教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

4/6 BSプレミアム プロジェクトX 挑戦者たち(リストア版)「友の死を越えて~青函トンネル・24年の大工事」

北海道と本州を海底トンネルでつなぐ

 今回のテーマは青函トンネル。私のアーカイブを見返すと劣悪な環境での難工事だったという類いのザクッとしたことしか書いていないので新たに書き起こすことにする。

 青函トンネルの工事が開始されたのは日本中が建築ラッシュだった昭和39年だった。そもそもこのトンネルが計画された頃は北海道と本州の間の交通機関が連絡船しかなく、片道で4時間以上かかる行程だった。しかも津軽海峡は荒海のために連絡船の欠航が多く、その度に物流が停止していた。そして決定打となったのが洞爺丸の転覆事故。これで1400人以上が亡くなり、タイタニックに次ぐ巨大海難事故となってしまった。連絡船を運航していた国鉄には批判が集中し(そもそも台風襲来の悪天候下で船を運航したということもあった)、そこで海底トンネルを掘って北海道と本州を陸続きにするという構想が出て来たのだという。

 しかし難工事になることは事前の調査で分かっていたという。海底の地形は予想以上に複雑で掘ってみないと何が起こるか分からない。結局は運命を賭けた先進導抗(本坑を掘る前の調査と技術開発を担うトンネルであり、これが開通しなければトンネルは掘れないということになる)を手がけるのは日本中であらゆるトンネルを手がけてきた名人達が起用されることとなった。

 

難工事に劣悪な環境でついに犠牲者が出る

 しかし彼らにも戸惑いがあったという。トンネル工事は大抵は2~3年で完成するものだが、青函トンネルの工事は10年が想定されていた。しかも世界最長の海底トンネル。何が起こるか分からず家族にも不安が大きかったという。

 函館側からのトンネルは比較的順調に掘り進み、2年で700メートル進行したという。しかし竜飛岬側は地層から難工事になるのが予想されていたという。トンネルマン達の半数が竜飛岬に移って工事を開始する。

 青森の竜飛岬は強風のために誰も住んでいない土地だったが、そこに工事関係者のための町が作られて、作業員達は家族とともに移り住んだ。しかしここがまた大変だったらしい。強風のせいで宿舎の屋根が吹き飛ぶという事態も発生したという。

 工事も難工事だった。しょっちゅう水が出て下に常に水が溜まっている状態だったという。またトンネル内は30度を越える。高温と高湿度の劣悪な環境は腕利きの作業員達からさえ体力と集中力を奪っていった。細かいトラブルが増加し、毎週のように怪我人が出たという。そしてある時、ついに死者が出る。土砂を満載した運搬車輌が発車と同時に転倒し、作業員が側壁との間に挟まれて亡くなったのだった。

 さらにまた犠牲者が出る。機械の整備中にパイプの爆発に巻き込まれた作業員が、自衛隊のヘリで病院に搬送中に亡くなってしまう。竜飛岬にはお寺もなかったので、作業小屋に遺体を運び込んで葬式を行ったという。竜飛鉄道建設所総号令の大谷豊二は亡くなった仲間に絶対にトンネル工事を完成させることを誓ったという。

 

重大な浸水事故に命がけで立ち向かう

 しかしさらに重大な事故が発生する。大規模な浸水事故が発生したのだ、作業員達は50キロのセメント袋を積み上げて水をせき止めようとするが水はそれを突破してしまう。トンネル内には3000ボルトの高圧電流を扱う装置もあり、そこまで浸水したら全員が感電する危険がある。出水から2時間後に所長の横山章が退避命令を出す。しかし当の横山は最前線から動かなかったという。そして大谷も水と戦い続けた。それを見た作業員達も必死で水を食い止める。結局、高圧装置の直前で浸水を食い止めることに成功した。

 工事開始から10年、まだ工事は続いていた。47歳になった大谷豊二は既に5人の仲間を失っていた。一方で竜飛の漁師達が若き作業員として工事に参加していた。そんな時に北海道側のトンネルで大規模な出水事故が発生する。出水現場の60メートル下には排水用のポンプ設備があり、そこが浸水することになればトンネル全体が浸水することを意味する。

 この時に立ち上がったのが若き漁師達だった。彼らは筏を組むとそれに排水ポンプを乗せてポンプ設備の手前まで運び、そこで必死の排水作業を行ってポンプ設備の水没を防ぐ。一方日本中の現場から排水ポンプが集められて次々と急いで設置された。そしてそれらのポンプがフル稼働をし、何とかトンネルを水没を防ぐことが出来た。

 そして工事開始から19年後の昭和58年1月27日、ついに最後の発破がかけられ本州と北海道がつながる。その瞬間に居合わせた大谷豊二は55歳になっていた。彼の手には亡くなった仲間たちの遺影があった。

 青函トンネルが完成したのは昭和63年3月だった。この時、試運転の車輌には亡くなった工事関係者の妻達が乗車していたという。こうして北海道は本州と陸続きになった。

 

 ウーン、熱い話ですが、トンネル工事の技術はこの後もさらに大進化して、今ではシールドマシンなどを使用することで以前に比べるとかなり楽に掘れるようになったようです。もっともそれでも東京での大陥没事故のようなことも起こっており、何が発生するかが分からないのがトンネル工事であります。

 ただこのトンネル工事が開始された時には北海道と本州を結ぶ物流の大動脈として計画された青函トンネルですが、トンネルが開通した頃には皮肉なことに、旅客輸送は航空機の発達でそちらが主流となり、時間のかかる鉄道は必ずしも利用が多いと言う状態ではなく、青函トンネルは費やした莫大な予算に見合う効果を上げているかということには疑問がつきまとってはいます(維持管理コストもかなり高い)。一応鉄道貨物輸送の需要はそれなりにあるようですが、そちらも船で大量に一括して輸送というのが今は行われていて、トラック輸送が主流の現在はむしろそっちの方が都合が良い場合があるなんていう現状もあります。高度成長でゆけゆけドンドンの昭和39年だから着工されたというのはあるでしょう。

 

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