教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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3/29 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「戦国の世を変えた!秀吉の備中高松城の水攻め」

秀吉の城攻めの巧みさを示す高松城水攻め

 合戦において困難と言われているが城攻めである。圧倒的に防御を固めた敵を打ち破るのは、余程の兵力の差がないと単なる力攻めでは大きな犠牲を出してしまう。城攻め巧者はいかに被害を出さずに敵の城を落とすかにかかっている。歴史上、城攻めの名人と言われているのが秀吉であるが、その秀吉の城攻めの中でも独創性などで高く評価されているのが備中高松城の水攻めである。今回はその備中高松城の水攻めの経緯と、それが後の世に与えた影響を見る。

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高松城跡は今では公園となってます

 

秀吉による中国攻め

 まず秀吉が備中高松城を攻めた経緯であるが、織田と毛利の対立が背後にある。それまでは播磨・但馬といった緩衝地帯を挟んで紛いなりにも友好関係にあった両家であったが、信長の勢力の拡張と共に対立の構図となっていく。そして信長が追放した将軍・義昭を毛利が鞆で匿うとなって対立は必然となり、信長の本願寺攻めの際に毛利が本願寺に荷担したことで両者の対立は決定的となった。

 この期に及んで信長は秀吉に毛利攻めを命じる。秀吉はまず播磨の攻略から取りかかり、この時に黒田官兵衛が調略に活躍する。官兵衛は秀吉が播磨に出陣してくると、姫路城を提供している。こうしてほぼ秀吉の手中に収まりつつあった播磨であるが、その中で頑として抵抗したのが上月城の赤松政範である。秀吉は上月城を力攻めし、皆殺しにしている。これは秀吉による見せしめだった。

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上月城本丸、そんなに大きな城ではない

 

兵糧攻めで落とした三木城と鳥取城

 そしていよいよ毛利領に侵攻になる。先鋒は播磨最大の大名だった別所長治だった。しかしこの長治が反旗を翻す。長治は自分こそが中国攻めの指揮官に相応しいと考えていたので、成り上がりの秀吉の下風に立たされたことで不満を持っていたのだという。長治の寝返りの影響は大きく、一時は信長方に付いた諸将も相次いで寝返った。激怒した信長は秀吉に長治を討つことを命じる。

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三木城跡にある別所長治像

 ここで秀吉は三木の干殺しと言われる兵糧攻めを行う。別所勢は2年間頑張ったが、食料が尽きて餓死者が出るようになり、長治は降伏して一族もろとも切腹する。三木城を落とした秀吉は播磨を平定、その頃弟の秀長が但馬を平定し、信長は秀吉に但馬と播磨の二国を与える。

 ついで秀吉は鳥取城の攻略にかかる。ここで用いたのも兵糧攻めだが、今度はより周到な手を取る。まずは城下の米を買い占めてから、領民を城に追い込んでから包囲する。人数が増えている上に城下に米はない状態で、鳥取城の兵糧は瞬く間に枯渇し、城内は凄惨な有様となる。城主の吉川経家は降伏して城兵の助命を嘆願して切腹する。

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秀吉は鳥取城を見下ろす太閤ヶ平に布陣して鳥取城完全包囲

 

難攻不落の高松城に力攻めを断念

 秀吉が次に狙ったのが備中の高松城である。秀吉は2万の兵を率いて備中の攻略にかかる。毛利方は境目七城を整備してこれに対抗する。要の高松城の城主は清水宗治だった。秀吉は宗治に調略を行うが、小早川隆景に恩のある宗治は寝返りを拒絶する。

 境目七城は秀吉の大軍によって高松城以外は落城する。秀吉は高松城の攻略にかかる。城兵は5千に対して秀吉軍は3万。戦力で圧倒的に優位にある秀吉軍は力攻めにかかるが、高松城の周りの沼地に足を取られて動けず、城兵に狙い撃ちにされて惨敗する。翌日の攻撃も同じく惨敗、これで秀吉は力攻めを断念することにする。

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高松城周囲は今では蓮池である

 ここで秀吉が採用したのが水攻めである。一般的には黒田官兵衛が献策したとされているが、その証拠はないという。小和田氏などは「蜂須賀小六辺りが言ったかも」とのこと。とにかく高松城が三方を囲まれた湿地にあるのを逆手に取り、水浸しにしてやろうという考えである。

 

