教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

3/1 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「越後の龍・上杉謙信」

戦国最強・上杉謙信の生涯

 戦国最強とも言われ、自らの欲のための戦はしなかったと言われている義の男・上杉謙信。その生涯を紹介・・・とのことなんだが、実際に上杉謙信はこの手の番組の定番中の定番なので今までも他の番組でも多々登場している。実際に比較的最近にもNHKのザ・プロファイラーでその生涯は紹介された。

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 上杉謙信は1530年に越後の守護代の長尾為景の三男として生まれる。当時の越後は守護の権威が失墜しており、為景が実権を掌握していた。そして1548年、為景が亡くなったことで謙信が家督を継ぐ。この時に長男もいたのだが病弱であり、戦の陣頭に立つことが出来なかったからだという。謙信は戦において連戦連勝だったが、ただし政治は兄の指導の下で行っていたという。

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春日山城に立つ上杉謙信像

 しかし越後の守護の上杉定実が亡くなると、謙信が後継者に指名されて越後の国主となる。謙信が国主に任命された背景には越後の豊富な金山による財力があるという。幕府に多額の金銭を献上して出世したのだという。

 

謙信はどれだけ強かったのか

 上杉謙信の戦の強さは知られており、手取川の合戦では柴田勝家らの4万の織田軍を2万の兵で完膚なきまでに勝利している。この勝利には謙信の卓越した戦術があると言う。織田軍は七尾城を守るために出陣したのだが、その七尾城を謙信は調略など用いてあっという間に落としてしまう。そしてその情報が織田軍に伝わらないようにして織田軍を手取川を渡らせ、織田軍が手取川を渡ったところで七尾城陥落の情報を伝える。そこで川を渡って引き返そうとした織田軍の背後を急襲したのである。

 上杉謙信が本当に最強だったのかを信玄、信長、秀吉、家康の生涯の戦績データと比較した。その結果「敗北しなかった率」を比較したところ、5位が信長の78%(実は信長は結構大敗もしている)、4位が家康の79%(三方原で信玄に惨敗してクソちびりながら逃げたのは有名)、3位が信玄の84%(砥石崩れの大敗が有名)、2位が秀吉で92%(戦上手が際立つが、長久手では家康に負けている)、そして1位は謙信で94%。しかも負けた戦はことごとく家臣によるものであり、本人が出陣した戦ではほぼ負けはないという。そう言うわけでデータから見てもやはりその強さは抜きんでているという。さらには困難とされる城攻めが非常に上手いのが際立っているという。

 さらに謙信は戦術面でも革命を果たしたという。それが現れているのが一騎討ちで知られる第四次川中島の戦いだが、この戦いでは謙信は車がかりの戦法を使用したと甲陽軍鑑に記されている。この車がかりの戦法というのがどういうものであるのかというのが不明なのだが、歴史家の乃至政彦氏は、各部隊が順番に敵を一部隊ずつ足止めをしたところで精鋭の旗本部隊が敵の本陣を急襲するという戦法だったのではと推測している。さらに精鋭部隊の激突では、前線に鉄砲を集中的に配備して、これで敵を乱したところで急襲をかけたと推測している。だから乱戦の中で信玄と謙信の一騎討ちという局面も発生したとしている。鉄砲と言えば織田信長のイメージがあるが、実は効果的に戦術に取り込んだのは謙信が初めてというのが乃至氏の推測である。

 

