったと考えられるという。

 そしてついに運慶は悲願だった東大寺再建に携わることとなる。このプロジェクトには頼朝が積極的に関わっており、奈良仏師を起用するように働きかけていたという。これにはお抱えの奈良仏師の格を上げようという考えがあったという。

 まず運慶らは大仏の周囲を固める仏像の制作から取りかかり、巨像をわずか半年で作り上げる。これは運慶の工房の技術の高さを物語っていた。そして南大門の金剛力士像の製作に取りかかる。この像は3000以上のパーツから出来上がっており、分業によって短期間に作り上げているという。何とこの像をわずか2ヶ月で作り上げたという。運慶の工房ととてつもなく充実していたようである。

f:id:ksagi:20201222221336j:plain

金剛力士像

 

 運慶の仏像は私も好きですが、鎌倉武士でなくてもあのダイナミックな造形には魅入られます。いわゆるギリシア彫刻にも匹敵するようなリアルな描写はそれまでの仏像にはなかったものであり、純粋に「彫刻」として堪能できます。

  
仏像の好きな方にはこんなのもありますね
   
さらにこんな格好良いのも

 実際の像の制作は運慶一人ではなく、工房の集団作業であり、運慶はプロジェクトリーダーのような存在だったわけですから、単に彫刻の技倆だけでなく、かなりの統率力や企画力を有していた人物であったことが覗えます。そういう人物が頼朝と出会うことで機会を得て天下に羽ばたいたわけですから、これは幸福なことであったと考えられます。

f:id:ksagi:20201222222227j:plain

実は私もこんなのを持っていたりする

 

忙しい方のための今回の要点

・運慶は康慶の子として生まれ、奈良仏師を率いる立場にいたが、当時の奈良仏師は京の円派・院派に比べると非主流派の立場であった。
・しかしそれ故に当時のスタンダードであった定朝様から離れたかなり自由な制作を行う気風も有しており、運慶が制作した大日如来坐像は、それまでの常識を覆すリアルで立体的な斬新な仏像であった。
・平氏に代わって源氏が天下を取った際、頼朝は平氏に近かった円派・院派でなく奈良仏師を起用する。そんな中で北条時政の依頼で製作した仏像が武家の好みと合致して高く表された運慶が、やがて鎌倉幕府のお抱え仏師として活躍することになる。
・運慶は頼朝の永福寺建立で活躍した後、ついに悲願の東大寺再建に関与することになる。そこで運慶率いる工房は大仏の周囲を固める巨像をわずか半年で制作、さらには金剛力士像をバーツごとに制作する手法で2ヶ月で完成させる。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・運慶の仏像は何度か美術館で見てますが、息を呑むというか、表現のしようのない迫力があります。金剛力士像なんか、こんな凄いのが現れたらそりゃ悪霊も平伏するだろうなという迫力です。後の世になってもここまでの描写力ってのは希有な存在です。

次回のにっぽん!歴史鑑定

tv.ksagi.work

前回のにっぽん!歴史鑑定

tv.ksagi.work