教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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8/11 BSプレミアム 英雄たちの選択 「伊藤VS大隈 "日本"を決めた政変の真相」

盟友同士が対立した明治14年の政変

 今回は大隈重信が政府から追われ、伊藤博文が新政府の実権を握った明治14年の政変について。磯田氏は「現代の政治の形にまでつながる重要なターニングポイント」とまで言い切るのだが、世間ではあまり知られていないし、近現代史が弱い私もこの辺りはよく知らない。この明治14年の政変に注目する。

 長州出身の伊藤博文と肥前出身の大隈重信は、共に先進的な西欧諸国を体験した者同士であり、日本の近代化を進める盟友であった。明治5年、2人は周囲の反対を押しきって日本初の鉄道の開通を行う。当時政府を指揮していた大久保利通は鉄道反対派だったが、実際に開通した鉄道に試乗すると「実に百聞は一見にしかず。鉄道の発展なくして国家の発展はあり得ない」と日記に記しているという。2人は大久保の信頼を得て、富岡製糸場の設立など近代化の施策を次々と実現する。参議として国を動かすようになる。

 しかしその後、大久保利通が暗殺されると薩長藩閥の力が増し、伊藤が大久保の後継者として力をつける。時は板垣退助らの自由民権運動が盛り上がり、憲法制定・議会開設を求める意見が政府に上がってきていた。運動は士族から庶民にまで広がり、政府も無視出来なくなってきていた。しかし薩摩出身の黒田清隆らは「時期尚早」と反対の立場を取っており、これが参議の中でも多数派だった。伊藤もやはり時期尚早としながらも、国民の意識を西洋なみに引き上げた後に議会制にうつることを唱えている。この意見に大隈も賛同して、国民を啓蒙するための機関誌などの発行を進めていた。

 

急進的な大隈の行動で両者に溝ができる

 しかしここで大隈が伊藤の予想外の行動を起こす。自らの建白書を他の参議に諮ることなく提出したのである。それが政府高官の間に漏洩、それは年内の憲法制定と2年後の国会開設を訴える性急で過激なものであった。さらに目指す政治体制はイギリスを模範とした政党政治であり、藩閥政治の否定につながるものであった。伊藤はこれに急進的すぎてついて行けないと怒りを露わにする。しかしこの件は2日後に大隈が伊藤の元に謝罪に訪れて一度は収まることになる。

 だが明治14年7月26日、黒田清隆の「開拓使官有物払い下げ事件」のスキャンダルが報じられたことで事態が急転する。これは1000万円以上の税金で建設した工場や倉庫をわずか38万円で部下に作らせた商社に払い下げさせようとしていた事件である(実に分かりやすい税金の私物化である)。各社は藩閥政治の弊害と批判し、一刻も早く国会を開設すべきだと世論が沸騰する。この事件への対応に関して、黒田は事件を新聞にリークした者がいるとして、犯人は大隈に違いないと批判を始める。黒田に同調する者が出て、政府は大隈排斥へと動き出す。さらに井上毅が反大隈派を利用して、プロイセン憲法を直ちに日本に導入するべきとの意見を主張し始める。藩閥内にはこれに同調する意見が強まる。これは憲法重視で時間をかけて日本向きの憲法を作ろうとしていた伊藤には看過できない状況であった。しかし黒田と大隈は明治天皇の北海道巡幸に同行しており、2人の意見をすぐに聞けない状態だった。

 

大隈を排斥する決断をした伊藤

 ここで伊藤の選択であるが、藩閥側に付くか大隈に与するかであるかである。スタジオゲストも磯田氏も藩閥側に付くしか選択肢がなかったろうという考えであるが、私もここで伊藤はそもそも大隈に与する考えなんか毛頭なかったろうと考える。で、実際に伊藤は大隈排斥に動く。そして払い下げ問題は黒田に払い下げを中止するように説得、その結果として黒田の政治力は大いに低下することになる。そして明治天皇出席での御前会議で大隈の罷免を上奏する。これに対して天皇は薩長の陰謀を疑って、「証拠はあるのか」とこれを認めなかったのだが、深夜にまで及ぶ議論の結果、天皇は「大隈が認めるなら辞任を認める」との結論を下す。どうも天皇の方が事の真相を理解していた模様。

 伊藤は自ら大隈もの元に出向いて辞表を提出するように要請、翌日大隈は辞表を提出する。そしてこの日に政府から国会開設の勅諭が出される。9年後に国会を開設するというものである。時間をかけて調査をしてから憲法を制定するという伊藤の考えが反映されたものである。

 結局この後、プロイセン憲法を参考にして大日本帝国憲法が制定されるのだが、憲法には「国務各大臣は天皇を補弼する」とプロイセン憲法にはない条項が加えられており、これは天皇が独断で権限を振るうことを抑えている。しかし内閣に対する規定がないことから、将来運用で政党内閣が実現する可能性を秘めた憲法として制定しているという。実際に憲法発布9年後に政党内閣が成立し、大隈が首相となる。そして大隈を首相に推薦したのは伊藤だったという。

 

 こうして結果としては政党政治につながるのであるが、それが目出度し目出度しではなく、結局それがまた猛烈な腐敗を起こしたりするのである。そして藩閥も滅んだわけではないのは、藩閥政治の腐敗っぷりだけを見事に引き継いだ山口出身の三代目ボンボン政治家の存在を見れば分かる。

 また伊藤は大日本帝国憲法に仕掛けを施していたようだが、結局はこの憲法は天皇の統帥権辺りから軍部の独裁を許すことになってしまい、結果としてはあの無謀な戦争に突き進むことになってしまう。まあ伊藤も将来のそこまでの状況を予測することは不可能だったろう。

 

忙しい方のための今回の要点

・伊藤博文と大隈重信は共に日本の近代化を進めようとする盟友であった。しかしこの両者が国会開設を巡って対立したのが明治14の政変である。
・自由民権運動の高まりによる国会開設の要求に対し、藩閥政府は反対の立場で、伊藤も「時期尚早なので国民の意識を西洋なみに引き上げてから」と考えており、大隈もそれに同意していた。
・しかし大隈が2年後の国会開設を訴える建白書を独断で提出したことで両者は対立。これは大隈が伊藤に謝罪したことで一旦は収まる。
・だが黒田清隆の「開拓使官有物払い下げ事件」のスキャンダルが報じられたことで、黒田は大隈がリークしたに違いないと大隈を批判、政府内も大隈排斥に動き出す。さらにその連中内にプロイセン憲法を直ちに導入するべきとの意見が強まったことから、慎重に日本独自の憲法を制定するべきと考えていた伊藤に決断を迫ることになる。
・結果として伊藤は、藩閥政府に与して大隈を排除すると共に、黒田に払い下げを断念させることでその政治力を削ぐ。そして9年後に国会を開設し、慎重に議論の上で憲法を制定するという詔勅が発せられることになる。
・そうしてプロイセン憲法を元にした大日本帝国憲法が制定されるが、そこには天皇の独裁を防ぐ条項が含まれていた。さらに伊藤は政党内閣が成立できる余地を含ませており、実際に憲法発布の9年後に大隈を首相とする政党内閣が成立する。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・しかし明治以降の政治を見ていると、日本の政治が清廉だったことって一度も無かったような気がするんですよね。日本って、結局のところ民主主義をまともに使いこなしたことって未だにないんじゃないかって気がして仕方ない。

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