教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

7/27 BSプレミアム プロジェクトX 挑戦者たち(リストア版)「我ら茨の道を行く 国産乗用車攻防戦」

 今回はトヨタのクラウン開発物語。以下は私のアーカイブから。

 今や世界企業となったトヨタ。そのトヨタもかつては倒産の危機に瀕したことがあった。そこからいかにして立ち上がったのかという物語である。

 

 昭和22年、廃墟の中でトラックを製造していたトヨタ。その工場に一人の技術者がいた。中村健也、彼は豊田喜一郎社長が以前に言った「国産乗用車を開発する」という言葉にひかれてトヨタに入社した。しかし会社には一向にその様子がない。そこで彼は乗用車開発のプロジェクトを立ち上げる建議書を提出する。予算25億円の会社の利益60年分の費用をかけた計画である。みんな呆れかえって、誰も相手にしなかった。しかし彼の計画に目をつけた者がいた。それは豊田喜一郎社長だった。「自分と同じ考えの者がいる。」喜一郎は銀行から借金して機械を導入、中村を中心にすえて乗用車開発のプロジェクトが立ち上がる。

 しかしそんなプロジェクトはいきなりの危機を迎える。昭和24年、GHQの金融引き締め策により、銀行が資金供給を停止したのだ。トヨタは資金が干上がって倒産の危機を迎える。トヨタでは従業員の給料が払えない事態になり、激しい労働争議が起こる。その時に組合の闘争委員長として戦ったのが長谷川龍雄。彼は元戦闘機技術者で自動車業界に転身したが、あまりの技術の低さにやる気をなくしていた。長谷川らの争議により、ストライキも勃発。結局トヨタは、1600人の人員削減の代わりに社長退任という結果となる。乗用車開発どころではなくなった。

 豊田喜一郎社長がトヨタ自動車を設立し、国産初の自動車を製造するいきさつは、実は以前に「その時、歴史が動いた」で放送されている(当時私は「まるでプロジェクトXのような内容だ」とコメントしている)。今回はそのエピソードの後編のような雰囲気がある。

 どうやらこの喜一郎社長も夢に賭けるタイプだったらしく、それが中村の信念と共鳴したのだろう。もっとも夢に賭けるにはあまりに時代が悪かったようである。なおこの時トヨタが銀行に冷たくあしらわれた(「機織り屋に貸す金はあっても、車屋に貸す金はない」と言われたというエピソードがある。トヨタの前身がトヨタ織機という機織り機製造メーカーだったことから来ているようだが。)ことで、トヨタ上層部にとって銀行に対する不信感が強く植え付けられたようで、現在「トヨタ銀行」と呼ばれるぐらい自己資本を確保して銀行に頼らない経営を行っているのはこの時の苦い教訓によるという。

 

 しかしその後朝鮮戦争が勃発、日本中が特需ブームに沸き、トヨタにもアメリカから軍用トラックの発注が来る。「これで倒産を免れた。」。この時、中村も動き始める。今のうちに乗用車プロジェクトを立ち上げるしかない。しかしその時、フォードからの業務提携申し入れという思いがけない事態が発生する。当時、日本の自動車メーカー各社にアメリカのメーカーから触手が伸びていた。トヨタは決断を迫られた。ある日、常務の豊田英二が中村の元を訪れ、フォードとの提携と自主開発の茨の道のどちらを選ぶべきかを中村に問う。母の言葉「何事も諦めてはいけません」を思い出した中村は、あえて茨の道を進むことを選択する。こうしてトヨタでは独自の乗用車開発のプロジェクトが立ち上がり、中村は全権責任を追う主査に任命される。

 朝鮮特需に遭遇したのはトヨタにとって幸運だった。実際、あれのおかげで助かった企業は日本に多くある。なおトヨタはあえて茨の道を選んだのだが、これが未だにトヨタの自社開発路線の基本になっているようだ。

 
 昭和27年3月、中村は設計仕様を発表する。タクシー会社を回って情報を集め、アメリカ車に対抗できるにはどれだけの性能が必要であるかを把握していた中村は、アメリカ車に対抗できる乗用車を制作する目標を立てる。部品総数2万点にも及ぶ壮大な設計であった。しかしあまりに高い目標に、スタッフがみんな無理だと反対する。しかし中村は言う「ここで退いたら国産車に未来はない。技術は絶対に妥協しない。」彼は組み立てスピードを上げるために、スポット溶接機を導入する。

