教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

2/3 NHK 歴史秘話ヒストリア「災害と日本人 先人はどう向き合ってきたのか」

 地震に火山など太古の昔より災害列島でもある日本であるが、日本人はその災害にどう向き合ってきたかというオムニバスである。

 

危機一髪の家康を救ったことになる天正地震

 まず最初は唐突に秀吉と家康の天下争いの話が始まる。信長の死後に天下を争った二人が直接に対決したのが小牧長久手の戦い。この直接対決では睨み合いにしびれを切らした秀吉側が家康の本拠を攻撃しようと別働隊を送ったのだが、この動きを家康が察してこの別働隊を奇襲で壊滅させた。これで家康の手強さを痛感した秀吉は、家康と講和の方向に動いた・・・と一般的に語られているのだが、これは違うというのがNHKでよく顔を見る磯田氏。磯田氏によると、実はこの時点でまだ秀吉の方は戦力は十分だし、家康を殲滅すべく準備を進めていたという。しかしそれが出来なくなった理由こそが今回のテーマであるという話。

 秀吉は年明けにも全面攻撃をするべく、拠点となる大垣城に大量の兵糧を運搬して備蓄していたという。しかしそこを天正地震が直撃する。その被害は甚大で、近畿地方から中部地方にかけて広範囲で震度6強の揺れがあったという。これは複数の断層が連続して発生したものだったという。そしてこの地域を中心に家屋の倒壊などの被害が出る。福井にはその時に発生した津波の跡も残っていたという。被害は秀吉の支配下の地域で甚大で、家康の支配下の地域では比較的少なく、さらにこの地震で大垣城は倒壊炎上、備蓄していた兵糧も焼失してしまう。さらに長浜城も焼失し、山内一豊の一人娘が梁の下敷きになって死亡するという痛ましい事態も発生している。これらの被害でさすがの秀吉も戦どころではなくなってしまったのだという。結局はこれで家康は生き残り、後の天下取りにつながったのだから、地震が日本の歴史を変えたということになる。

 なおこの地震の前にびわ湖のナマズが騒いだという話を聞いた秀吉が、次に城を建てる時に「ナマズを大事にしろ」と言ったことから、後にナマズと地震が結びつくことになったとのこと。そう言えば最近はあまり聞かなくなったが、昔は「地震はナマズが起こしている」と言われていたな。

 

浅間山噴火の復興を支えた新しい家族の結束

 次の場面は浅間山の天明の大噴火。1783年の大噴火では軽井沢に焼け石が降り注いだという記録が残っている。またその時に流れた火砕流によって立木が焼失し、その跡が地面の穴として残っているという。深さは10メートルにも及ぶという。

 また嬬恋村は壊滅的な被害を受けており、噴火で発生した地滑りによって集落が丸ごと埋まった地域も存在するという。鎌原観音堂には埋没石段と呼ばれる途中まで埋まった石段が残っており、以前の発掘調査ではその石段上で必死で逃げようとしたものの間に合わずに息絶えた母娘の遺骨が発見されたという(娘が母を背負って逃げようとしていたらしい)。鎌原地区では家や畑に8割の住人を失っている。

 この時に復興を指導したのが近くの村の有力者である黒岩長左衞門である。生存者が職業や家柄がバラバラでそれが結束の妨げになっているのを感じた長左衞門は、妻を亡くした夫と夫を亡くした妻を夫婦とさせ、親を亡くした子供を子供を亡くした親が養うことによって新しい家族を作って協力して復興に当たるように促したという。鎌原地区では当時から一家という言葉が残っており、これは地域のものが家族のように協力してことに取り組むことを意味しているという。この力で鎌原では温泉街を作り、さらに戦後にはキャベツの栽培を始めたという。

 

関東大震災を見て防災協力に尽力した地震学者

 最後は関東大震災をきっかけに地震教育に奔走した地震学者の話。

 地震学者の今村明恒は実は震災の14年前に、近い将来に東京で巨大地震が発生する確率が高いと予想していた。過去の資料を調査したところ、地震には周期性があり、関東では100年に1度大きな地震が起きており、海面のデータなども合わせると近い将来関東に大地震が来ると考えられたのだという。今村は雑誌に論文を発表し、対策の必要性を訴える。建物の補強や密集の解消などを訴えたという。しかし人々は地震を恐れるだけで備えの方は進まなかったという。

