教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

5/12 BSプレミアム 昭和の選択 「立憲政治を守れ!犬養毅 "憲政の神様"の闘い」

政党政治家として藩閥政治と対決する

 五・一五事件で暴走した海軍青年将校の凶弾に倒れた犬養毅。憲政の神様とも言われ、立憲政治にこだわった彼が目指していたものは。

 犬養毅は慶應義塾に入学し、福沢諭吉と出会って政治家を目指すようになる。福沢が開いた模擬国会で26才の犬養は弁士の一人として反対論者を次々と論破していったという。その犬養の姿を参加者の一人は「既に将来の大宰相となる貫禄があった」と評している。

 自由民権運動が高まり、大日本帝国憲法が制定され、帝国議会も開設される中、犬養は立憲改進党に参加して政治家として歩み続けており、39才で初当選を果たす。しかしその前に藩閥政府が立ちはだかる。藩閥政府は議会によらない独断的政治を行い、政党側が政費節減・地租軽減を主張するのに対し、民間政党を政府は弾圧した。選挙妨害も横行した。その結果、政党内にも藩閥政府に擦り寄る勢力も現れ、議会政治は混迷を深めていた。

 

藩閥政府を打倒して憲政の神様と呼ばれる

 犬養と藩閥の対立は日露戦争で拡大する。戦争後にさらなるロシアとの対決を睨んで戦地兵力を従来の2倍に増強して大陸利権の更なる拡大を目指す山県有朋に対し、犬養はこれを真っ向から反対する。国力に見合わぬ国防計画によって日露戦争後の政治経済は大失敗していると主張したのである。犬養は軍事を抑えて経済を優先することを主張した。しかし長州閥はそれを認めず、陸軍は政府に2個師団の増設を要求する。時の首相は立憲政友会の西園寺公望だった。西園寺は長州閥と馴れ合い、桂太郎と交互に政権を担当していた。財政難の中で負担の大きすぎる要求を西園寺が拒むと、山県は陸軍大臣を辞職させて清園寺内閣を総辞職に追い込む。桂太郎が次の首相になり、軍の要求は実現するかと思われた。

 58才の犬養はこの頃、立憲主義を掲げて立憲国民党を結成、藩閥の横暴に対して決然と立ち上がる。1912年、歌舞伎座の演壇に立った犬養は藩閥打破を訴える。犬養の秘策は政友会との共闘であった。政友会もそれに応じて党の論客である尾崎行雄が犬養と共に憲政擁護運動を推進する。新聞には連日二人の意見が掲載され、日露戦争後の不況に苦しむ民衆に藩閥の横暴がアピールされた。そして1913年2月5日、熱狂した民衆が議会を取り囲む中、桂内閣不信任案が提出される。これに対して桂は宮中に働きかけ、政友会総裁の西園寺に対しての「争いを無事に収めよ」との勅語を引き出す。天皇の言葉で西園寺は妥協に応じようとするが、犬養は徹底抗戦を主張、この毅然たる態度と民衆の支持によって桂内閣は総辞職に追い込まれる。これによって犬養は尾崎と共に憲政の神様と呼ばれるようになる。

 

第一次大戦後の混乱の中、普通選挙制を導入して引退

 その後、第一次世界大戦が勃発、日本は空前の好景気になるが、潤うのは資本家ばかりで民衆は物価の高騰で生活が苦しくなる。そして1918年に富山で米騒動が勃発、炭鉱や都市労働者の蜂起が相次ぐ。犬養はこの状況を打開するためには政治を民衆に開かれたものにする必要があると考え、それまでの高額納税者のみによる選挙を、もっと対象を広げる普通選挙に変える必要を感じる。1919年、犬養は選挙権拡大案を提出して普通選挙への布石を打つ。この案は政友会の原敬首相によって棚上げにされる。しかし原が暗殺され、政党政治自体が停滞、軍人や藩閥の息のかかった政治家が続くことになる。犬養自身も立憲国民党を解党して新たに弱小政党の革新俱楽部を結成する状況になっていた。

 ここで犬養は国民党から離脱した幹部のいる憲政会とさらに政友会と手を結び護憲三派を結成するという手に出る。次の選挙で普通選挙を掲げて選挙に勝利すると護憲三派内閣を結成、普通選挙を成立させる。これで25歳以上のすべての男子に選挙権が与えられることになる。71歳になった犬養はここで政界から引退する。

 

大陸情勢が泥沼化する中で再登板、平和解決を訴えるが凶弾に倒れる

 1928年に張作霖爆殺事件が起こり、軍が暴走を始める。政友会の田中義一内閣は総辞職となる。当時の議会は政友会と民政党の二大政党制なので失政によって内閣が倒れた場合、野党第一党党首に組閣命令が下るのが常だった。そこで民政党内閣が成立する。そこに世界恐慌が襲来、民政党内閣は緊縮財政で挑むがかえって繭などの暴落を招き、農村の生活は貧窮を極めることになる。この時に野党の政友会は犬養を新たに総裁として迎えることになる。犬養は75才で政治に復帰することになる。

