教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

2/4 BSプレミアム ザ・プロファイラー「飛べ!大空へ ライト兄弟」

ライト兄弟が飛行機開発に至った道筋

 今回は世界で初めて有人動力飛行を実現して、飛行機を作った人物である。

 ライト兄弟はオハイオ州レイトンで生まれた。兄のウィルバーが1867年生まれ、弟のオーヴィルはその4年後に生まれている。二人は五人兄弟の三男と四男だった。兄は冷静沈着で弟は陽気な楽天家と性格は対照的だったが、いつも二人で行動していたという。父は巡回牧師であり留守がちであったが、大学を出ていた母が勉強を教えてくれた。また二人のおもちゃも器用な母が手作りしており、彼らも家具作りなどに協力していたことから、もの作りの基礎を学んだという。ある時、父がフランスで珍しいヘリコプターのおもちゃを買ってきたことから二人はそれに夢中になったという。ここが二人の空を目指した原点があるようだ。

 しかし1883年に母が身体を壊して療養生活になる。また成績優秀でイェール大学を目指していたウィルバーがアイスホッケーの試合で顔に大怪我をしてしまい、ショックで高校を中退して家に引き籠もってしまう。一方の高校生だったオーヴィルは高校を中退して新聞の発行を始めたという。やがてそこにようやく外に出られるようになったウィルバーが加わって二人で新聞業で生計を立てるようになった。1889年、母が結核でこの世を去ると二人の世話は妹のキャサリンがするようになったという。父も家族と過ごすことが多くなり、家族の結束は強まったという。

 

自転車を開業してから、飛行機に挑戦を開始する

 一緒に働いて暮らしていたウィルバーとオーヴィルは印刷業を廃業して自転車屋に転じる。ライト兄弟はオリジナルの自転車を開発して飛ぶように売れ、大繁盛したという。しかし飛行機研究の第一人者でグライダーでの飛行に成功していたドイツのオットー・リリエンタールが飛行機事故で死んだという報を聞き、二人は飛行機への挑戦を決意する。そしてスミソニアン協会に飛行機に対する資料の提供を願い出るという大胆な行動を起こす。スミソニアン協会は彼らが本気であると感じ、資料を提供する。それらは会長のラングレー教授の著作だったという。こうしてウィルバー32才、オーヴィル28才で飛行機の研究を始める。

 二人は動力飛行機の開発を目指していたが、既に多くの国で国の多額の援助を受けての開発競争が行われていた。それに対して彼らは徒手空拳のようなものである。彼らはまずリリエンタールに習って鳥の飛行を観察することから始め、鳥が翼をひねることで方向転換などを行っていることに気がついた。彼らは自らの飛行機にこのメカニズムを取り入れるために翼を二重にすることにした。そして全米の風速記録を手に入れ、安定した強風が吹くキティホークに目をつける。そしてまずは有人グライダーの飛行実験から開始する。

 

多くのライバルに先んじて初飛行に成功するが

 一方の国を挙げての開発も行われており、ラングレー教授がその最右翼だった。1896年に無人の機体での動力飛行に成功したラングレー教授は、アメリカ政府から5万ドル(今の価値で1億5千万円)の補助を受けて有人動力飛行の開発に挑んでいた。それに対して二人は自転車屋の収益を開発につぎ込んでいた。そうしてようやく有人動力費好機であるライトフライヤー号を開発する。この時にラングレー教授から実験を見学したいという申し出があったが、技術の流出を恐れた彼らは丁重に断ったという。

 そしてライト兄弟に先駆けてラングレー教授の開発したエアロドームの実験飛行が行われる。しかし機体は浮き上がることなく墜落し、アメリカ政府も失望する。これを聞いたライト兄弟は「どうやら僕らが飛ぶ番だ」と実験を開始する。そしてライトフライヤーは36.6メートル12秒の飛行に成功する。しかし目撃者はわずか5人しかいなかったという。

