教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

5/11 BSプレミアム プロジェクトX 挑戦者たち(リストア版)「国産コンピュータ ゼロからの大逆転」

伝説の国産コンピュータ開発物語

 今回は国産コンピュータ開発物語。日本技術界のまさに伝説の物語である。私はこの回は明らかに見ており、内容もかなり覚えているにもかかわらず、過去のアーカイブを覗いてみるとこの回から以降しばらくHP更新が止まっていた模様。どうも私的にバタバタしていた時期で更新が滞ったのではないかと思われる。と言うわけで今回はやむなく書き下ろし。

 

 

IBMに挑んだ問題社員

 20世紀の技術の鍵を握るコンピュータ。巨人IBMに徒手空拳で挑んだ日本の弱小メーカー。日本のミスターコンピュータこと池田敏雄を中心に執念のプロジェクトが立ち上がる。

 昭和21年、復興の最中の日本ではズタズタになった電話網の再建がなされていた。その中の電話機メーカーの一社・富士通信機製造(後の富士通)は売り上げは業界ビリ。自前技術は無く設計はドイツに委託でグズ通信機と呼ばれていた。ここに入社したのが池田敏雄だが、毎日2時間は遅刻し、昼休みはバスケットに興じて戻ってこないなど札付きの問題社員だった。

 翌年、電話機を納入していたGHQから「雑音がする。欠陥商品だ。」とクレームが入る。しかし原因は分からず生産が中止となる。研究室の課長の小林大祐は頭を抱えていた。そこに池田敏雄がノートを持って現れる。彼は「この電話機ではダイヤル100回に1度必ず雑音が出ます」と言う。ノートにはビッシリと証明のための数式が並んでいた。小林は驚く。

 しかし会社の業績は悪化、大量解雇が始まる。こんな時に小林の元にコンピュータのニュースが伝わる。小林はこれに目をつける。当時の兜町の証券取引所ではそろばんでは計算が追いつかずコンピュータの導入が望まれていた。「あの男ならもしかすると」小林は池田敏雄にコンピュータ製造を命じる。池田は「面白そうですね」とそれを受ける。

 昭和27年夏に熱海の保養所で開発が始まる。池田と後輩二人の小さなプロジェクトだった。部屋にこもって設計に打ち込む後輩達を尻目に、リーダーの池田は昼間から温泉に入り浸っている。後輩の山本卓眞は頭にくる。しかし一ヶ月後、池田の部屋を覗いた山本達は度肝をぬかれる。部屋中に設計図が散乱して、様々なアイディアが網羅されていた。

 

 

象と蚊の戦い

 昭和29年10月、池田達の設計を元に試作機が完成する。湯川秀樹が噂を聞いて駆けつけてくる。中間子理論を証明するための手作業で2年かかる計算式をコンピュータにかける。解答は3日で出た。湯川はそのスピードに唸る。しかしそこに巨大企業IBMが乗り込んでくる。スピードは富士通の100倍、各社は相次いでIBMのコンピュータを導入。「まるで象と蚊の戦いだ」とプロジェクトは沈み込むが、池田は「世界最速のコンピュータを絶対に作る。挑戦者に無理という言葉はない。」と決然と言い放つ。

 昭和34年、IBMへの挑戦が始まる。この時36才の池田は課長になっていた。しかし池田は会社にやって来なかった。夕方4時になると池田から電話がかかってきて全員が呼び出される。呼ばれた先は池田の馴染みのとんかつ屋の「あたりや」だった。池田は全員にとんかつを奢ると、そこで回路図の見直しを始める。回路設計に悩んでいた石井康雄は池田が回路図に一本線を入れただけで演算速度が見違えるほど速くなるのに驚く。入力装置担当の野澤興一は自分の設計に自信を持っていたが、しかし池田は「もっと早く動かせるはずだ。お前は限界に挑戦していない。」と顔を真っ赤にして怒鳴る。会社に行かない池田は自宅で夜明けまで回路図に向き合っていた。朝方、まどろんだ池田は模型飛行機を作り始める。そして数日後、野澤を多摩川の川縁に連れ出すと黙って模型飛行機を飛ばす。池田は「すべての開発は感動から始まるんだ。」という。飛行機に見ほれていた池田は胸が熱くなる。

 社内でずっと欠勤している池田のことが問題となり、給料の支払いを止めるという話が持ち上がる。しかし上司の小林大祐が「池田をやめさせたら会社の未来はない」と総務に頭を下げて例外を認めさせる。こうして「あたりや」がプロジェクトルームとなる。帰りの電車のホームでいきなり回路図を広げることもあったという。「発想は思いついた時が勝負だ」というのが池田の言であった。皆、どこに行く時も回路図を離さなかったという。こうして演算速度が100倍のコンピュータが完成してIBMに並ぶ

 

 

さらに先を行く象を追い越すための秘策

 しかしこの時IBMはさらに先にゆく。トランジスタからICに切り替えた新型コンピュータ360を開発。この機種は今までの目的ごとに設計していたコンピュータと違い、ソフトを入れ替えると一台で何役でも果たす特性を持っている画期的なものだった。開発リーダーは天才と謳われたジーン・アムダールだった。開発費用は1兆8千億円、日本の国家予算の半分に匹敵した。これの出現でGEを始め、多くのアメリカメーカーがコンピュータから撤退した。富士通社内でもコンピュータから撤退するべきの声が上がる。しかし池田は重役室に出向くと、役員に「今こそ攻めに出る時です。私に秘策があります。」と言い放つ。

