教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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7/14 BSプレミアム 英雄たちの選択 「戦国最大の山岳戦・三増峠の戦い~北条氏康VS武田信玄~」

北条氏の関東での基盤を確立した北条氏康

 今回は北条氏康武田信玄が繰り広げた山岳戦・三増峠の戦いというイマイチ知名度が低いマニアックな戦いを紹介している。しかし実はこの戦い、影で戦国の趨勢を決めたと言えるだけの影響力を持っていたとも言える戦いであると言う。

 まずは北条氏康であるが、関東の覇者となった北条氏の3代目である。北条氏と言えばやはり初代で乱世の姦雄であった北条早雲が圧倒的に有名であるが、実際に北条氏の基盤を整備した人物として、専門家などからマニアックに評価が高いのが北条氏康である。

 北条氏康は27歳で北条氏の当主となる。当時の北条氏は伊豆・相模を中心に武蔵から下総まで勢力を伸ばしていた。しかし当主の代替わりを好機と見て周辺勢力が動き始める。家督総督から4年後に、駿河の今川氏と甲斐の武田氏が駿河の北条領に侵攻、さらに北部の川越城が山内上杉氏や扇谷上杉氏が8万もの関東の軍勢によって包囲されて危機に瀕する。

 ここで氏康は大胆にも駿河の領土を割譲することで今川や武田と和睦すると、自ら8千の軍勢を率いて川越城救援に向かい、奇襲で大軍を破り、扇谷上杉氏の当主を討ち取るという圧勝を納める。氏康は家臣の意見をよく聞き、多数決を用いていたという。

 内政においても税を簡素化して領民の負担を軽減させつつ税収を安定させるなど、領民を慈しみ領国を安定化させたという。

 

鉄壁の小田原城で侵攻を撃退する

 しかしその北条攻略に動いたのが越後の上杉謙信である。北条の拠点を落としつつ迫ってくる上杉の大軍に対し、氏康は鉄壁の要塞である小田原城で籠城戦を行う。堅固な小田原城は謙信でも落とすことが出来ず、全軍撤退となる。氏康はそれを追撃して謙信に付いた諸将を打ち破る。そうして各地に堅固な防禦拠点を築き上げる。こうして関東は北条にとって万全の基盤となる。

 やがて氏康は武田信玄、今川義元と三国同盟を結ぶ。こうして氏康は関東での支配域を広げることに専念するが、今川義元が桶狭間で織田信長に討ち取られたことでこのバランスが崩れる。武田信玄が弱体化した今川氏の駿河に侵攻を始める。氏康は信玄に協力を求められたが、氏康はこれに激怒して両者は対立関係になる。氏康は駿河に援軍を送って武田軍を撃退すると、上杉謙信と同盟を結んで武田と戦う姿勢を見せる。

 これに対して信玄は1569年9月、北条領に攻め込む。氏康の六男の北条氏邦が守る鉢形城を攻めるが防御が固いと見て、氏康の三男の氏照が守る滝山城に標的を変更、しかしここも落とせないとみるや、何と小田原へ向かってくる。

 これに対して氏康は籠城戦を取る。さすがの武田軍も小田原城を落とせず、3日後には撤退を開始する。しかし両者の本当の戦いはここからだった。

 ちなみに信玄の狙いは駿河であったが、駿河の防禦が固かったために背後の関東を荒らしたのだという。

 

三増峠で武田軍を追撃することを目論むが

 撤退する信玄がどのルートを取るかがポイントだったが、その中で三増峠を通る可能性が最も高いと氏康は見ていた。この三増峠を千田氏と平山氏が訪れているのだが、峠道は周囲から見下ろされる位置で、ここに軍勢を伏せられたら大被害は間違いないと千田氏はテンション上がりっぱなしである。実際に氏康はここに氏照と氏邦の軍勢を向かわせたという。

 ここで氏康の選択であるが、すぐに信玄の後を追うか、それともしばし様子を見るかである。この時、武田軍は鎌倉に向かうかのような奇妙な動きを見せていたという。信玄の何らかの計略がある可能性があった。

