祟り神から学問の神となった菅原道真
平安時代には禍をなす怨霊と恐れられたのに、そこから現在は学問の神様として愛される存在になった菅原道真。彼の生涯とその後について。
学者を目指していたのだが、役人の道に進まされる
菅原道真は845年に郷土生まれた。彼の父・菅原是善は文章博士で今で言えば東大教授兼文科相の役人。つまりは学者の家系であり、道真も将来は立派な学者になることを目指していた。幼い頃から英才教育を受けていた道真はそれに応えるだけの十分な能力を持っていた。18才で大学寮の試験に合格すると26才で抜群の成績で官僚となる。そして33才で念願の文章博士となる。
しかし9年後の42才の時に文章博士を解任されて地方役人である讃岐の守に任じられる。これは学者として身を立てることを考えていた道真にとっては不本意な人事だったという。ただしこれは実際は左遷というよりも、道真に地方での行政経験を積んでそれを中央で生かして欲しいという意向であったのだろうという。
道真が赴任した讃岐は干ばつで苦しむ土地であった。道真は民が苦しんでいる現状を漢詩にして中央に訴えた(今で言うと、SNSで情報を広く流布したようなものか)。また役人の仕事として雨乞いなども行ったらしい。
讃岐に赴任して2年半後、宮中で宇多天皇が太政大臣の藤原基経に「阿衡として私を補佐して欲しい」と言ったのに対し、基経が「阿衡は実権のない名誉職だ」と激怒して政務を放棄するというトラブルが発生する(藤原氏による嫌がらせである)。当然のように朝廷は大混乱したのだが、この時に道真は基経に対して率直な意見書を送り、それを読んだ基経は政務に復帰して混乱は治まる。筋を通す道真の真骨頂であった。
京に復帰して出世するが、藤原氏に恨まれて左遷される
京に復帰した道真は宇多天皇の側近となる。そして894年に遣唐使の大使に任命されプロジェクトを託される。道真自身も唐に行きたい気持ちはあったようだが、一ヶ月後に道真が下した判断は遣唐使の中止であった。当時の唐は内乱で社会情勢が混乱してきており、ここでの遣唐使の派遣は危険に対して得るものがないと冷静に判断したのである。結局は唐はこの13年後に滅んでおり、道真の決断は正しかったことが後に証明される。
冷静で正確な判断を下せる道真は宇多天皇や次の醍醐天皇に信頼され右大臣にまで出世する。しかしそのことが左大臣の藤原時平に危機感を抱かせる。藤原氏が自分の失脚を画策していることを知った道真は自らを罷免を願い出るのだが、天皇はそれを認めなかった。結局は藤原氏の陰謀によって、道真は逆心を持つとの濡れ衣を着せられて太宰府に左遷されることになる。
太宰府に流された道真はかなり粗末な生活を余儀なくされたらしい。仕事も干された状態になっていたらしく、屋敷もボロボロだったとか。結局は道真はそのまま京に帰ることもかなわないまま2年後に太宰府で59才で没する。
道真死後の京では異変が相次いだことから神となる
しかしその後の京では疫病や災害が発生し、藤原時平が39才で病死したのを始めに藤原氏に死者が出る。そしてついには宮中に落雷で死者が出る事態が発生する。宮中の貴族達は道真の怨霊であると恐怖する。その結果、道真を鎮めるために北野天満宮が建設される。これを建造したのは藤原氏で、後に国を挙げて道真を祀るようになったという。そしてその信仰は民衆に広がっていく。まずは落雷を起こしたと言うことで、雨を司る雷神として農耕の神になったという。そして道真に対する信仰は全国に広がっていった。なお太宰府の梅ヶ枝餅は、道真に食べ物を届けようとして梅の枝の先に餅をつけて道真に渡したという伝説から生まれているとか。なお学者として優秀だった道真が学問の神となったのは江戸時代以降だという。
と言うわけで受験の神様である太宰府天満宮が生まれたというわけである。私も中学生の時に修学旅行で参拝したことがある。なお最近では九州国立博物館が太宰府と地下通路でつながっているので立ち寄ったことがあるが、ここはとにかく参道筋がかなり賑わっている。
それにして藤原氏も「冤罪で陥れた」という後ろめたさがあるから、道真の祟りだと恐れたということだろう。また回りの貴族もそもそも冤罪であるということを了解しているから、「道真は相当に藤原氏を恨んでいるだろうな」と思っていたのだろう。道真はそもそも権力を求めていた人ではないのに、優秀であるがゆえに重宝されて祭り上げられ、その結果権力欲の権化のような藤原氏に恨まれて陥れられたのだから、道真にとっては全く不本意だったろう。
道真としては政治家として権力を持つよりも、学者としてその分野で名をなすことの方が目指していたことだし、そうなった方が幸せだったろうに。能力がある人でもまさに人生とは思うようにはならないというお話である。
忙しい方のための今回の要点
・学者の家に生まれた道真は自身も学者として身を立てることを目指していた。そうして文章博士になったのだが、42才の時に讃岐の守に任命され、それから役人としてキャリアを積まされることになる。
・藤原時平が宇多天皇と揉めた時には道真は率直な手紙を時平に送って説得した。その後、道真は宇多天皇や醍醐天皇に信頼されて出世するが、そのことが藤原氏の警戒を招くことになる。
・そして太政大臣の藤原基経が道真に冤罪を着せて太宰府に左遷させる。道真は太宰府で罪人同然の生活を送りながら京に戻ることなく2年後にこの世を去る。
・しかしその後、京では疫病や天災が相次ぎ、ついには藤原基経が39才で病死する。その挙げ句に宮中に落雷が発生して死傷者が出る事件が発生、藤原氏や貴族達は道真の怨霊の仕業と震撼する。結局は藤原氏が道真を鎮めるために北野天満宮を建設して、国を挙げて道真を祀るようになる。
・やがて道真は落雷を行った龍神から雨を司る農業の守として、さらには江戸時代には優秀な学者であったことから学問の守として信仰されることとなった。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・当の道真氏はあの世でどう思っているでしょうかね。京での騒ぎについてなんて「いや、オレは別に何もやってないから」って言っているような気がします。「死んでから祀り上げるぐらいなら、生きている内に学問に専念させろ」ぐらい言いたかったかも。
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