 しかし彼らの飛行は世間に信じられなかったという。そこで彼らは機体を改良してより実用的な飛行機を開発しようとする。開発費用を節約するためにレイトン郊外の牧草地を借りる。飛行実験場への輸送費が費用的に負担になっていたからだという。ここは狭いので必然的に小回りの練習になって操縦技術は向上したという。ただ風が安定しないという弱点があったので、機体を押し出すための発射装置を作ったという。そして初飛行の2年後には飛行距離38.6キロ、滞空時間38分4秒に到達した。実用的な飛行機が完成したのである。だが技術が盗まれることを恐れて秘密にしていたので世間には知られておらず、アメリカ軍に飛行機の採用を持ちかけたが全く相手にされなかったという。

 

フランスでデモ飛行に成功し、ようやく世間の脚光を浴びる

 国内で相手にされないことから、ライト兄弟は外国に売り込みを図る。そしてフランス政府が呼びかけに応じる。フランスでは飛行機への挑戦が盛り上がっていたのだという。そこで兄のウィルバーがフランスに渡る。フランス政府は観衆の前での展示飛行を成功させることを買取の条件とする。そして展示飛行はル・マンで行われることになる。

 だが飛行の準備を行っていたウィルバーはなかなか建屋から出てこなかったという。機体が輸送中に大きく破損し、修理カ所を慎重に点検していたのだという。午後3時頃に機体が観衆の前に現れるが、ウィルバーはなおも慎重に点検を続け、ついに飛行を開始したのは日没寸前の6時半だった。ウィルバーは見事に飛行に成功し、観衆は大興奮する。そしてフライヤー号の成功は世界中に報じられる。ライト兄弟の偉業が世界に認められた瞬間であった。

 

しかし法廷闘争に明け暮れる羽目に

 ライト兄弟はヨーロッパの各地で飛行機を飛ばし英雄扱いされる。凱旋帰国した彼らは航空機製造の会社を設立する。しかしこの後、二人は延々と裁判に忙殺されることにとなる。ライバルであるグレン・カーチスと特許権を巡っての争いとなったのである。後にウィルバーは当時のことを振り返って「こういった時間を実験のために捧げられたらと思うと残念でならない」と語ったという。新しい技術に挑むよりも古い特許を守ることに忙殺されてしまったのだという。結局はその間に飛行機の技術は急激に進歩し、わずか数年後で二人の開発した飛行機は時代遅れとなってしまう。

 しかしそんな中、1910年に82歳になった父を初めて乗せて飛行している。父は高度100メートルを超える頃、一言だけ「もっと高く、もっと高くだ」と言ったという。2年後、特許を巡る争いで疲れ果てたウィルバーが腸チフスを患って45歳でこの世を去る。また残されたオーヴィルも苦難に巻き込まれる。裁判を有利にしようと考えたカーチスが世界初の有人動力飛行に成功したのはライト兄弟ではないと訴えたのだという。彼は最初に飛べた飛行機はラングレー教授のエアロドロームだとして、修理したエアロドロームを実際に飛ばして見せて、実験に失敗したのは偶然だと主張したという。この実験結果を受けてスミソニアン協会は「人を乗せて空を飛べる飛行機を初めて作ったのはラングレー教授である」との声明を出し、スミソニアン博物館へフライヤー号の寄贈を申し出ていたオーヴィルは激怒してフライヤー号をイギリスの博物館に送ってしまう。3年後には飛行機の会社を売り払い、48歳で空を飛ぶことも辞めてしまったという。なお実はカーチスは後で分かった技術に基づいてエアロドロームを勝手に改造して、それで飛行を成功させていたのだという(汚い奴だな)