水攻めのための堤防を築く

 地面に杭を打って、その上に土嚢を積んで全長3キロ、高さ7メートルほどの堤防を作ったという。この工事は12日間で終了したと言うからかなりスピードである。秀吉は土嚢を運んできた農民に対して、米一升と銭100文を支払ったという。これは当時の農作業の労賃の1日分以上という破格の額らしいから、農民は喜んでせっせと土嚢を運んだという。こうして635万個もの土嚢が運ばれたという。またここの地形には土砂の堆積による自然堤防もあったとのことなので、それも利用したという。

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今も堤防の跡が残る

 こうして堤防を築くと足守川には石を積んだ船を沈めて堰を作り、梅雨で増水した足守川の水を城に流し込んだ。これで高松城は浸水、城兵は休むことも出来なくなり、水没した食料は腐ってしまうことになる。

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高松城水攻めの模型

 なおこうやって勝ちが見えたところで、秀吉は信長に援軍を要請しているのだが、これは秀吉が信長をヨイショしようと考えていたのではと言う(さすが太鼓持ち)。

 

本能寺の変で慌てて講和することに

 しかしその信長が本能寺で光秀に討たれてしまう。そこで秀吉はその事実が毛利に伝わる前に慌てて和睦する。条件は清水宗治の切腹。これを聞いた宗治は皆の命を守るために切腹する。それを見届けた秀吉はすぐに兵を帰すと京に直行するが、これがいわゆる中国大返しである。なおここで秀吉があくまで清水宗治の切腹にこだわったのは、抵抗した者に対する見せしめという意味と、清水宗治の命までかけたのだからと毛利がすぐに講和を破ることがないようにとの考えだったのではとのこと。実際に秀吉が引き返してから毛利は信長の死を知るが追撃はしていない。

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天晴れな最期を遂げた清水宗治の首塚

 

 以上、高松城水攻めの顛末について。結局はこの後、明智光秀を討った秀吉は天下人になるわけであるが、まあその転機ではあった。とは言うものの、直接この戦いが秀吉の天下取りに結びついたと言うよりも、たまたま時期が重なったというべきだが。

 秀吉の独創性を語るエピソードにされる水攻めだが、実のところ水攻め自体はそんなに特殊な戦法ではなく、古代中国などでも普通に行われている。だから黒田官兵衛が献策したのではと言われるわけであるが。秀吉の独創性は水攻め云々よりも、金の力に物を言わせて城を落とすということの方が画期的である。鳥取城攻めでは大金をはたいて米の買い占めをしているし、高松城でも大金をはたいて農民を動員している。織田陣営がそれだけの財力を有していたということと、精鋭を失うよりは金でケリをつけた方が結果として得という計算高さが秀吉の能力と言える。この辺りの金に対する鋭い感覚は、やはりその出自も効いているんだろう。

 

忙しい方のための今回の要点

・秀吉の備中高松城の水攻めは、毛利と織田の対立の中で発生した。
・本願寺に与したことで明確に敵対することになった毛利に対し、信長は秀吉を毛利攻略に派遣する。
・秀吉はまず播磨を黒田官兵衛による調略で取り込み、さらに抵抗する上月城の赤松政範は城内皆殺しで見せしめとした。
・しかし先鋒だった別所長治が離反したことで、播磨の諸将は再び寝返ることになる。これに激怒した信長の命で秀吉は三木城の長治を攻めるが、この時は完全包囲の兵糧攻めで落城させている。
・その後、播磨と但馬を平定した秀吉は鳥取城攻略にかかるが、ここでは事前に城下の米を買い占め、さらに領民を城内に追い込むことで兵糧を2ヶ月で枯渇させて落城させる。
・次に秀吉は備中攻略にかかり、拠点である高松城を攻撃する。しかし城主の清水宗治は忠誠心が高い上に配下からの信頼も厚く、沼地に囲まれた高松城の難攻不落で秀吉は力攻めを断念する。
・ここで秀吉は堤防を築いて高松城を水攻めにすることにする。高さ7メートル、長さ3キロの堤防を農民に破格の賃金を与えることで12日で完成させる。
・梅雨で増水した足守川の水を流し込まれた高松城は水没、落城寸前の状況になるが、この時に本能寺で信長が討たれたことが秀吉に伝わる。
・秀吉は清水宗治の切腹を条件に早急に毛利と講和を結んで引き返す。これがいわゆる中国大返しである。

 

忙しくない方のためのどうでもよい点

・この時の清水宗治の切腹ぶりが立派であったことから、これ以降は切腹は武士の誇りと言われるようになったとかなんとか。まあ清水宗治は部下や領民からの信頼もかなり厚い名将だったようです。また鳥取城の吉川経家も立派な人物であり、秀吉は本当は殺したくなかったという話があります。

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