教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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番組リスト

1/21 BSプレミアム ザ・プロファイラー「フビライ・ハーン 世界帝国 日本に迫る」

若い頃から中国の文化を学んだフビライ

 日本では元寇ぐらいしかイメージのないフビライ・ハーンであるが、彼は世界最大の帝国となったモンゴル帝国の第五代皇帝であり、チンギス・ハーンの孫である。ちなみに今日の北京料理で人気の羊肉のしゃぶしゃぶを北京に持ち込んだのは彼だとか。フビライ・ハーンはどのように考え、どのように行動したのか。

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フビライ・ハーン

 フビライは1215年にチンギス・ハーンの孫として4人兄弟の次男に生まれた。遊牧生活を送っていたフビライであるが、祖父のチンギスからは将来を期待されていたらしい。

 そして1236年、22才の時に河北省の漢民族の土地に領地を得る。ここでフビライは漢人の学者・姚枢と出会い、彼から漢字など中国の伝統文化を学ぶ。彼の教えに感銘を受けたフビライはこの後も姚枢を側近として重用する。1251年、フビライが37才の時に兄のモンケがハーンに就任する。モンケは広大な領地を兄弟4人で治めるべく兄弟を各地へ派遣する。フビライは南宋の攻略を任されることになる。

 

弟たちに勝利して第五代のハーンに就任する

 しかしフビライは直接南宋を攻めるのではなく、まずは西の大理国を攻略する。そして各地に南宋攻略の拠点を建設する。しかしそこに兄のモンケが急死したとの報が伝わる。フビライ兄弟のハーンを巡る争いがこれで勃発する。ハーンはそもそもはカラコルムなどで開催される有力者会議クリルタイで決定される。候補は次男のフビライの他に三男のフレグ、四男のアリク・ブケがいるが、フレグはイラク方面にいたために実質的にフビライとアリク・ブケの一騎討ちとなった。しかしモンゴルにいて中央を掌握しているアリク・ブケの方が現状では有利だった。

 この時フビライはカラコルムに向かわずに南宋に向かい、南宋攻略のために来ていた三つの王家の支持を得ると他にも支持を広げていく。そして自分の支持者だけでクリルタイを開催してハーンに推薦される。こうして46才でハーンに就任する。慌ててアリク・ブケもクリルタイを開催してハーンを宣言する。フビライはカラコルムに攻め上るとアリク・ブケの兵を撃退する。アリク・ブケはやむなくフビライに降るが、2年後に謎の死を遂げたらしい(つまりは暗殺されたんだろうが)。

 こういうベースがあるので、フビライは中国文化が身についているのではと番組ゲストも言っているが、確かにその通りである。またフビライはハーンに就任する時に、三回辞退したが回りが勧めるのでハーンになったという形をとったらしいが、これなどまさしく「三顧の礼」であり、非常に中国的である。

 

中国風の国内制度を整備して南宋を降す

 ハーンになったフビライは都である大都を建設し、さらには国号を中国風の元に改めた。この辺りにやはりフビライが中国的であることを示している。

 フビライは南宋の拠点である襄陽の攻略に取りかかる。ここは要地であり、ここを落とせば下流の首都・臨安を落とすのは容易である。当然ながら南宋もその重要性を認知しているので、弓の届かない幅450メートルの堀で囲まれた要塞となっていた。ここでフビライが投入したのが新兵器・回回砲重力を使う巨大な投石機で、射程距離は600メートルにも及んだという。モンゴル支配下の国で開発、改良されたものだという(どうもアラブの方ではないかという気がする)。フビライが国号を元に改めると発表したのは、この南宋攻略中のことだという。この元という国号は易経からとっており、中国人にも馴染みやすいものだという。

 その上でフビライは襄陽に立て籠もる兵に元に降ると厚遇するということを伝える。こうして襄陽は降り、ほぼ抵抗なく臨安にたどり着き、南宋は抵抗を諦めて無条件降伏、こうして1276年、62才で中国全土を統合する。この時にモンゴル帝国は史上最大の国となった。

 

