教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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番組リスト

1/20 BSプレミアム 英雄たちの選択 「真相!本能寺の変 細川藤孝 戦国生き残り戦略」

巧みに主君を渡り歩いた細川藤孝

 今回は何度も危機に瀕しながらも巧みに信長・秀吉・家康の元を渡り歩いて生き延びた、非常に目端の利く男・細川藤孝について。

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生き残りの達人・細川藤孝

 藤孝は細川家の分家の生まれで、非常に英才教育を受けて育ったらしい。また若い頃から連歌などを非常に勉強していたが、これは連歌が当時の大名との交渉で不可欠であったからだという。藤孝はその教養で義昭の配下として諸大名との間を取り持つための働きをする。そうしてついには織田信長が義昭を奉じて京に入り、義昭は将軍に就任する。

 しかし義昭の政権は5年で崩壊する。信長の介入を疎んじた義昭はついに挙兵、信長と決定的に対立することになる。この時に藤孝は何といち早く信長側についている。既にこの抗争が起こる前から藤孝は義昭を見限って信長に接近していたのである。そして義昭は京を追放されて室町幕府は滅ぶ。

 藤孝は信長の配下として光秀と共に丹波・丹後の攻略に取り組む。さらに光秀の娘ガラシャと藤孝の長男忠興が結婚しており、両者は姻戚関係にあった。そして藤孝は光秀の配下として丹後を治めることになる。

 

本能寺の変では関係の深かった光秀を見限る

 しかしここで本能寺の変が起こる。藤孝はそれまでの経緯から当然光秀につくとみられていたのだが、藤孝はすぐに剃髪して信長に弔意を示す。光秀からはそれに不快感を示しながらも、藤孝に是非とも協力して欲しいという文書が来ており、そうすれば若狭や摂津の領地も与えるとの約束も記載されていた。ここで藤孝としては明智につくか、秀吉に付くか、もしくは丹後から動かないかの3つの選択肢があったわけであるが、結局は丹後から動かないという選択肢を選んだのである。ただし家臣を京に送ってその状況は逐一調べていたという。そして息子の忠興は妻のガラシャを幽閉して、細川家は中立であるということを明確に示した。

 結局はこれが光秀にとっては痛恨となった。光秀に誘われながらも去就を定められずにいた武将たちは「細川動かず」の報で光秀を見限った。結局光秀は山崎の合戦で秀吉の率いる軍に敗れてそのまま滅んでしまう。結果として藤孝は山崎の合戦の帰趨に大きな影響を与えたことになる。

 藤孝は合戦には参加しなかったが、本能寺で信長を追悼する連歌興業を主催して信長に忠誠を尽くしたことを示したのである。なお藤孝は光秀と密接な関わりがあったが、実はこの数年前から秀吉とも交流していたと考えられる文書が残っているという。どうも両天秤にかけて判断した様子があるようである。そして本能寺の変の一ヶ月後、秀吉から藤孝に対して盟約を結ぶ書状を送っている

 

関ヶ原の合戦で危機を迎えるが、文化の力で生き延びる

 こうして秀吉の元で生き残った藤孝だが、関ヶ原の合戦の時に最大の危機を迎える。東軍に与した藤孝の田辺城に対して、西軍の兵1万5千がこれを包囲したのである。城兵はこれに対してわずかに500。藤孝は討ち死にを覚悟していたが、藤孝が古今伝授(古今和歌集の解釈に対して口伝で伝えられたもの)を受けていたことから、これが絶えることを恐れた後陽成天皇が藤孝に対して西軍と講和することを要求し、西軍には包囲を解くように迫った。こうして藤孝は危機を回避した。そして関ヶ原の合戦は家康の勝利となり、藤孝は家康の元で室町幕府時代の伝統やしきたりを伝授し、幕府の基礎作りに後見したのだった。

 

 と、以上のように実にしたたかに生き延びた武将が細川藤孝である。古今伝授などを受けていたことから文人武将のイメージがあるが、実は本人自身は怪力で知られる剛の人でもあったという。それにも関わらず文化の力を知っており、それを最大限利用した人物でもある。まさに「芸は身を助ける」を素で行った人であり、関ヶ原の合戦の時などはまさに古今伝授の力で生き残ったというしたたかさである。なおこの合戦の前に慌てて後継者に古今伝授を授けたのであるが、どうやらそれは完全でなかったらしいので、後陽成天皇が動いたらしい。この辺りについては磯田氏やゲストから「わざと出し惜しみしたのでは」という意見が出ていたが、私も同感である。そのぐらいの計算はするしたたかな人物であったと見るべきだろう。

 なお藤孝の細川家は実に文書の記録をよく残す家だったそうで、それが永青文庫として今日にまで伝えられており、これらが日本史の第一級の史料となっている。そういう点で後世にも影響の多い人物と言える。なお磯田氏が「恐らく藤孝の元には光秀から本能寺の変の理由を知らせるような文書も来ていたはずだが、それはやばいということで意図的に破棄したのだろう」と語っていたが、全く同感である。やはり残すべき文書と残すべきでない文書は選別していただろう。まあそれがもし残っていたら、本能寺の変の真相で後世困ることはなかったのだが。

 

忙しい方のための今回の要点

・信長・秀吉・家康の間を渡り歩いて巧みに生き残ったのが細川藤孝である。
・細川藤孝は連歌などの教養に優れ、義昭の元で各大名との連絡などに奔走し、信長の上京に貢献した。
・しかし義昭は信長と対立して挙兵する。だがこの時に藤孝は既に信長に通じて義昭を見限っていた。
・信長の配下となった藤孝は、光秀と共に丹波・丹後の攻略を行い、さらに光秀の娘のガラシャを長男忠興の妻に迎えるなど、光秀と親密な関係を築いていた。
・本能寺の変の発生時には細川家は光秀につくと見られていたが、藤孝は中立の立場を示して丹後から動かず、このことが結果として去就を定めかねていた武将たちの態度を決めさせることとなり、光秀が山崎の合戦で敗北する結果につながった。
・藤孝は秀吉と盟約を結んで秀吉に仕えるが、秀吉の死後の関ヶ原の合戦では東軍につき、居城の田辺城が西軍の大軍勢に包囲される危機に瀕する。
・しかし忠興が受けていた古今伝授が途絶えることを懸念した後陽成天皇が仲介に動き、藤孝は危機を回避することになる。
・家康が天下を取った後は、藤孝は室町幕府の伝統やしきたりを家康に伝え、江戸幕府の基礎作りに貢献する。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・とにかく「芸は身を助ける」という言葉はこの人のためにあると言われるぐらい、見事にそれで身を立てた人です。ちなみに同様に文化の力で生き延びた人と言えば今川氏真もいるんですよね。あの人は戦国大名としては完全に終わっちゃいましたけど、本人自体は教養や朝廷とのパイプなどが重宝されて家康の元で生き残り、そのまま今川家は後々まで残ったんですよね。まあ戦国時代にもこういう生き方もあったということです。

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