生涯独身を通した理由とその秘められた野望

 謙信は生涯独身を貫いたことも知られているが、その理由についても様々推測されている。まず謙信が男色好きだったからという説があるが、この時代男色好きの大名はいくらでもおり、それはそれ、これはこれで、結婚して子供は残しているのでそれは理由にはならないとする。次の宗教の戒律で邪淫を戒めていたという説であるが、謙信は禁酒の戒律については破りまくり(アル中説がある)だったから、邪淫だけ戒めるというのも奇妙と言うことで理屈に合わないとする。そこで登場するのがそもそも兄の子供の成長後に家督を譲るための中継ぎとして家督を継いだので、スムーズに家督を譲れるように子供を作らなかったという説である。ただ兄の息子は途中で亡くなっているのだが、それでも謙信が子供を作らなかったのは理屈に合わないのだが、これについては一度誓った義をあくまで守る男として良い格好したのではとのこと。ウーン、なんかこれもイマイチなんだが・・・。私はやっぱり謙信は根本的に女性に興味がなかったのではと思っている。なお謙信は姉に頭が上がらずシスコンの気があったという説もある。ここら辺りから考えていくと、謙信女性説はともかくとして、謙信オネエ説はあり得るかも。戦場で馬に乗って先頭を突っ走っていくアル中のオネエって・・・そりゃ怖いわ。敵も逃げるわ(笑)。

 野心が全くなかったとされる謙信であるが、実は天下を采配するという野望はなかったが、別の野望は持っていたという。それは武田と北条を抑えて関東を支配、そうすることで室町幕府を盛り立てていくという考えであったという。室町幕府も謙信に火薬の製法を伝えるなど謙信の軍事力強化を図っており、関白近衛前久は謙信の関東征伐にも同行している。しかしこの試みは小田原城の堅固さなどのために頓挫している。この辺りはヒストリアでも近衛前久の観点から描かれている。

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 戦国最強、人気の点でも非常に高い上杉謙信について。何しろ信長の野望でも武力100という設定になっていた人物であり、押しも押されぬ戦国最強武将である。私も春日山城を訪問したことはあるのだが、とにかく堅固な山城であったのが印象に残っている。

 謙信の基本構想って、やっぱり「関東を抑えて」ってことだったようです。ただ奥地の越後から関東に出張ってくるってのは謙信をもってしてもやはり無理があったんでしょう。度重なる出兵は流石の越後の兵をも疲弊させたという感があります。むしろ謙信に中央への野心があって、畿内方面への出兵を優先していたらその方があっさりと天下が定まったかもという気がしてなりません(そうなったら信長はこの世に出られなかったでしょう)。上杉謙信を見ていると、戦術的には超一級なんだが、戦略レベルでの行動が見られないというか、そもそもそんな考えがなかったっていう感覚を強く受けるのである。

 謙信は家督を継いだ時に、戦いは滅法強いから任せるが、内政に関しては兄の指図通りにするように言われていたというような話が出ていたが、最初から戦い以外のことについては危惧されていたということだろう。確かに謙信はバリバリの軍人であり、政治にとって重要である柔軟性とかが欠けているように思えるので、その選択は正しかったんだろうなという気がする。

 

忙しい方のための今回の要点

・上杉謙信は越後の守護代の長尾為景の三男として生まれたが、兄が病弱であったために戦の陣頭に立つことが出来ず、謙信が家督を継いで越後平定の戦いに明け暮れることとなる。
・越後の守護の上杉定実が亡くなると、謙信が後継者に指名されて越後の国主となる。この背景には金山による豊富な財力で幕府を味方につけていたことが大きいという。
・謙信の戦の強さは知られているが、実際に本人が出陣した戦いはほぼ無敗であるという。謙信は実際に鉄砲を本格的に大量導入することも行っており、戦闘技術的に革新的な武将であった。
・謙信は生涯独身で子供を作らなかったが、これは元々兄の子が成人するまでの中継ぎとして家督を継いだという意志があったからだと推測されいる。
・謙信は北条氏や武田氏を押さえることで関東を制圧し、それを拠点に室町幕府を盛り上げるという構想を持っていたが、実現できずに終わった。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・まあとにかく「何を考えていたか今ひとつ理解できない」というところのある人物でもあります。実際に謙信が天下取りの野心を抱いて動いていたら戦国の世は大きく変わったでしょう。謙信が中央の制圧に動かなかったのは、結果として信長としては非常にラッキーだったと言えますが。

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