教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

6/23 NHK 歴史探偵「細かすぎる毛利元就」

細かくて面倒臭い人物だった毛利元就

 小国の主から、一代で中国の覇者にまで成り上がった毛利元就。なぜか元就がそのような大躍進を遂げられたかであるが、元就本人の言葉としては「なぜかは分からない」という主旨の言葉が残っているという。これを聞くとどうもラッキーで躍進したように感じられるが、実はそんな単純なものではないのがこの人物である。

 元就は多くの書簡を残しているが、それをこの番組らしくAIで分析したところ、心得とか分別なんて言葉が多いという。とにかく相手を諭す言葉が多いのであるが、息子などに送った書状を見ても、指摘が非常に細かいのが特徴だという。上司としてはかなり「面倒臭い人物」であったと言えるという。

 しかし元就がそのような性格になったのは、そもそも巨大勢力(尼子と大内)の間に挟まれた弱小国人であったという状況が影響している。つまりはここで行動を少し間違えたら、あっという間に滅ぼされてしまうという綱渡りをしていたのである。それだけに慎重に慎重を構える必要がある。

 元就の性格は本拠であった郡山城の構造にも現れているという。当時の家臣達は所領に住んでいて何かの時に城に集まってくるというのが普通だったが、元就は家臣の屋敷を城の中に作った曲輪に建てさせている。さらに曲輪同士を通路で結んで行き来がしやすいようにしていたという。何かの際に迅速に家臣達と連絡が取れるようにと、家臣同士の行き来によって一体感を形成出来るようにということを重視したと考えられるという。元就は実際に家中の結束を重視していたということは、三本の矢のエピソードでも語られる通りである(あのエピソード自体は後世の創作だと言うが)。

 

周到に準備された厳島の戦い

 その元就が一躍中国の覇者へと躍り出たのが陶晴賢を破った厳島の戦いである。今までは2万の陶軍を元就が4000の兵で破ったとされていたのだが、どうも今まで言われていた事実はいろいろと違っているのではないかということを紹介している。

 まず厳島は大部分が険しい山である島で、平地はわずか。しかも現在の町の大半は実は後に埋め立てられたもので、当時はさらに平地が狭かったのだという。それらを考えると2万もの兵をこの島に配備するのは無理だったのではないかとしている。実際に計算すると一人当たりのスペースは2平方メートルぐらいしかなく、槍を振り回すことさえ不可能なスペースになってしまうという。

 毛利元就について研究している県立広島大学名誉教授の秋山伸隆氏によると「実際の陶軍は5000程度だったのでは」とのことである。従来は陶晴賢はすべての支配国から兵を集め、総数が2万と推測されていたのだが、近年の資料によると陶軍は譜代の家来ばかりであり、本拠である周防の兵だけだったのではないかという。そうなると兵力はせいぜい5000程度になるという。こうなると元就にも十分に勝算はある。

 

用意周到な奇襲攻撃で陶晴賢を滅ぼす

 さらに元就軍は地御前から船を出して厳島に上陸したとされてきたが、地御前は陶の本陣から丸見えであり、これだと奇襲は不可能である。そのことから秋山氏は元就が出撃したのは地御前でなく、もっと東の草津であると推測している。実際に決戦の直前に元就が息子に送った書状にも「草津まで来い」と書いてあるという。草津だとしたら、ちょうど陶の本陣は尾根に隠れて見えない。

 さらに草津にはもう一つのメリットがあると言う。番組ではヨットでこぎ出して実験しているのだが、ちょうど元就が出港した時期には草津から厳島に向かっての潮の流れがあり、追い潮で船のスピードがかなり出るのだという。これもまた奇襲には格好である。

 さらに陶の本陣の裏側に当たる包ヶ浦に上陸した毛利軍が陶の本陣を奇襲するには夜中に博打尾と呼ばれる尾根を越える必要があった。番組では実際に夜中にこの尾根を越えるという実験を行っているが、そんなものは実際にやるまでもなく地理に詳しい者の案内がないと困難であることが分かる。そこで元就は事前に厳島神社の神官に手を回していたことが覗えるのだという。元就は既に合戦の5年前から厳島神社に寄進をなしており、戦いの後にも本殿の修理の費用を提供するなど、厳島神社との密接な関係を示しているという。つまりは事前に細かい手回しを重ねた上で、勝つべくして勝っていたということである。

 

 以上、毛利元就について。実は非常に細かく事前準備する人物であり、決して博打をするような人物ではなかったという話だが・・・うん、知ってたというのが正直な感想である。さらに言えば元就は情報戦に長けていて、厳島の合戦ではうまく陶軍を誘導して、大軍が戦いにくい狭い戦場を設定している。平地などで戦ってしまうと単純に数の勝負になってしまうので、策を弄しやすい特殊な戦場を設定したわけで、この辺りが元就の巧みさである。

 元就は領土拡大を目指していたわけでなく、単に防衛線を広げて行っている内に中国を制していたということを番組では言っていたが、これは正解だと思う。実際に元就は亡くなる前に「決して天下を狙うな」ということを言い残しており、どちらかと言えば専守防衛思想だったようだ(それと息子や孫の器量を見通してたんだろう)。

 それにしてもこの番組、相変わらずいろいろと実験的なこともやっているが、そのほとんどが番組的には無意味というのはどうしたことだろうか。最後の尾根越えなんて、実際に夜中にやるまでもないこと。何でも実験すれば良いというのでなく、もっとツボを押さえたことをやらないと放送時間の無駄。どうもそういう番組構成全体の無駄が目立つ。同様の傾向は最近のガッテンなんかにも見られ、長年NHKのこの手の番組を見続けている私からすれば、NHKの番組製作スタッフのレベルも落ちたなと感じずにはいられないのだが・・・。

 

忙しい方のための今回の要点

・元就は多くの書状を残しているが、それらを解析したところ、とにかく細かくて慎重な人だったことが覗える。
・元就は巨城の郡山城に家臣の屋敷を集め、連絡が迅速に出来る要すると共に家中の一体感を強めようとしていた。
・元就の慎重さは、大勢力に挟まれた小国の領主だったために判断を間違うといつでも国が滅ぶ危機感があったためと考えられる。
・元就の飛躍の元となった厳島の戦いであるが、従来の陶軍2万ではなく、実際は5千ほどだったのではないかという説がある。
・さらに元就軍が出航したのは地御前でなく、もっと東で尾根筋に隠れた草津から潮流に乗って一気に渡ったと推測している。
・しかも厳島神社の神官に尾根越えの案内をしてもらったと推測している。つまりは事前に万全の手配がなされていたのである。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・元就はとにかく慎重な人物であったのは事実でしょう。そして策も多かっただろうと思われる。そうでないと小国の領主があの時代に生き残ることは出来なかった。

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