経済で大帝国を統治する

 モンゴル帝国は中央集権国家でなく、地域別の4つの自立した国がなす緩やかな連邦国家であったという。そしてハーンの権威を示すために帝国内すべての王族達に帝国内共通通貨の銀を配布したという。これは馬蹄銀と呼ばれ、1つ2キロもするという。有力な王には年に100個も送ったらしい。トータルで年間10トンもの銀を配っていたとのこと。

 フビライは通過税を廃止して商業を盛んにし、高価な専売品である塩の引替券である「塩引き」を彼らに売った。これは一種の紙幣であり、これは銀でのみ購入できるようにした。紙幣だと移動に非常に便利である。こうして元には銀が集まるようになったという。この銀をフビライは王族の忠誠確保に使用したのである。

 大都には他民族があつまり、その中にはマルコ・ポーロがいた。大都でのフビライの様子は彼が書き残しているが、漢民族の皇帝のように振る舞っていたらしい。しかし1年の半分はモンゴル人らしく草原のテントで暮らしたらしい。大都にも中国風の大宮殿の横にはモンゴルのゲルが建てられ、これが王族達の迎賓館であったらしい。このモンゴルと中国の二重性こそがまさしくフビライだという。

 番組ゲストも遊牧民の侵略者でなく、フビライが明らかに大帝国の統治者としての行動をしていると言っていたが、まさにその通りで、大帝国を運営するノウハウには優れている中国文化を取り入れることで、支配下に置いた漢人達に抵抗が少ないような社会システムを構築しているのを感じる。

 

そして日本遠征に乗り出す

 そしていよいよ日本遠征が始まるのだが、そもそものきっかけは南宋攻略時に南宋が使用する火薬に手を焼いたことから、その原料である硫黄の入手先である日本を押さえようと考えたのだという。そして鎌倉幕府に国書を送るのだが、幕府はそれを悉く無視、そしてついに業を煮やしたフビライは武力行使を決断する。こうして900隻の船で2万数千の兵を日本に送り込む。これが第一回元寇、文永の役である。

 博多に上陸したモンゴル軍は火薬を使用したてつはうなどで日本軍を翻弄する。防衛線を突破して博多の町を焼きはらうと撤退する。モンゴルにとってはこれで日本に対しての十分なアピールになったとの考えだったのだろうとする。

 そして満を持して二回目の使節を送るが、日本はこの使節を斬殺する。フビライとしてはこれを見過ごすわけには行かず再度の出兵を行う。今度は南宋水軍も加えた14万もの大軍であった。これが弘安の役であるが、日本は海岸線に石塁を築いて待ち構えていた。海岸に上陸できなかったモンゴル軍は近くの志賀島を制圧して一進一退の攻防を繰り広げることになる。しかしその内に台風で沿岸の艦隊が甚大な被害を受けて撤退に追い込まれる

 とは言うものの、実はこの敗戦はフビライにとっては決して痛打ではなかったという。今回の遠征で失ったのは旧南宋の軍であり、むしろ併合後は処遇に困っていた連中であったという。一方のモンゴル軍の主力である騎馬隊は温存していたので、兵力的には大して影響がなかったのだという。

 

再度の日本遠征を試みるがクーデターで頓挫

 モンゴル帝国はフビライの元で繁栄していた。また豊作時に穀物を大量に貯蔵し、不作時に人々に分け与えるとか、冬用の医療を無料配布するなどの先進的な取り組みを行っている(コロナ禍の国民を見殺しにする自民党よりよほど先進的だ)。さらに職業の世襲を義務づけていた法律を廃止し、職業選択の自由を確立すると共に、能力主義であらゆる民族のものを登用したという。さらには後継者として孫のテムルを英才教育していた。

 しかし73才の時に王家の3家がクーデターを起こして決起する。軍勢総数40万、この危機にフビライは自ら陣頭指揮をとってクーデターを鎮圧すると、叛乱者を処刑する。これで三度目の日本遠征を計画が中止になったのだという。そもそもこの反乱の原因の一つが三度目の日本遠征のための動員などの負担が彼らの不満を高めたことにあったという。

