教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

3/10 BSプレミアム 英雄たちの選択 「烈公・徳川斉昭 幕末動乱への導火線」

幕末に大きな影響を与えた尊皇攘夷のカリスマ

 今回は大河ドラマ絡みで徳川斉昭。例のドラマで竹中直人が演じている尊皇攘夷バーサーカー親父である。その斉昭の果たした役割と実像に迫ろうという内容。ちなみに烈公というのはその苛烈な性格からついたあだ名らしい。磯田氏によれば「幕末の信長」とのこと。

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徳川斉昭

 水戸は御三家の中ではもっとも小さく、藩主は江戸に常駐することになっていた。ここの藩校である弘道館を作ったのが斉昭であると言う。水戸藩の精神を記した弘道館記碑には尊皇攘夷という言葉が記してあるという。斉昭は尊皇攘夷を水戸藩の伝統と考えていたという。その思想の背景には光圀が編纂させた大日本史に基づく水戸学にあるという。

 

諸外国の進出に対して海防強化を訴えるが退けられる

 時は幕末、日本周辺には外国船が頻繁に現れるようになっていた。水戸藩でも外国船が訪れるという事件があったという。黒船来航の30年前である。斉昭は藩主に就任すると対外政策の変更を行う。まず蝦夷に藩士を移住させ、開拓計画を進めたという。その開拓計画を斉昭が自ら執筆した北方未来考には異国を迎え撃つためのトーチカや戦術の記載までしているという。さらには幕府に対して海防策の要として、大型船の製造の解禁が必要と訴えた。しかし幕府はそれらの提案を認めなかった。

 これに対して斉昭は狩猟を口実に大規模な軍事演習を行った(あのドラマにも出ていたやつである)。これは攘夷のアピールであったという。諸藩からの視察も訪れたという。また大砲も登場したが、これは寺院から集めた鐘や仏像を鋳つぶして作ったものだという。しかしこれには寺院の反発を呼ぶと共に、幕府内にも水戸藩を警戒する声が上がり、1844年に斉昭はついに江戸屋敷で隠居謹慎が命じられる。斉昭は失意の中で藩主の座を息子の慶篤に譲る。斉昭の改革は頓挫する。

 

阿部正弘の登場で幕政に関与する

 しかし老中首座に阿部正弘が就任したことで斉昭に転機が訪れる。幕府として異国船への対応が必要と考えた阿部は、海防政策に通じる斉昭に意見を求めたのである。これに対して斉昭は軍艦の建造を提案する。阿部はこれに同意し、まずは幕府が作った後に諸藩に許可を与えるとした。阿部からの信頼を得た斉昭は1849年に謹慎を解かれ、藩政への復帰を許される。

 それから4年後、ペリー艦隊の来航が発生する。悩んだ阿部は斉昭を海防参与に任命する。ついに幕政に関与することになったのである。斉昭はペリーへの返答を引き伸ばし、その間に海防を強化することを提案する。この時に斉昭は庶民まで軍に動員することを考えていたという。攘夷で国民の心を一つにして、そこから富国強兵を進めていくという考えだという。

 しかし実は斉昭は単純に攘夷だけを考えていたわけではないという。同じく攘夷派の福井藩主の松平春嶽に送った書簡には、「今の時勢では攘夷は不可能だから、まずは交易・和親の道を開いて力をつける必要がある」という現実的政策を訴えているという。軍事力の大きな開きを斉昭は認識していたのだという。ただし自分は攘夷の巨魁として世間に認知されてきたので、死ぬまでこの説は変えないつもりだとも語っている。本音と行動の解離が見られるという。

 

井伊直弼と対立して謹慎させられる

 幕府はペリーと日米和親条約を結ぶが、アメリカはそれだけで満足せず、2年後に来日した総領事のハリスは開戦も辞さずの強硬姿勢で通商条約を求める。

 この時に子のない将軍家定の後継者問題が持ち上がる。譜代大名や幕臣の多くは家定の血筋に近い慶福を押したが、斉昭や西国の雄藩が押したのは斉昭の息子である慶喜だった。両者の対立の中で阿部正弘が死去、斉昭も海防参与を辞任して幕政から距離を置く、この後に大老に井伊直弼が就任することになる。井伊は天皇の勅許を取らないままアメリカと通商条約を締結する。これを許せなかった斉昭は幕府の定めを破って春嶽らと共に井伊の元に向かって、無勅許調印について井伊を問い詰める。しかし井伊はそれに取り合わなかった。また将軍後継者も慶福に決まっていると伝える。不満が高まる斉昭だが、そこにさらに無許可の登城の件を幕府に責められて謹慎を命じられる。斉昭は藩政からも遠ざけられる。

 

朝廷からの攘夷実行を命じる勅諚

 そして1858年8月8日、朝廷は水戸藩に孝明天皇の命令書である密勅を下す。これが戊午の密勅である。ここには無勅許調印に対する批判と斉昭らの処分の見直し、さらに攘夷の推進を強く求めるものであった。さらにこれを水戸藩から諸藩に伝達せよとの司令が加わっていた。

 同じ内容の勅諚は2日後に幕府にも届く。一方で水戸藩の上層部はこの勅諚に困惑する。藩内でもこの件は周知の事実となり、藩内の意見は割れて統制が取れなくなる。この時に斉昭の決断である。朝廷に従って勅諚を諸般に伝達するか、幕府に配慮して勅諚を留め置くかである。天皇を敬うことと幕府に忠義を尽くすことが相対するという今まで想定したことのない事実に直面したのである。

