教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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番組リスト

1/13 BSプレミアム 英雄たちの選択 「"中高年の星" 伊能忠敬 知られざる前半生の決断」

伊能忠敬の前半生を考察する

 足かけ17年の全国測量で精密な日本地図を作成したことで知られる伊能忠敬だが、その偉業に関しては多くの疑問もある。だがそれらの謎は彼の前半生を省みることで分かるのだという。

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伊能忠敬

 

伊能忠敬に纏わる6つの謎

 佐原の商人だった伊能忠敬は51才で隠居すると、江戸に移り住んで暦を作る機関である暦局に通い詰めることになる。忠敬はここで幕府天文方の高橋至時に弟子入りする。新人には普通は中国の歴法を学ばせるのだが、至時は忠敬には西洋の最新の暦法を伝授している。なぜここで弟子入りすぐの忠敬が特別扱いされたかが第一の疑問。

 忠敬はこの4年後に蝦夷地測量を計画する。ただし本当の目的は地図作成でなくて地球の直径を計測することだったという。しかしそれまで幕府は藩を跨いだ測量を一番庶民に許した前例はなかった。だが幕府は申請から半年で忠敬に許可を与えている。ちなみに忠敬の身分は元百姓となっている。なぜここで許可が出たかが第二の疑問

 1800年に忠敬は測量の旅に出る。そして蝦夷地南部の海岸線の測量を行っている。この完成度の高さに幕府は引き続いての地図の作成を忠敬に指示する。しかし忠敬がなぜそのような高度な測量技術を持っていたかが第三の疑問。

 また忠敬は測量の過程で詳細な記録を残している。なぜ忠敬は地図と関係ないようなことまで詳細な記録を残したのかが第四の疑問。

 さらに忠敬の測量はあくまでボランティアであって、蝦夷地の測量では費用の8割近く(現在の価値で1200万円)が忠敬の持ちだしだったという。どうやって測量資金を忠敬が用意できたかが第五の疑問。

 その後も自費で測量を続け、4年後に転機が訪れる。東日本の地図が将軍に披露され、忠敬は60才で正式に幕臣に取り立てられ、ここからの地図の作成は幕府の直轄事業ということになった。しかしここで幕府はなぜ地図作成を忠敬一人に任せたかが第六の疑問。

 

佐原で商人として活躍した若き頃

 忠敬の前半生なのであるが、18才で佐原の商人に婿入りしている。関東で有数の商業都市だった佐原で伊能家は水運業や不動産業、米の売買など幅広く手がけていたのだが、特に酒造が収入の半分以上を占めていた。また伊能家は商人達が自治的に治めていた佐原の名主を務めていた。若い忠敬は名主にならずひたすら商売に専念していた。

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水路沿いに商家が並ぶ佐原

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ちなみにこれが伊能忠敬記念館

 佐原に来てから10年後に佐原の存亡の危機に忠敬は直面する。幕府からもし水運を今後も続けたいのなら、河岸問屋としての過去の証拠を提出しろと迫られたらしい。これに対応できなければ佐原の水運業が他の町に奪われてしまう。忠敬は伊能家の倉の資料を調べ、過去の荷物取扱量に関する克明な記録を発見する。これが証拠として認められて佐原の水運業は続けられることとなった。また税も低い額に収めることができたという。

 というわけでこれで忠敬は記録を残すことの重要性を痛感したので、これが第四の疑問の解答である。

 

名主になって天明の飢饉に対応

 37歳になった忠敬は名主に就任する。名主になったことで利根川の堤防の修理などのために名主には地図作りの技術が必要とされることになる。つまり忠敬の地図作りの技術は佐原時代に必要に迫られて身につけたものであるということで、これが第三の疑問の解答。

 しかし名主になって2年後に忠敬は未曾有の危機を体験する。浅間山の大規模な噴火が起こり、これが引き金となって5年に渡って天明の大飢饉が発生する。さらに1786年(忠敬が42才の時)には利根川の氾濫も起こる。これで百姓は徹底的に困窮、そして江戸では食うに困った人々が打ち壊しを起こす。佐原にも食べ物を求める人々が流入し、江戸と同様の打ち壊しが起こる可能性が生じていた。ここで忠敬の選択である・・・ということで、この番組が「選択」の番組だったということを思い出した。ここのところこの「選択」がない回が多いのですっかり忘れていた(笑)。

 ここでの選択とは 1.佐原を知行地にしていた津田氏に依頼して武士を送ってもらって武力で打ち壊しを抑える(津田氏はしばしば佐原の商人に金を無心していたので恩を売っている)。 2.窮民に施しをして味方につけることで打ち壊しを防ぐ。以上の2つである。

 で、番組ゲストの見解はほとんどが2。私もここは2。武力で打ち壊しを抑え込むにもいつまで何人の武士を張り付ける必要があるかがさっぱり読めない。それよりはそもそも打ち壊しの原因を除去する方が良いだろうという考え。また番組ゲストからも、やはり狙われるのは悪徳商人などが第一なので、自分達はそうではないというアピールも必要という話があり、これは全く同感。

