教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

7/20 BSプレミアム プロジェクトX 挑戦者たち(リストア版)「トランジスタラジオ 営業マンの闘い」

メイドインジャパンを売り込め!

 日本製品がまだ「安かろう、悪かろう」の粗悪品と言われていた時代、世界を相手にトランジスタラジオを売り込んだ営業マン達の死闘。

 昭和30年、日本は舶来品ブームだったが、日本から輸出出来るのは工芸品程度で細々と外貨を稼いでいた。この年の3月、ニューヨークに飛んだのが盛田昭夫だった。東京の町工場・東京通信工業が製造したトランジスタラジオを持参していた。盛田はこれを輸出して外貨を稼ぎたいと思っていた。盛田は世界に出るために日本の社名を捨てようと言い、新たにソニーという名をつける。

 卸売業者を回るが日本製は粗悪だと門前払いを食らい続ける。そんな時に大手時計会社ブローバーが興味を示す。製品をチェックして「10万台を買おう」と持ちかけてくるが、その条件はブローバーの名で売るということだった。日本の無名ブランドでは売れないということである。喉から手が出るほど注文が欲しかった盛田であるが「50年後には必ずオタクよりも有名になってみせる」とその話を断る。

 

海外に乗り込んだ営業マン達

 日本に戻った盛田は海外営業部を作って自らの手で売るとぶち上げる。樋口晃が人材集めを任されるが小さな会社には人材は集まらなかった。そこで従兄弟で英語が堪能で商社勤務の小松万豊に声をかける。「これからは輸出だ」の言葉に小松は会社の後輩に声をかけてソニーに入社する。小松の後輩の大河内祐も入社を決める。

 一行は万歳三唱で送られて海外に向かう。小松万豊がヨーロッパ、大河内祐がアメリカへと渡る。トランジスタラジオを鞄に詰め込んで彼らは旅立つ。

 昭和35年2月、ニューヨークに降り立った大河内達は狭いアパートで共同生活をしながら、売り込みに回る。そして当時は珍しかった日本料理店を憩いの場所として見つける。そこにはアメリカ進出を始めた日本企業の営業マンが出入りしていた。皆、苦労しながら必死で売り込みを図っていた。会社は違うが仲間意識を持った

 ヨーロッパではスイスのチューリッヒに拠点を設けた。営業マンは3人、小松は25カ国をこの3人で制覇すると言いきる。しかしヨーロッパのほとんどの国は外国製品に対して輸入制限を課していた。そんな中で規制が緩かったのは西ドイツ。ここで正面から勝負をしようと郡山史郎を送り込む。

 

ドイツでは大苦戦、アメリカでは予想外の問題発生

 しかし郡山が乗り込んだドイツは日本同様技術立国で再建を目指しており、店頭にはドイツ製のラジオがズラリと並んでいた。選りに選って最大のライバル国に来てしまった。小松は言う「ドイツでラジオを売るのは北極で氷を売るようなものだが、それをするのが営業マンだ」。小松はまたカフェに入ったら「ソニーをください」と注文しようと提案する。ウェイトレスはキョトンとするだろうが、いつかソニーが認められたら「ソニーはラジオでしょ」と答えるはずだと。

 アメリカは順調に滑り出し、メンバーも20人を越えるが、間もなくとんでもない事態が発生する。大量の製品が故障修理で戻ってきたのである。東京の盛田はとびきりの修理工を送ると佐野健司と円谷輝美を送り込む。二人は早速修理に取り組むと同時に原因の究明に取り組む。ほとんどはコンデンサがショートしていた。しかしその原因は分からなかった。

 ドイツの郡山は1年経ったがまだ1台も売れていなかった。プレッシャーでクタクタになった郡山はついに倒れてしまう。小松は帰国の手当をつけ、郡山は無念の帰国となる。見送る小松の顔は青ざめていた。

 

ピンチの中で光明が見える

 故障の原因究明に苦しんでいた円谷はタイムズスクエアで出会った1人の日本人技術者から「コンデンサが壊れて困っているんです」という話を聞く。「うちだけではなかった」このことから輸送中に何かが起こっていると考える。日本からの輸出品はパナマ運河を通る。倉庫の中はとんでもない高温多湿になるに違いない。コンデンサには湿度が高いと変質する銀が使われている。すぐに東京に電話すると湿度に強いコンデンサに変えるように依頼する。改良品のラジオが届くと営業マンは全米に飛ぶ。そして必死で販売継続を約束させる。

 一方のヨーロッパでは小松が苦戦していた。そんな時に小松の元に駆け出しの貿易商だったヘニング・メルヒャーが訪れる。彼は「このラジオなら必ず売れます。問題はイメージです。ドイツ人はプライドが高いから、高級店だけに絞って売り込むべきです。」とアドバイスする。

 

ドイツで大勝負を打つ

 二人はハンブルクに移動し、高級ピアノのスタインウェイの店を訪れる。仕入れの依頼を「うちは高級品しか扱わない」と拒絶する店主に対し、展示だけでもさせてくれと金を払って1週間の展示を認めてもらう。この1週間のために二人はサクラ作戦を実行する。地元の学生に「このラジオが気に入ったら協力してくれ」と依頼す。12人の学生にバイト代を払い、店に買いに行かせる「このラジオをください。持ち運べるし音も良い。」店員は驚く。そして1週間後、店主は1度ラジオを仕入れさせて欲しいという。

 二人は各地でサクラ作戦を展開した。そして10大都市のすべての高級店にラジオを置くことに成功する。その上で大勝負に出る。昭和36年12月、残りの経費をすべて投入して新聞に全面広告を打つ。ラジオを購入出来る店を示して「あなたのクリスマスにソニーのラジオをどうぞ」と訴える。そしてクリスマス。小松達の事務所にラジオの注文の電話がかかってくる。店主は今まで経験したことのない売れ行きに興奮していたという。

 そして間もなく、久しぶりにカフェを訪れた小松はいつものように「ソニーをください」という。ウェイターは怪訝そうな顔で「ソニーはラジオでしょ」と答えた。ようやく待ち望んでいた答えが出た。

 やがてニューヨークの5番街にソニーの店がオープンすることになる。日の丸と星条旗が掲げられているのを見て、日本料理店に来ていた他社の営業マン達が涙したという。みんな自分達も続こうと心底感動していたのだという。

 

 ソニーが世界に飛躍した最初の話である。この番組が放送された2000年はソニーは絶好調の頃ですから、感動的な物語だったでしょう。しかし現在ではソニーを始め多くのメイドインジャパンが失墜してしまっており、今日改めてこの番組を見たら何とも表現しがたいもの悲しさを感じる。今は当時とは逆にかつて「安かろう、悪かろう」と言われていた韓国製品や中国製品に日本製品は全敗である。家電は完全に敗北し、目下のところは自動車が辛うじて持ちこたえているが、電気自動車での中国の攻勢を見ていたら、その優位もいつまで保てるやら。なぜこの短期間でここまで衰えたと悲しくなる次第。

 まあ原因はハッキリしていて、この時代以降は日本のメーカーが技術者を軽視し始める時代が始まる。技術開発でコツコツと良い物を作るよりも、財テクであぶく銭を稼ぐ方がもてはやされ、経営者も目の前の銭勘定しかしない連中ばかりになり、そして目の前のコストとして技術者を切り捨てた。その結果、技術者と共に技術まで中韓に流出してしまうことになる。そして気がついた時にはこの体たらくというわけである。

 

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