 これについては武田軍が急に三増峠に向けて進路を変更して急いで動き始めたとの報で氏康は追撃に移ったという。この時、既に氏照と氏邦の軍勢は三増峠に到着していたのだが、ここで齟齬が生じるという。三増峠の高所に陣取って武田の軍勢を迎え撃てば山中で武田軍を足止め出来るはずのところが、二人は三増峠の手前に陣を張ったのだという。しかも武田軍が急行してくると、中津川を渡って平地に移動してしまったという。この辺りは氏邦や氏照の経験のなさではという。武田軍は三増峠に到着するとその高台に陣を張る。

 

戦術構想が崩れて武田軍を逃してしまう

 完全に氏康の戦力は崩れているのだが、平山氏によるとまだこの時点では北条方に勝算があったという。三増峠の背後に津久井城があるので、そこの軍勢が出て三増峠の出口を塞げば武田軍は進行不能になっていたという。しかし武田軍が津久井城方面に別働隊を出したことで焦った氏照と氏邦が本隊の到着を待たずに全面攻撃をかけてしまう。別働隊を送った武田方は数が減少してたことから、序盤は北条優位であったが、津久井城が動かないのを見て別働隊の山県昌景隊が反転してきたことで北条軍は大混乱して敗走してしまう。結局北条方の死者は3200、武田方は900と伝えられているという。氏康は三増峠まで6キロの時点で敗報を聞いたという。氏康無念の敗戦である。

 氏康はこの2年後に57でこの世を去る。息子の氏政には信玄との同盟を復活させよと最後に告げたという。

 結局はここで北条と武田が戦闘状態になったことが、信長に時間を与えることになってしまって、結果として信長の天下取りにつながったことになる。

 

 確かに大きな山岳戦なんだが、磯田氏も言っていたように北条の戦略がマズすぎる。氏康が描いていた絵が氏照・氏邦にしっかりと伝わっていなかったことが致命的である。確かにあそこで二人が三増峠の高所に陣取って武田軍を足止めしていたら、本隊との挟撃で場合によっては武田信玄までが討ち取られていた可能性もあり得る。そうなっていたらまた歴史が大きく変わったろう。

 どうも北条が今ひとつ影が薄いのは、籠城戦で進行してきた敵軍を打ち破るというのは何度もしているのだが、こちらから侵攻しての鮮やかな勝利というのが今ひとつイメージにないことだろう。それにその絶対的な籠城戦も最終的には秀吉を敵に回して敗れてしまったし。

 そもそも北条氏は関東を押さえることに意識は向いていたが、天下に号令するという気はあったように思えない。その辺りも影が薄い原因だろう。

 

忙しい方のための今回の要点

・北条と武田の間で戦われた戦国最大の山岳戦と言われる三増峠の戦いについて分析。
・武田と北条の戦いは、三国同盟が今川義元の死でバランスが崩れて崩壊、駿河侵攻を目論む武田信玄とそれに反対する北条氏康が対立したことで起こっている。
・北条の救援で駿河から追われた武田軍は、今度は関東から北条領に侵攻し、小田原を目指して進軍してくる。
・氏康はそれに対して籠城戦で対抗、武田軍は小田原城を落とすことは出来ずに撤退に入るが、その時の撤退路を三増峠と読んで鉢形城と滝山城の氏邦と氏照の軍勢を三増峠に向かわせる。
・氏康の戦略は氏邦と氏照の軍勢が三増峠で武田軍を釘付けにしているところを、後方から氏康の本隊で挟撃をかけるというものだった。
・実際に三増峠の地形は峠道に対して高所から攻撃が可能であり、高所を北条軍が陣取れば武田軍の通過は困難であった。
・しかし氏照と氏邦は山中でなく三増峠の手前に陣を張り、武田軍が急激に進行してくると平地に退いてしまう。
・その上に武田軍が三増峠に陣取ったところに本隊が到着するのを待たずに攻撃を仕掛けてしまったことから、結果として敗北、氏康の本隊が到着するのは間に合わなかった。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・まあいろいろとマズいところが目立つ戦いですね。氏康の戦術を完全に理解出来ている者がいなかったということでしょうか。そうだとするといかにも人材不足ですが。

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