天然痘の大流行で平城京が大混乱
聖武天皇が律令国家を建設して平城京を中心に繁栄するか思われた天平時代の735年、思わぬ社会的混乱が巻き起こる。新羅から帰国した使節が持ち帰ったと思われる天然痘の大流行である。
太宰府で始まったその流行はたちまち九州を席巻し、やがては全国へと広がっていく。当時の日本社会はすべてを平城京を中心とした中央集権国家であったので、物流や人の動きを介してあっという間に流行は全国に広がる。平城京はまさにスーパースプレッダーだったという。結局は100万人~150万人という国民の1/3が亡くなる大被害となる。政府は生水を飲むな、身体を温めろ、ニラやネギを食べろなどのお触れを出したそうだが、焼け石に水であった。またこの頃の遺跡などからは食卓がそれまでの大皿から小皿へ変わっていることなどが観察され、人々の衛生意識が変化したことも覗えるという。
政務を担当する権力者も藤原氏の四兄弟が相次いで亡くなるなど、朝廷は大混乱して役所も機能しない状態であった。ここで聖武天皇は新体制の立ち上げを行う。光明皇后の兄である橘諸兄を大納言に起用し、政策の実行を彼に託すことになる。
国力回復に取り組む橘諸兄
橘諸兄が取り組んだ政策は、まず農民の負担軽減。それまで農民は貴族たちから種籾を貸し出され、収穫時にそれを返却するという形であったが、その利率は10割という莫大なものであったという。これを国家が農民に対して種籾の低い利率での貸し出しを行い、農民の負担を軽減することにした。
さらに国防より国力回復を優先という現実策をとった。当時の日本は新羅と緊張関係にあったが、その問題はとりあえず保留した上で、軍事上重要な地点以外での兵士の徴用を廃止した。これはその人員が農民として労働することを意味し、生産力を上げることにもつながる。
さらには行政のスリム化にも取り組んだ。特に地方行政を簡素化したという。郡司を減らして国司の裁量を強化することでシンプルな統治機構にした。
しかし聖武天皇がとんでもないことを言い出す
そしてようやく天然痘が収まった3年後の740年に聖武天皇が突然に東国へ旅立つ。そして新都として恭仁京を造営しようとする。ここは橘諸兄の本領であるという。さらに国分寺の造営を命じる。聖武天皇は仏教で国を治める鎮護国家を目指そうとしたようであるが、それは復興の途上であるにもかかわらず農民達に負担を課すというある種の矛盾した政策でもあったという(聖武天皇の中では仏教によって疫病から守ってもらうという一貫した考えだったようだが)。
聖武天皇の突飛な思いつきを現実政策に落とし込むことを迫られる橘諸兄には(とにかくストレスの多い立場である。そのせいか諸兄は非常に酒癖が悪かったとか)、財源確保が迫られることになる。それには土地制度の改革による農地増加が必要であった。しかしそれには律令制度の根幹である公地公民の破棄。つまり律令制の基本となった班田収授法を変更する必要に迫られる。ここで橘諸兄は選択を迫られることになる。
結局橘諸兄は墾田永年私財法を施行することになる。律令政治の分岐点となったとされる法だが、土地を国有しなくても税を取れればよいという割り切りが見られる法であるという。当時の日本はとにかく生産力を上げることが最優先であった。
その挙げ句に聖武天皇は紫香楽宮で大仏の建立を目指すと言い始める。これには橘諸兄は実は賛成してなかったらしいが、やがて貴族からの不満も高まり地震も起こったことで、紫香楽宮での大仏建立と恭仁京の建造は諦めて平城京に戻ることになり、大仏の建立はそこで行われることになる。やがて大仏は開眼することになるのだが、皮肉なことにこの作業で農民の負担が激増して疫病や餓死が流行することになってしまうという。しかし聖武天皇も橘諸兄もその数年後にこの世を去る。
聖武天皇の突飛な思いつきに振り回された実務家の橘諸兄は大変だったろうと磯田氏が言っていたが、それは全く同感。橘諸兄は非常に酒癖が悪かったという話が残っているらしいが、そりゃ酒癖も悪くなるわと同情が集まっていたのが笑えた。聖武天皇は彼としては一応は真面目に国の行く末を考えていたんだろうが、その方向が今日的に見れば完全に明後日の方向を向いているというのが悲劇。ある意味では、今世間を騒がせているセクシー大臣なみのズレっぷりである。これがトップだったというのが悲劇か。
聖武天皇は「とにかく仏教さえ広がれば伝染病は根絶できる」と考えていたようで、これは現在のワクチン一本足打法の政府なみの危険性。ましてや今となっては「仏教が広がろうが広がらまいが伝染病は根絶しない」のだから、ツボのハズシ方が見事である。どうやら民を積極的に害してやろうという悪意はなかったようであるが、結果としては思い切り民を害してしまったのだからタチが悪い。
この時のパンデミックは詳細な記録が残っている最初の事例であるから、今日の状況から鑑みてというのが番組の趣旨だったらしいが、これを見ていると「ズレたトップを戴くと民はとてつもなく不幸になる」というメッセージしかなかったような気もするのだが・・・。
忙しい方のための今回の要点
・天平時代の735年、新羅から伝わった天然痘があっという間に全国に広がり、全国民の1/3が亡くなる。
・朝廷も機能不全状態に陥り、この時に建て直しに起用されたのが光明皇后の兄の橘諸兄である。
・橘諸兄は農民の負担の軽減、国防より国力回復の優先、行政のスリム化などによって国の建て直しを図る。
・しかし聖武天皇は恭仁京の造営を計画し、諸兄はそのための資金の調達を迫られることになる。
・結局諸兄は律令制の根幹であった公地公民制を廃止し、墾田永年私財法を制定する。土地の国有化をやめても税の徴収さえ出来れば国を保てるという現実的政策だった。
・しかし聖武天皇はさらに大仏の建立を始める。仏教で国を守護してもらうという発想だったが、皮肉なことにこれが農民達を追い込んでさらなる疫病の流行などの原因となってしまう。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・結果から見ると、聖武天皇って悪い人ではなかったかも知れないが、限りなく無能だったって結論にならざるを得ないのですが・・・。まあ今日的な目で見ればということにはなりますが。
・教訓、トップが宗教的なことを言い出したらろくなことにならない。
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