 9ヶ月後足回りだけの試作車が完成、試験走行が開始される。しかし30分後、帰ってきた試作車はサスペンションのコイルバネは割れ、骨格の溶接ははがれた散々な状態だった。その時、日銀総裁のとんでもない言葉が飛び込んでくる。「国力のない日本に乗用車は無理だ。アメリカから買えばよい。」吹き付ける逆風の中プロジェクトは暗礁に乗り上げる。

 お決まりのパターンの「技術開発に立ちはだかる壁」というやつである。一見無謀と思える目標を掲げた中村だが、確かにここで品質に妥協していたら、もし開発に成功したとしても販路は開けなかったであろう。

 

 昭和28年2月、テストの度にバネは破損し、溶接ははがれ続けた。スタッフの一人・長谷川達雄は設計の変更を中村に迫るが、中村はそれを拒絶する。一方ボディのプレス現場も難航していた。流線型のボディは鉄板が割れてばかりでうまく行かなかった。担当の藤井義裕は中村に相談するが「自分の頭で考えろ」と一喝される。しかし中村は深夜一人でプレスの専門書を読んでいた。彼は部下の独創性を殺さないためにあえて部下に具体的な指示は与えなかったのだった。数日後、藤井は中村に「鉄板を見直そう。鉄鋼メーカーに交渉する。」と言われる。二人で尋ねた鉄鋼メーカーの会議で、中村は具体的な材料を示してメーカーに説明を始める。その姿に藤井はしびれる。中村はスタッフに言った「開発は夜行列車の運転と同じだ。先が見えなくても度胸で走り続けろ。」それを聞いたスタッフの顔つきが変わる。バネ担当の守谷茂は訪ねたバネメーカーで見た小さな球をコイルにぶつけて強度を上げる方法を採用する。また長谷川ははがれた溶接の問題に取り組んだ。スポット溶接がはがれた原因は、重ね合わせた鉄板がずれることだった。原因を調べた彼は、鉄板を切り出す型紙に使用していたベニヤ板が湿気で歪んでいたことを発見する。彼はアメリカの航空機メーカーが使うポリエステルフィルムに目をつけ、商社に頼み込んで買い付ける。これで溶接の精度が格段に上がり、試作車の溶接がはがれなくなる。一方プレス担当の藤井は、力を分散させるために鉄板に油を塗って、流線型のボディのプレスを成功させる。こうして昭和30年1月クラウンが完成する。

 中村は数万冊の蔵書を持ち、機械だけでなく材料工学その他のありとあらゆる知識に通じていたという。ここまで来ると伝説の技術者を通り越して、ほとんど化け物と言って良いだろう。リーダーにここまですごい姿を見せられたら、部下としても奮い立たざるを得ないだろう。「しびれた」という表現がすべてを表していた。今、部下をしびれさせられることの出来る上司なんて、果たして何人いることやら。少なくとも私は残念ながら今まで一人もそんな人に出会ったことはない。

 また彼は逐一細かい指示を出すのではなく、なるべく部下に考えさせるようにしていたというのが、部下の育て方をよく知っている。しかもそのまま放置するのではなく、キチンとフォローを入れている(またそれを出来るだけの知識を持っているのが驚異)というのは指導者としても完璧な態度である。こういう部署では人材が育っていく。

 
 これから待ちかまえているのは外国車との戦いだった。その時、新聞社からある企画を持ちかけられる。それは5万キロ離れたロンドンから東京まで走るというものだった。中村はこの企画に打って出る。昭和31年4月30日、クラウンがロンドンを出発する。でこぼこ道、アルプスの雪、砂漠の猛暑、クラウンはすべてを走り抜けた。そしてその姿は日本人に国産技術に対する誇りを甦らせる。そして8ヶ月後、クラウンは見事にゴールインした。

 国産車のプライドを賭けての大勝負。これがなかなかドラマチックです。なおこのクラウンの成功を受けて、「誰でも買える自動車を」と開発を始められたのが「テントウ虫」になるわけですが、これは別の回でありましたね。 

 

 伝説を通り越してほとんど化け物ではないかと思われる中村健也氏に唖然とさせられる。80歳を過ぎても大型コンピュータを使って設計をしていたというのだから、信じがたい人物である。技術者なら誰でもこういう人物に憧れるが、とても自分がなれるものではない。ただ、彼はハッピーな結果を迎えたが、彼に劣らないような力量がありながら、ハッピーな結果を迎えられなかった技術者というのも実は多くいる。技術者の能力には運も含まれるのである。

 ところで彼のセリフとして「開発は夜行列車の運転と同じだ。先が見えなくても度胸で走り続けろ。」というものがあったが、夜行列車は度胸だけで走ってはいけないと思うのだが(笑)。

 

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