 池田の秘策とはコンピュータにLSIを使用することだった。LSIはICの10倍の速度を持つ。しかし配線の密度が高いLSIは発熱が激しく、コンピュータの回路に使用すると熱で焼き切れてしまう。実際に温度は200度にもなった。

 この時に360開発者のジーン・アムダールがIBMを辞めて独立したとの報が入る。彼もLSIの構想を抱いていた。池田は彼を京都に招くと二週間一緒に旅をして、LSIのことのみならずあらゆる話題を語り合って意気投合する。昭和47年、池田はアムダールの会社に35人の若手を送り込み、日米共同開発が始まる。

 

 

多くの問題を解決していよいよ完成目前にカリスマが倒れる

 しかしいきなり難問が立ちはだかる。一台のコンピュータに必要なLSIの数は2000。配線がもりそばのように絡み合う。設計ミスが続出した。さらに熱問題を解決するためにLSIの裏側に熱を逃がすための煙突をつけるが、120度までしか下がらず回路は持たなかった。開発が始まってから2年で費用は300億円にのぼり、富士通の資本金に匹敵した。重役達はプロジェクトの中止かアムダール社の経営への介入を主張し始める。これを聞いたアムダールの社員が乗り込んできて会社を乗っ取るなら全員辞めると言い出す。池田は社長に「今年中に完成させる」と直訴する。

 共同開発が再開したが期限は後9ヶ月だった。日米の技術者達が協力してもりそばの配線をチェック、さらに熱問題は煙突に放熱板を3枚つけることで解決した。技術部長の安福眞民が製造の大号令をかけ、3000人を総動員して3ヶ月ぶっ通しでLSIの作業を続ける。完成が目前になった池田は世界を駆けずり回ってLSIの売り込みに走り回る。しかし分刻みの過酷なスケジュールの中で池田は突然にくも膜下出血で倒れる。部下達にアメリカからアムダールまでが病室に駆けつける。しかし4日後、池田は51才で息を引き取る。残された部下達はその志を継いでコンピュータを完成させる。演算速度はIBMの3倍で世界最速だった。半年後、NASAが導入を決定する。

 

 

 まさに壮絶な物語であり、技術者・研究者としては完全に落ちこぼれである私でさえ胸が熱くなる。また池田が完成目前でまさに戦死しているというのが嫌でもドラマを盛り上げる。「すべての開発は感動から始まるんだ。」なんていうのは実に心に響く言葉である。池田の仕事ぶりはモーレツだが、本人にとって面白くて仕方なかったんだろうと思われる。そうでないとあそこまで出来ない。それだけ打ち込める仕事に出くわした技術者は幸せ者である。

 ちなみに私の座右の銘は「研究開発職は仕事で遊んでなんぼ。面白くない仕事なんて意味がない。」というものだが、私自身が完璧に失敗技術者であるので、説得力が微塵もない。私は池田のような潜在能力及び集中力もない(特に数学能力が皆無)し、さらには私を活かしてくれる上司にも巡り会えないまま終わってしまった。実際に日本でも多くの「池田になり損ねた研究者」はいるだろう。そう言う意味でも池田は幸運な男であったとも思う。

 池田は問題社員だったとのことだが、夜型だったようである。夜に静かに作業に打ち込むから朝は起きられずに会社には出ないということになるんだろう。また彼にしてみたら、わざわざ会社まで出向く時間も惜しかったのではという気がする。典型的な天才肌であるが、しかし一番すごいのは彼の上司の小林大祐が彼の能力を信じて思うようにやらせたこと。なかなかこれだけの度量のある上司も少ない。池田のようなタイプは大抵は上司に疎まれて会社の中ではつぶされるのがオチである。実際に日本の組織はこの手の天才を活かせない組織になっている。池田がミスターコンピュータとして後世に名を残す仕事が出来たのも、度量のある上司に幸運にも巡り会えたからである。

 さらに時代がまだスーパーマンにとって活躍出来る最後の時代であったということもある。現代は技術がさらに複雑怪奇となっていて、池田の如きスーパーマンでも全てを一人で把握して解決するというのは不可能になっている。そうなると求められるのは池田のようなカリスマ的天才よりも、コミュニケーション能力に長けて巨大なチームをマネージメント出来るマネージャーになる。池田は天才にありがちな「自分がほとんどを仕切りながら少数精鋭の腹心のみでチームを作る」というタイプなので、最近の技術体系の中ではその真価が発揮できるかが難しいことも感じる。まあ晩年の池田を見ていたら、徐々に「技術の分かるマネージャー」に脱皮しつつあるのは感じるが、それが出来るのもかつて少数精鋭チームで育てた腹心の部下がいるからではある。今は多くの技術者が、技術と経験を深めるとジャンルが限られて全体が見えず、かといって全体を見渡せるような知識があっても深みがないと専門家としては役に立たずというジレンマに直面しているところである。既に人間の能力の限界に行き当たりつつあるのである。

 

 

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