 犬養は軍の暴走に直面する羽目になる。陸軍のクーデター計画も発覚する。事件発覚直後に犬養は天皇の重臣の元老になっていた西園寺に「陸軍の根本的組織から変えてかからないとならないが、政友会一手では出来ない。どうしても連立していかなければダメだ」と声をかける。民政党の若槻内閣と連立して軍を抑える協力内閣案である。しかし経済政策の隔たり等が大きく、結局は犬養はこの案を撤回する。しかし若槻内閣は閣内不一致で総辞職してしまう。慣例では次の首相は犬養だが、ここで西園寺から次の首相は犬養だが、協力内閣は出来ないかという打診が来る。

 ここで協力内閣に乗るかどうかの選択なのだが、ゲストの意見は割れたが、結果として犬養は単独内閣を結成する。先に協力内閣が頓挫しており、党内での基盤さえも強いとは言えない犬養としては、空中分解を避けるには単独内閣しか手はなかったというのが現実のようだ。当時中国では関東軍の暴走で事態は泥沼化しつつあった。しかし犬養は昔、中国の革命家である孫文を援助したことがあり、当時の中国国民党政府のトップは孫文の息子の孫科であったことから、そのルートを通じて中国と講和の働きかけをしようと考えていたのだという。そこでかつて共に孫文を支援した同志である萱野長知に中国の内情を探り、日本と交渉可能な政権を立てる工作を依頼する。中国に渡った萱野は秘密裏に交渉を行い、「中国政府は日本との直接交渉で話し合う準備がある」との電報を送る。しかしこの電報は、満州の直接支配を考えていた内閣書記官長の森恪が握りつぶす。そして上海事変が勃発、これで交渉での解決は完全に閉ざされる。しかし犬養は平和的解決を行うべきと軍の侵略主義を断固として批判する演説をNHKの放送で行っているという。犬養が五・一五事件で暗殺されたのはその二週間後である。

 

 犬養が乱入してきた青年将校達に「話せば分かる」と言ったのは有名なエピソードだが、これはまさに犬養の信念であったという。しかし残念ながら馬鹿が軍服着て闊歩している彼らにはそんなものは通用しなかったようだ。なおこの殺害に関しては、萱野の電報を握りつぶした森恪が手引きしたと言われている。実際に事件を聞いた森は会心の笑みを漏らしたとのことだから、これが真実なら根っからのクズだ。

 番組では普通選挙を導入した犬養は何も民主主義的考えだけでそれを進めたのではなく、国民を政治に関与させることで同時に国民に軍事に協力させるということを考えていたということも述べていた。また軍事が強大すぎて経済を圧迫していたので、まず経済を優先するという経済立国の考え方だったので、いわゆる今日的な民主主義者ではないという観点である。だから普通選挙制と治安維持法が彼の中で両立し得たというのは興味深い詩的である。

 なお磯田氏も強調していたのは、政治家にとっての言葉の重要性。犬養は自分の言葉で国民に語りかけることの出来る政治家であり、政治家にとっては言葉というのが非常に重要であると言うことである。これは今日の言葉がなく恫喝だけの総理のことを裏返しに指摘しているのは間違いないが、それをあからさまに言うと間違いなくもろに圧力を食らうのでぼやかしたのだろう。既にこのようにぼやかさないといけないということが今日の危険な状況の現れであるのだが。

 

忙しい方のための今回の要点

・犬養毅は39才で初当選すると政党政治家として藩閥政府と対立することになる。さらに日露戦争後、暴走する軍部とも対立することになる。
・犬養は拡大し続ける軍費が国力の限界を超えていると考えていた。そこで立憲国民党を結成して藩閥打破を訴え、桂内閣を打倒することで連携した政友会の尾崎行雄と共に憲政の神様と呼ばれようになる。
・第一次大戦後、貧富の拡大などで庶民の不満の高まる中、犬養は護憲三派を結成して普通選挙(納税額に関係なく25歳以上の男子に選挙権を与える)を導入して政界を引退する。
・しかし満州での軍の暴走、大恐慌による混乱の中で犬養は再び首相となることになる。ここで犬養は中国と交渉で事態を収拾することを画策したが、妨害と軍の更なる暴走で頓挫する。
・犬養はあくまで平和裏での解決を訴えたが、五・一五事件で決起した青年将校らに暗殺される。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・まあ自分の言葉というものを持っていた政治家であることは間違いないでしょう。それにある程度の先の見通しも持っていた。
それにしても藩閥政治の腐敗っぷりって半端なかったですから。まあその流れを今でも汲んでいるやつがいますが。

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