 そして忠敬の選択も2だった。佐原の9割近くの家に米や金銭を配布、他の地域から流れてきた人にも一人一文ずつの銭を与えたという。おかげで佐原は一人の餓死者も出ず打ち壊しも起こらなかったという。このことが後に効いているという。忠敬が蝦夷地測量の願いを出した時に、近隣の村人が忠敬の天明の飢饉での行いを記して忠敬に名字帯刀を許して欲しいという箱訴を行っている。これがあったことで幕府役人に対する忠敬の信頼性が大いに上がったという。と言うわけでこれが第一の疑問の解答である。

 

商業で財をなしてから独学で天文学を勉強する

 なおここで忠敬は単に慈善事業を行っただけでなく、商才も発揮したという。浅間山の噴火の翌々年に米の不作を予想して関西から穀物を買い付けている。これは村人のお救い米になっただけでなく、残った分を江戸で売却して大きな利益を得たという。忠敬が隠居する頃には伊能家の資産は3万両(現在の価値で40億円以上)になっていたという。と言うわけで測量旅行の費用ぐらいは隠居料で十分賄えたというのが第五の疑問の解答となる。

 商いが軌道に乗ると忠敬は暦などに関する本を取り寄せて、天文学などを独学で勉強していたという。そして隠居したら好きな学問に打ち込むことを考えていたとのこと。だから隠居した時点で既に暦や天文学の知識を身につけていたので至時からも特別扱いを受けたというのが第一の疑問の解答である。

 なお測量中も忠敬は佐原のことを忘れることはなく、佐原で洪水が起こったと聞いた時、娘に「本家の財産がどれほど減ろうとも生活に困る村人の救済に当たりなさい」という手紙を送っているという。こうして忠敬は17年かけて全国を回って地図を作成するわけである。

 ちなみにゲストが言っていたが、忠敬は単に米を配って村人を助けるだけでなく、経済が回るようにということに配慮していたという。つまりは経済が回れば多くの人が救えるということが分かっていたということで、かなり経営のセンスに優れた人だったということらしい。

 

最後の疑問の解答は

 さて最後に残った第六の疑問「なぜ幕府は忠敬一人に地図作りを任せたか」だが、これについてはゲストの一人が「官僚は何か新しいことをする時には、失敗時の責任を取る必要がないように外部の下請けに投げる」と説明していた。霞ヶ関的な論理らしい。また一人でやった方がコントロールがしやすく、忠敬には各藩の状況を調査するという隠密的な使命も与えられていたのではないかという説も出ていたが、これも考えられるところではある。


 と言うわけで伊能忠敬について。しかし前半生を見ていると私が思っていた以上に偉人ですな、この人物は。ただ単にひたすら地図が作りたかった天文オタクのように私は考えていたのだが、そのオタク道を邁進できたのは、その立派な前半生があってのことだったということのようである。というわけで番組では磯田氏が「若い人は自分の生き方を考えて欲しい」と言っていましたが、もう若くない私には遅すぎる。残念ながらこの年になるまで、何の実績も徳も積むことが出来ませんでした・・・。というわけで、まあこれからもそんなに大それたことは出来ないでしょうし、するつもりもないです。

 

忙しい方のための今回の要点

・伊能忠敬の前半生を振り返って、それが後の地図作成とどう結びついたかを紹介している。
・忠敬は佐原の豪商の伊能家に18才で婿入りして商売に専念した。この時に佐原が水運を行ってきた証拠を幕府から求められるという事件があり、この時に伊能家の倉から証拠の文書を見つけ出した経験から、詳細な記録を残すことの重要性を実感しており、これが後に測量中に詳細な記録をつけたことにつながっている。
・37才で忠敬は名主になる。名主は利根川の堤防工事などのために地図を作成する必要があり、忠敬の測量技術はこの頃に必要に迫られて身につけたものだという。
・名主になって2年後に浅間山の噴火に端を発した天明の飢饉が発生した。この際に忠敬は近隣の村人に米や金銭を配布するなどしたことによって餓死者を防ぎ、江戸で増加していた打ち壊しも佐原では起こらなかった。近隣の村人は忠敬の功績を讃えた箱訴を幕府に行っており、この高い信用度のために忠敬が蝦夷地の測量を願い出た時に幕府の許可が下りたのだという。
・またこの際に忠敬は米の不作を予測して関西から穀物を事前に買い付けており、お救い米にした余った分は江戸で売却して大きな利益を得ている。このような忠敬の商才で忠敬が51才で隠居した時には伊能家の資産は40億円を越えていた。だから忠敬は私費で測量費用を賄うことが出来た。
・さらに商売が軌道に乗った後は忠敬は暦や天文学の本を取り寄せて独学をしていた。だから忠敬が弟子入りした幕府天文方の高橋至時も、彼に最新の西洋の天文学を伝授するなどの特別扱いをしている。
・なお幕府のプロジェクトとなった地図作成が忠敬一人に委ねられた点については、これは失敗時に自分達が責任を取らなくても良くするための官僚の常套手段だとする。また忠敬に諸般の事情を探る命が下っていた可能性も指摘されている。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・まあとにかく伊能忠敬は基本的には真面目にコツコツというタイプだったようです。だから商売でも成功した。またあの血道な測量はそうでないととても出来ません。私のようなアバウトな人間だったら、測量したデータを後でつないだら線がつながらないなんてことが絶対に起こりそう。

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