 番組ゲストの意見は2つに割れていたが、結局は斉昭の決断は勅諚を留め置くというものであった。しかしこれは水戸藩内に分裂を招くことになる。斉昭の意向に従って幕府を刺激するべきでないという鎮派と朝廷の以降通りに勅諚を伝達するべきとする激派に分かれることになる。そして激派とそれに刺激された庶民も江戸に向かう。斉昭はそれを鎮めようと書簡を送るが、藩政の表の場から身を引いている状態では統制が効かなくなる。

 井伊直弼はここで反対派の弾圧である安政の大獄を実施する。激派の首謀者とされた斉昭は1859年に水戸での永蟄居の処分を受ける。斉昭の政治からの永久追放である。そして水戸に護送された藩士達は打ち首などに処された。これに対して激派がついに暴発、桜田門外で井伊直弼の暗殺に及ぶ。これに対して斉昭は言語道断と怒ったという。斉昭が火を付けた尊王攘夷は彼の思惑を越えて先鋭化してしまったのである。その5ヶ月後に斉昭はこの世を去る。

 結局はその後、水戸藩ではさらなる強行派である天狗党が台頭し、水戸藩では内部対立が激しくなって衰退していく。結局はそうして水戸藩は幕末での影響力を失ってしまったのだという。

 

 以上、斉昭について。あのドラマでは日本の現状も無視して狂信的に攘夷を唱えているだけのような印象があったが、実際の斉昭は現実をわきまえていたようである。だとしたら、あのドラマはとんだ風評被害である。

 斉昭が尊皇攘夷に火を付けたわけだが、結局は水戸藩はかなり狂信的になってしまって、斉昭が亡くなってからは統制が全く効かなくなって実質的にテロリスト集団みたいになってしまったら、社会的影響力がなくなってしまったのは皮肉である。磯田氏が斉昭と井伊直弼という強烈な個性を持ったカリスマが互いに対立してしまったというのが悲劇と言っていたが、確かにこの対立がなかったら、水戸藩が幕府を支えて明治維新を断行していくという全く新たなストーリーというのも実はあり得たかもしれない。結局は幕府を支える立場であった水戸藩がグダグダになってしまったことで、時代は薩長を中心として倒幕へと動くことになってしまったのであるが。

 この時に、幕府を中心として富国強兵を続けていったら、脱亜入欧一辺倒だった明治政府とはまた違った形の日本が成立していただろう。それはそれで面白かったかもしれない。そして何よりも、そうなったらあの幕末の無駄な人死にのかなりの部分が避けられたことにもなるが。

 

忙しい方のための今回の要点

・斉昭は弘道館を作って尊皇攘夷を水戸の基本方針として強く掲げることになる。
・当時日本周辺に外国船の襲来が頻発したことから、斉昭は蝦夷地を開拓して異国に備えることを考える。また幕府に対して大型艦の建造を解禁すべきであると訴える。
・さらには狩猟を口実にして大規模な軍事演習も実施する。しかし斉昭の姿勢が幕府の警戒を呼んで、1844年に江戸屋敷で隠居謹慎が命じられる。
・しかし老中首座に阿部正弘が就任したことで状況が変化する。幕府として海防が必要であると考えた阿部は、斉昭について海防に対する意見を聞くようになる。
・さらにペリー来航が発生すると、阿部は斉昭を海防参与として幕政に関与させる。斉昭は時間稼ぎをしてその間に海防を整えることを訴える。
・しかしその後、将軍家定の後継問題で慶福派と慶喜派が対立する中、阿部正弘が亡くなる。大老に就任した井伊直弼は無勅許でアメリカと通商条約を締結、これに異を唱えた斉昭は幕府から謹慎を命じられる。
・そんな時、水戸藩に幕府を批判して攘夷の執行を命じる勅諚が天皇から送られる。さらにこの勅諚を水戸藩から諸藩に伝達するように命じられる。天皇の意向に従うか、幕府と対立を避けるために勅諚を留め置くかで意見は分かれるが、斉昭はこれを留め置くことにする。
・しかしそのことが水戸藩内での分裂を招くことになる。幕府と対立してでも天皇の命に従うべきと言う激派が大挙して江戸に上る事態に斉昭は押さえをかけようとするが、上手く行かなかった。
・これに対して井伊直弼は激派を力で弾圧(安静の大獄)、斉昭に首謀者として永蟄居を命じる。しかしついに激派の一部が暴発、桜田門外で井伊直弼の暗殺に及ぶ。
・斉昭はこれを言語道断と怒るが、5ヶ月後に斉昭は死去、過激派が台頭して統制が効かなくなった水戸藩は内部分裂もあって力を失っていく。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・自分が火を付けた運動が、ドンドンと先鋭化して手がつけられなくなっていく状況を斉昭はどういう思いで見ていたのだろうか。革命運動なんかも最初は理論的で平和的な指導者がいたのが、段々と過激派が支配していって最後は大流血の挙げ句に内ゲバでさらに血を流すなんてのも良くあることである。運動に火を付けるのは出来ても、実はそれを制御するのは実に難しかったりする。

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