戦後の動乱期を乗り切った吉田茂
敗戦後の日本の建て直しに奔走したワンマン総理として知られる吉田茂。なおワンマンの意味は、何でも一人で決めてしまうと言う意味でなく、GHQが日本は吉田一人を相手にしていれば十分であるというように言ったことから来ているとか。
吉田茂はずっと外交官だったのであるが、戦後に外務大臣に抜擢され、さらに総理に選ばれる。この時は本当は鳩山一郎を総理にするつもりだったらしいが、鳩山が公職追放で総理就任をGHQによって拒絶されたことから、もともと政治家でなくて権力に対して執着がないから本格的政権でなくて鳩山までの過渡的政権として吉田が選ばれたのだという。なおこの時に吉田は3つの条件を鳩山に出したという。それは1つ、金はないしかね作りもしない。2つ、閣僚の選定には口出し無用。3つ、嫌になったらすぐに辞めるというものだったとか。
外交官として戦争に反対した吉田茂
吉田茂は1879年に元土佐藩士竹内綱の五男として生まれた。父の綱は幕末に異国船がやって来た時に一人で小舟で近づき、言葉も通じない船員と一人で酒盛りをしたという豪傑だという。ただ吉田は生まれた時から父の友人だった吉田健三に養子に出された。子供のいなかった建造の元で吉田は後継ぎとして育てられる。大富豪の建造は吉田が11才の時に40才で死去する。この時に吉田には50万円もの遺産(現代の価値だと100億円以上らしい)を相続する。ただこの遺産を吉田はすべて使い切ってしまったらしい。
1906年に東京帝国大学を卒業すると難関の外交官領事館試験に合格する。28才で外交官デビューすることになったが、白馬に乗って通勤したらしい。上司から見たら「あまりに偉そうな新人」であり、「吉田は鍛え直した方が良い」と指導の厳しい上司のいる中国の奉天に送られたという。ただこの経験で吉田は生の中国人を知ったことで中国人の民族性を理解できたという。そして3年後、大久保利通の孫である牧野雪子と結婚する。そして雪子を伴って中国、イギリス、イタリアなどに赴任する。
50才で外務次官に就任した吉田だが、当時の日本は戦争に突き進んでいた。親英米派の吉田は戦争回避に動くが日本は戦争に突入してしまう。それでも吉田は終戦工作に動き、1945年の2月には盟友の近衛文麿と共に天皇に終戦の決断を求める上奏文を作成する。しかし2ヶ月後に憲兵に逮捕されてしまう。吉田邸には多くのスパイが送り込まれていたのだという。ひどい環境に収監され、40日後に仮釈放になった時には痩せてフラフラだったという。
戦後、マッカーサーの信頼を得て憲法改正などに取り組む
戦後、外務大臣に就任した吉田茂はマッカーサーと対面する。この時、マッカーサーが葉巻を勧めると、「ありがたいですがマニラ産の葉巻は嫌いなので、こちらを試されませんか」とハバナ産の葉巻をマッカーサーに勧めた(ハバナ産の方がマニラ産よりも高価)という。敗戦国だからと言って卑屈になる必要がないというのが吉田の考えだったという。さらに部屋の中を行ったり来たりして話をするマッカーサーに対し、吉田は笑い声を上げたという。額に青筋を立てて怒るマッカーサーに「閣下がライオンのように歩かれるので、ライオンの檻の中にいるような気がしましてね」と答えたという。マッカーサーは呆気にとられて笑い出したという。ユーモアセンスがあることでマッカーサーの懐に飛びこんだのである。また吉田が終戦工作で逮捕されていたことから、軍部の手先ではないということもマッカーサーの信頼を得た大きな理由の一つであったという。
しかしGHQは日本政府に憲法の改正を突きつけてくる。最初日本が提出した草案は大日本帝国憲法と大差なかったため、GHQは独自の草案を作成する。そこでは天皇は象徴とされており、国民主権、戦争放棄が謳われていた。これは当時の日本には受け入れがたい内容だったが、吉田は日本の未来のためにこれを受け入れる。再び独立国家となるために、今は良き敗者であることだと考えたのだという。
総理に就任して多くの法を制定させる
総理に就任した吉田は、大臣達に「GHQが相手でも納得いかない話は勇気を持って拒否してください。それでも強要された場合は文書でもらってきてください。あとは自分がマッカーサーに掛け合ってなんとかします」と言ったという。実際に吉田はマッカーサーと公式会談だけでも75回も行っているという。
農村の働き手の不足で日本が食糧難になった際には、国民全体に行き渡る食料の量を農林省に試算させて、マッカーサーに「450万トンの食料がないと餓死者が出る」と掛け合ったという。マッカーサーはこれに答えて食料の輸入を開始したが、実際には70万トンで間に合ってしまった。マッカーサーは激怒して日本の統計の杜撰さを批判したが、これに対して吉田は「日本の統計が正確だったら無謀な戦争はしなかった」と笑顔で返したと。マッカーサーは返す言葉もなく大笑いしたという。これについては実は吉田は正確な必要量は知っていたが、そこから5割がけとかにされたら餓死者が出るので、かなり多めの量をふっかけたのではないかという。とにかく度胸満点である。
次の選挙で吉田はトップ当選を果たすが所属政党が第二党になったので総辞職する。1年余りの短命政権の中で憲法制定だけでなく、農地改革法や教育基本法の制定など多くの作業をなしたという。
