教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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3/8 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「秀吉VS家康 本当の天下分け目の合戦!小牧・長久手の戦い」

秀吉と家康の最初で最後の直接対決

 秀吉と家康が直接対決した最初で最後の戦いである小牧・長久手の戦い。この戦いは実は後の天下の帰趨を定めた戦いでもあると言う。

 本能寺の変の後に頭角を顕したのは秀吉である。信長の次男の信雄と組んで、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家を滅ぼし、さらには信長の三男の信孝を自害に追い込んだ。こうして地盤を固めると最早信雄は不要と、信雄を安土城から追い出して信雄の家老たちを寝返らせる。この扱いに激怒した信雄は反秀吉で立ち上がるが、独力では対抗が困難として同盟を申し込んだのが家康だった。

 家康は秀吉の勢力が急速に拡大して自領に迫ってきているのに脅威を感じていたのと、家康も天下への野心があったことから信雄を担いで秀吉と戦うことを考えたのだという。さらに家康は北条氏とも同盟を結んでおり、北条は伊達と結んでいたことから三国同盟が成立しており、これが家康を強気にさせる理由の一つでもあったという。家康は北条に援軍も要請したが、これは叶わなかったという。ただし雑賀衆や長宗我部などを味方につけて秀吉包囲網を結成していたという。

 

秀吉の犬山城奪取から戦いが始まる

 家康は信雄と同盟を結ぶと直ちに秀吉に内通した三家老を信雄に殺害させている。そして家康は清洲城に入って秀吉に備える。しかしその時に池田恒興が秀吉に寝返って犬山城を奪取したの知らせに信雄は驚くことになる。秀吉の調略も始まっていたのである。

 秀吉方の森長可が小牧山城を狙っていることを知った家康は、先に信雄と共に小牧山城に入る。これに焦った森長可は単独で小牧山城の奪取を試みるが、坂井忠次と松平家忠の奇襲を受けて敗走する。そして家康は小牧山城周囲に土塁を築いて守りを固める。この敗北を知って激怒した秀吉は軍勢を率いて犬山城に入る。これで秀吉軍10万に対して信雄・家康連合軍1万6千と秀吉は数の上では圧倒的に優位に立つ。秀吉も犬山城の周りを固めて睨み合いとなる。

 

三河を突こうとした秀吉軍を家康が撃破する

 小牧山城近くの楽田城に入って家康と睨み合いをする秀吉の元に、犬山城の池田恒興が中入りの許可を求めてくる。中入りとは空になった本国を攻めることで、この場合は三河を攻めることを意味した。池田恒興としては娘婿の森長可の失態を挽回するつもりだったのだという。秀吉はこれを許すが、それは恒興と長可をおとりにして家康をおびき出そうという考えと、甥の信吉を三河攻めの大将にすることで武功を上げさせたいという考えがあったという。

 こうして二万の軍勢が夜間に楽田城を出発する。この情報はすぐに家康に伝わる。家康は直ちに小幡城に移り、秀吉の狙い通りと思われたのだが、この家康の動きは秀吉の予想よりも遥かに早かった。そして家康は三河攻めの軍勢に早朝に背後から奇襲をかける。完全に油断していた信吉の軍勢は壊滅、そして他の軍勢も家康軍に包囲されて森長可と池田恒興は戦死する。家康の情報網が優れていたのと、秀吉の軍師である黒田官兵衛が不在だったこと、さらには信吉が初陣で経験不足であったことが勝敗に影響したとされる。

 

家康の命を救った大地震

 家康を力で屈服させるのは困難と考えた秀吉は信雄と講和して家康の戦いの大義名分をなくすことを考える。秀吉は信雄の城を攻撃させて信雄に圧力をかける。これで信雄は秀吉に屈して戦いの大義名分を失った家康は撤退する。

 しかし秀吉はこのまま家康を放置するつもりはなく、大垣城に兵糧を蓄え、石川数正を寝返らせるなど戦いの準備を進めていた。秀吉の戦力は圧倒的で、ここで戦となれば家康は危機だったのだが、この時に発生したのが天正大地震である。この地震で大垣城が全壊して家康との戦どころでなくなってしまう。これが結果的に家康の天下取りにつながったのだが、このことは以前にヒストリアでも紹介していた。

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 この後に家康は秀吉に下るが、結局は小牧で秀吉に勝利している家康を秀吉も厚遇せざるを得なくなり、このことがひいては家康の天下につながったという。つまりは小牧・長久手の戦いは家康の天下取りにつながる戦いだったのである。

 

 秀吉と家康の直接対決であるが、結局はこの戦いでは家康が一方的に株を上げる形になっている。何しろ圧倒的に大軍であった秀吉軍を局地戦で破っているのだから、それだけで家康の強さを天下に示すことになったろう。秀吉としてはかなり苦々しかったことは間違いない。

 もっとも家康も勝利したとは言っても全体としてみれば秀吉軍を壊滅させるだけの力があるわけではないので、かなり苦しい戦いだったのは間違いない。家康としては長宗我部や雑賀衆などが秀吉の背後を脅かしてくれれば状況打開を期待できたが、どうもそのような動きはなかったようである。

 それにしても天正大地震の件は、明らかに家康に運があったとしか言いようがない。この地震で秀吉は家康に対する戦準備が無に帰しただけでなく、畿内中心に甚大な被害が出たことでその対応に追われて戦どころでなくなってしまい、それが結果としては家康を滅ぼすべきタイミングを失うことにつながったことになる。歴史とは偶然の積み重なりで大きく動くことがあるのだが、これがまさにそれである。

 

忙しい方のための今回の要点

・小牧・長久手の戦いは反秀吉で立ち上がった信雄が、家康に同盟を求めたことで始まった。
・家康は秀吉の脅威を感じていた上に、北条や伊達と同盟を結んでいたことから秀吉との戦いを決意した。
・家康は秀吉の背後の長宗我部や雑賀衆などに働きかけるが、秀吉も池田恒興に働きかけて味方に引き入れる。このことによって犬山城が秀吉方の手に落ちる。
・さらに森長可が小牧山城を狙っていることを知った家康は、森長可の軍勢に奇襲をかけて敗退させ、小牧山城を固く守る。
・睨み合いの中、池田恒興が家康が留守にした三河を攻撃することを願い出る。恒興らを囮にして家康を誘い出すことを考えた秀吉は、甥の信吉を総大将にして2万の軍で三河を攻撃させる。
・この動きをすぐに察知した家康は、秀吉が想定していたよりもはるかに早く動き、奇襲で信吉の軍を壊滅させ、池田恒興と森長可を戦死させる。
・睨み合いで埒があかないことを懸念した秀吉は、信雄を攻めて講和させることで家康の戦いの大義名分を消滅させる。
・秀吉はさらに家康攻めを用意していたが、天正大地震で前線基地の大垣城が全壊したことなどから戦いを断念、結果として家康は生き延びることとなる。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・天正大地震の話もありましたが、結局は実力だけでなく運も兼ね備えないと天下は取れないということです。確かに実力はあったにもかかわらず、運に見放されて滅んだ者は少なくないです。

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