 なおフビライがここまでして海外遠征にこだわったのは、アジアからヨーロッパまで海路で結ぶ通商大国家の建国を目指していたからだという。そのために大都と海をつなぐ運河の建設まで行っていたという。しかしこの運河が開通した1年後、フビライは80才でこの世を去る。フビライは息子達に「帝国を治めるためには人々を力ずくで抑えようとしてはならない。何よりも大切なこと、それは人々の心をつかむことである」という言葉を残しているという。

 

 どうもモンゴル帝国と言えば元寇の件とヨーロッパの視点から「残虐で好戦的な帝国」というイメージが一般的に強いが(スタートレックに登場する好戦的種族クリンゴンのモデルはあからさまにモンゴル帝国である)、今回登場したフビライは硬軟自在に使い分けるなかなかにしたたかな政治家という側面が強く感じられた。この辺りは姚枢に中国の価値観的なものを教育されたのが大きいのだろうと思われる。実際に彼の取った政策は多分に中国的であり、その中国的な要素の中に実力主義のモンゴル的なものを巧みに取り入れている。

 番組ゲストも「残念ながらフビライの意図を彼と同レベルに理解できるものがいなかったのでは」と言っていたが、それは同感。当時の政治家として傑出しすぎていたので、回りがそれについていけなかった部分はある。

 なお実際にはフビライ個人が一人でここまでの考えに至ったというよりは、彼が能力主義によって取り立てた多国籍からなるブレーンが、これらの構想を打ち出したというのが実際だろうと思われる。もっともそのような優れたブレーンが集まるのも、フビライが指導者として優れていたということを示しているのだが。能力や器量に劣る指導者の下には阿諛追従の輩ばかりが集まり、イエスマンで固めた側近集団は何かの時に全く役に立たないというのは、既に日本の現政権や前政権が示しているところである。

 この辺りを指して、人のトップに立つものは本人は無能であったとしても、人の能力を見抜く目とそれを登用できる度量さえあれば成功するという話もある。確かに三国志の劉備などは個人としてはむしろ無能な男であるが、諸葛孔明を大胆に登用して全権を任せたという点で一国の皇帝にまでなったわけである。また漢帝国を建国した劉邦も人材登用に長けていた。そういう意味でフビライも人を見る目は確かだったんだろう。

 

忙しい方のための今回の要点

・チンギス・ハーンの孫で、四人兄弟の次男として生まれたフビライは漢人の姚枢から中国文化を学び、彼を側近として登用する。
・彼の兄モンケが四代目ハーンに就任した際、フビライは南宋攻略を任される。
・しかしその途中でモンケが病死、フビライは弟たちとハーンの後継争いをすることなる。フビライは南宋攻略に赴いていた王族達の支持を得てハーンに即位、対立した弟を武力で排除する。
・フビライは大都を建設すると国号を元と改めるなど、中国文化を積極的に取り入れる。そうして南宋をついには下して世界最大の帝国を樹立する。
・フビライが日本攻略を計画したのは、そもそもは南宋への火薬の原料である硫黄の輸出を止めるためだった。しかし日本が数度の脅しにも屈せず、第一回遠征で軍事力を誇示した後もやはり降伏の意志を示さなかったことから再度の遠征を行う。
・しかし日本は一度目の敗戦の教訓から万全の準備で待ち構えており、戦いが一進一退となる内に台風の襲来で艦隊が甚大な被害を受けて撤退する羽目になる。
・フビライは再度の日本侵攻を計画していたが、そのための動員などの負担が王族達の不満につながって彼らがクーデターを起こすにいたる。フビライは自ら陣頭指揮をとってこの反乱を鎮圧、叛乱者は処刑などの果断な措置を下す。
・フビライはアジアとヨーロッパを海路でつなぐ通商大帝国の構想を抱いていたという。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・日本はフビライの侵攻を食い止めたということもあるので、どうも日本国内ではフビライは過小評価されているという面があるように感じる。なお確かに勝つのは勝ったが、この戦いの負担が御家人の不満につながって、後の鎌倉幕府滅亡につながるので、実は甚大なダメージを受けたのは日本の側であったりするのだが。
・なおこの時にかなり絶望的な状況から勝利したというのが、後に日本は神の国だとという思い上がった神風信仰につながってしまい、それが600年ほど後の太平洋戦争での惨敗の一因にもなってしまうのだから、これもかなり皮肉なことである。

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