第三次内閣で満を持して日本の独立を目指す
1948年に第二次吉田内閣が発足するが2ヶ月で解散、次の選挙で過半数をとると第三次吉田内閣が発足する。これが戦後初の長期安定政権だという。この時に池田勇人や佐藤栄作の多くの官僚上がりの政治家を取り立てた。そして日本の独立に取り組むことになる。この頃東西冷戦の激化で、アメリカでは日本を資本主義陣営に取り込んで共産主義陣営に対抗させようという考えが台頭してきていた。この際に日本の独立に肯定的な国との単独講和にするのか全ての国との全面講和にするかの議論があったが、吉田は単独講和の道を選択する。吉田は独立を急ぐことを優先したのだという。
しかしアメリカの中には日本を占領下のままでおくべしという声もあった。そこで吉田は池田勇人をアメリカに送り込み、「このまま占領が続けば日本で共産主義革命が起きるかもしれない」と早期独立の必要性を説明させる。さらに独立後もアメリカ軍の駐留を認めるという案を提示する。アメリカはこの提案を呑む。そして対日講和の責任者ジョン・フォスター・ダレスが来日、吉田と交渉する。この席でダレスは日本の再軍備も認めるということを言ったらしいが、これは吉田が拒否したという。再軍備には莫大な費用がかかるので経済復興の妨げになるということと、もう二度と若者たちを戦争で死なせたくないという想いからだったという。
しかし朝鮮戦争勃発でマッカーサーは問答無用の要求を突きつけ、自衛隊の前身である警察予備隊が創設される。日本の治安維持のためというのが口実になっていたが、アメリカがこれを朝鮮戦争に投入する可能性もあったため、吉田は隊員達を戦場に送らないという確約を得るまで警察予備隊令を放棄しなかったという。
これによって日本の独立は加速することになる。そしてサンフランシスコで講和会議が行われる。ここで吉田茂が演説することになっていたのだが、その演説の原稿が英文だったことに白州次郎が激怒、日本語に書き直す。それが長さ30メートルもの原稿となり、吉田のトイレットペーバーと呼ばれることになる。なお吉田はこの長い原稿の途中を端折って読んだとか。これで講和条約が締結されて日本の主権が復活する。そしてこの時に日米安全保障条約も締結される。
なお吉田茂と言えばバカヤロー解散が有名だが、これは吉田が野党議員の挑発に対して「バカヤロー」と呟いたものがマイクに拾われてしまったのだという。解散総選挙後に再び総理になるが、翌年に総辞職してそれが吉田が総理を務めた最後になる。そしてその後も政治家を続け85才で引退、この世を去ったのは89才である。
まあ賛否両論はあるが、この時期はやはりこの人でなかったら務まらなかっただろうなという人物である。なお吉田はあくまで日本を独立させる方向で動いていたのだが、この後に日本をアメリカに属国として売り渡したのがA級戦犯岸信介である。で、その後の日本は高度経済成長などもあるのだが、政治家が段々と世襲化するにつれて質が落ち、そして今日の国難に対してまともに対処も出来ずに自分の私腹を肥やすことばかり優先するというような体たらくになってしまったのである。さて吉田茂は自分の末裔達の今の醜態を見てどう思っているだろうか。
忙しい方のための今回の要点
・吉田茂は28才から外交官としての道を歩む。
・親英米派であった吉田は戦争回避に動いたが日本は戦争に突入、1945年には終戦を求める天皇への上奏を試みるが憲兵に逮捕されてしまう。
・戦後、外務大臣に就任した吉田はマッカーサーと対面する。マッカーサーは吉田のユーモアのセンスと、軍の手先ではないということから吉田を信頼するようになる。
・総理に就任した吉田はマッカーサーとの直談判を重ねることになる。その中で憲法改正などがなされる。GHQ草案は当時の日本人には受け入れにくいものだったが、この時点では良き敗者であるべきと考えた吉田はそれを受け入れる。
・第三次吉田内閣が成立すると、吉田は独立に向けて動き始める。この頃、東西冷戦でアメリカでも日本を資本主義陣営に取り込むべきと言う動きが出てくる。吉田はアメリカなどと単独講和を結ぶことで早期の独立を目指すことにする。
・この時に日本の再軍備の話もアメリカから出されたが、吉田は若者を再び戦場に送りたくないとこれは拒絶する。しかし朝鮮戦争の勃発で警察予備隊の設置をGHQに強いられることになる。
・そしてサンフランシスコ講和会議で講和条約が締結され、日本は主権を回復する。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・確かに吉田茂と言えば剛腕ですが、それを私腹を肥やすために奮ったわけではないので。今の日本には私腹を肥やそうとする政治家ばかりですが。
・それにしても日本の政治家も二世、三世となるにつれてドンドンと質が低下してます。やはり苦労知らずのボンボンだからでしょうね。とにかくまともに社会で通用しないものだから「仕方ないから政治家にでもしておけ」で政治家になったって連中がほとんどなので。
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