 そして1923年9月1日、関東を震源とした大地震で東京は家屋倒壊に火災といった壊滅的被害を受け、大勢の犠牲者を出す。今村は自身の懸念が当たってしまったことに無力さを噛みしめたという。

 これから今村は防災の大切を訴えることに力を入れる。数々の雑誌に登場して防災を訴える活動を行いつつ研究を続ける。その結果、関東に地震があった後には南海地区に地震が起こるという現象が何度も見られたことに気づく。今村は政府に対策を訴えるが、予算不足で拒絶される。そこで今村は自費で西日本各地に観測所を建て、子供向けの防災教育を始める。この今村の働きかけで教科書に掲載されたのが「稲むらの火」の物語だという。地震の発生で津波の発生を予測した村長が、稲むらに火を付けて村人に避難を訴えたという教訓物語である。各地を回った今村はその地域の過去の災害を徹底的に調べて地元の人に災害から逃れる方法を解説していったという。

 しかし1946年、紀伊半島沖を震源とした南海地震が発生し、津波などで1300人を越える死者が発生した。今村は東京の自宅で地震の報を知ったという。だが稲むらの火の舞台となった広川町では防災教育のおかげで津波から逃げられたと、この地出身の地震学者の津村健四朗氏は語っている(この経験で地震学者になったんだろうか)。今でも広川町では防災教育に力を入れているという。

 

 以上、災害に関する三題をオムニバス形式でつなげましたが、どうしても内容的には散漫だったかなという印象。ちなみに最後の今村の話は大分昔に一本もので放送されていた記憶があります。恐らくNHKお得意の「放送素材の有効活用」でしょう。

 なお小牧長久手の戦いの帰趨に天正地震が影響を与えたという観点は私にはなかった。確かにこの時には家康は局地戦には勝利したものの、そろそろ限界が近づいており、さらに秀吉が戦闘を継続したら恐らくジリ貧で敗北は必至だったろうから、家康にしたら命拾いというところであろう。なお秀吉政権下ではこの後も方広寺で建設中の大仏が倒壊した慶長伏見地震なども起こっている。結果としてこの地震が秀吉政権の落日を決定づける一つの象徴ともなったという見方もある。

 なお噴火災害として浅間山噴火が登場したが、なぜ富士山噴火を出さなかったのかは少々不思議。被害の甚大さではかなり影響が大きかったはずなのだが、ネタが多すぎて15分程度にまとめるのが不可能だったのか。

 

忙しい方のための今回の要点

・小牧長久手の戦いでは、秀吉は局地戦での敗北の後も家康を完全に滅ぼすつもりで準備を進めていたが、そこを天正地震が直撃し、秀吉の支配権で壊滅的な被害を受けたことで戦争継続が不可能となった。
・江戸時代の浅間山の天明の大噴火では、田畑や集落が壊滅して多くの犠牲者が出た。復興に当たった黒岩長左衞門は生存者の職業や家柄がバラバラであることが結束を妨げているのを見て、生存者で新たな家族を作って団結して復興理に取り組めるように取りはからった。
・関東大震災を事前に予測しながら被害を防げなかった地震学者の今村明恒は、全国を回ったりしての防災教育に力を入れる。彼の働きかけで津波のエピソードである「稲むらの火」が教科書に掲載される。そのおかげで南海地震で津波から避難できた者もいるという。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・今村の「地震は防げないが災害は防げる」という言葉が象徴的。確かに事前に備えることで災害を最小限に抑えることは可能です。もっともそういう万一の備えにはなかなか予算を使わないのはこの国においては今も昔もあまり変わっていない。今でも災害の渦中にもかかわらず「仮定の事態にはお答えしない」というような総理の下で、金持ちのみ優遇して目の前の利権ばかり漁ることに精を出すような政権では、今後も大災害が起こる可能性は高い。

次回のヒストリア

tv.ksagi.work

前回のヒストリア

tv.ksagi.work