 その後も飛行機は進化を続け、戦争の兵器として使用されることになる。オーヴィルは後にそれについて「世界に永遠の平和をもたらすものをどうしても発明してみたかった。しかし私たちは間違っていた。私は誰よりも飛行機がもたらした破滅を嘆いているが、少なくとも自分が飛行機を発明したこと自体は全く悔いていない。」と語ったという。ウィルバーの死の30年後の1942年、スミソニアン協会はカーチスの実験に不正があったとして声明を撤回、ライト兄弟の偉業を認めて謝罪したという。オーヴィルはこの謝罪を受け入れたという。そして1948年にオーヴィルは76歳でこの世を去る。その11ヶ月後、初飛行のちょうど45年後、スミソニアン博物館にフライヤー号が初めて展示されたという。

 

 ライト兄弟の物語であるが、決して栄光に満ちたものではないということが印象に残った。特に飛行成功後のドタバタは、彼らが権威の裏付けのない民間人だったということが大きいようである。なお私が大昔に何かの偉人伝物で見て覚えていたライト兄弟の伝記では、弟が飛行機事故で亡くなったと記憶していたのだが、それは勘違いだったようである。弟が実際に飛行機事故を起こしたのは事実だが、その時に亡くなったのは同乗者で(世界初の航空機事故による犠牲者)、彼は重傷は負ったが無事だったらしい。なおライト兄弟の製作した飛行機は、とにかく操縦が難しいものだったとか。

 初飛行には成功したものの、その後は特許のゴタゴタなんかもあったせいで、むしろライト兄弟の会社は急速な技術進歩に取り残されて、結果としてはビジネスとしては失敗ということになってしまったらしい。この辺りは先駆者が必ずしも成功者となるとは限らないという難しさを感じさせる。実は技術的には二番煎じにもかかわらず、ビジネスとしては成功する者というものがいる。この辺りは発明家と経営者は違うと言うところでもある。ちなみにかつては日本のメーカーも実は「大いなる二番煎じ」が得意だったのであるが、最近はそれさえもできなくなってしまった。

 

忙しい方のための今回の要点

・ライト兄弟は自転車屋を経営しながら、その収益で飛行機の開発を行っており、国家の支援を受けて開発を行っていたラングレー教授などと比べると徒手空拳に近かった。
・ラングレー教授の失敗の後、ライト兄弟はライトフライヤー号の初飛行に成功するが、彼らが民間人であったことと、実験の目撃者が少なかったことからその成功は世間に信用されなかった。
・二人はさらに機体の改良を続け、実用的な機体の開発に成功するが、それでも軍などには相手にされなかったことから、海外に売り込みをかけフランス政府から「観衆の前での展示飛行に成功したら機体を買い取る」との約束を得る。
・兄のウィルバーがフランスに渡って展示飛行に挑戦、機体が輸送中に破損するトラブルがあったが、ウィルバーは徹底的に修理カ所をチェックした上で飛行に成功、大喝采を浴びる。その後、兄弟はヨーロッパ各地で飛行のデモを行い、アメリカに凱旋帰国する。
・そして飛行機製造会社を立ち上げるが、特許権でグレン・カーチスとの法廷闘争を続けることになり、世間の技術開発が急速に進んだことによって彼らの技術も陳腐化してしまう。
・ウィルバーは法廷闘争に疲れて45歳で死亡、カーティスも最後は会社を売ってしまい、飛ぶことを辞めてしまう。そこには飛行機が兵器として使用されて多くの犠牲者を出すことに対する複雑な心情があったという。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・大発明にはどうしても光と影の面がつきまといます。ライト兄弟が発明した飛行機も、結局はその後に殺戮兵器として大進化することになってしまいます。そもそも技術には善悪はないのですが、残念ながら権力などは大抵新しい技術はまず悪に使ってしまうものです。ノーベルのダイナマイトなども、元々は鉱山の採掘などのために開発されたものだが、戦争で盛んに利用されることになった。ノーベルは当初はそのことに対して特に問題を感じていなかったらしいが、段々とそれを後悔するようになって、その結果ノーベル平和賞が制定されるようになったとか。

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