教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

8/3 BSプレミアム プロジェクトX 挑戦者たち(リストア版)「翼はよみがえった 前編 YS-11開発」

 今回は日本を代表する熱いプロジェクトを前後編で紹介。敗戦で空を奪われた元航空技術者達の熱いリターンマッチです。で、私のアーカイブを見返すとなぜかこの回だけが抜けていたのでまた書き下ろしです。

 

空を奪われた日本

 昭和30年、失業者が溢れる神戸で職を探している50男がいた。土井武夫。彼はかつて日本一と言われた飛行機設計者だった。子供の頃に飛行機に憧れた彼は東京帝国大学航空学科に入学する。そこは土井に劣らぬ大空への憧れを持つ英才が集っていた。木村秀政は昔見た飛行船が人生を決めた男、堀越二郎は口べたであるが頭の回転は抜群の男であった。彼らはほとんど独学で設計技術を学んでいく。いつか自分達の作った飛行機で世界を飛び回ることを夢見ていた。

 しかし戦争が始まったことが彼らの運命を変えた。川崎航空に入社した土井は多くの戦闘機を生み出した。三菱に入った天才・堀越二郎はあのゼロ戦を開発した。東大に残った木村秀政はロケット戦闘機などの新兵器の開発を命じられた。彼らの才能は日本の航空技術を欧米に比するところまで押し上げたが、その代償は敗戦後に訪れた。

 敗戦後、7年間に渡って日本はGHQによって航空機開発を禁じられた。この措置は大学にまで及び、飛行機に関するすべての研究が禁止された。これは日本の航空技術を恐れたアメリカが、戦後の航空技術の独占を目論んでの措置でもあった。土井達は自分達が学んだ技術を活かすすべての場が奪われ、路頭に迷うことになった。

 敗戦から10年が過ぎた頃には日本の空港は外国製の飛行機に独占され、再開した航空機メーカーもアメリカの飛行機をマニュアル通りにライセンス生産するしかなかった。

 

国産機開発に集結する5人の侍

 霞ヶ関に日本の翼を取り戻したいと考える若い官僚がいた。通産省課長の赤澤璋一35才、航空技術のすべてを外国に握られていることに危機感を持っていた。赤澤は土井達技術者の消息を追った。彼らは既に50才を過ぎていた。全員が悲惨な戦後を送っていた。土井は家族を岐阜に残して神戸でリアカーの設計という出稼ぎを続けていた。堀越二郎は鍋釜に農機具を作って戦後を凌いでいた。木村秀政は東大教授を追われていた。日本の航空機を作りたいと赤澤が言った途端に彼らの顔つきが変わる。彼らは次の世代に自分達の設計技術を伝えたいと強い想いを持っていた。こうしてプロジェクトが立ち上がる。

 しかしこの構想は海外の航空機メーカーから反発を受ける。特にオランダのフォッカー社は強硬だった。専務を送り込んで赤澤に独自開発を諦めるように迫った。当時40人乗りの新鋭機フレンドシップF27を世界中に売り込んでいた同社は、今更国産機を作っても市場はないと言った。しかし1年後の昭和32年5月1日に赤澤は輸送機設計研究協会を発足する。

 土井、堀越、木村らかつての航空技術者5人が駆けつけ「5人の侍」と呼ばれた。しかし技術者の派遣を要請された各メーカーは、プロジェクトが失敗すると見越して駆け出しの若者ばかりを送り込んできた。ケーブルカーしか設計したことがない園田寬治、電気技師の二木康夫は飛行機に乗ったこともなかった。5人の侍は若者たちを飛行場に連れて行って「これが君たちが作る飛行機だ」と告げる。

 

設計は出来たもののプロジェクト打ち切りの危機

 採算性の取れる機体を開発するには、ライバルのフレンドシップに優る60人の乗客数、ローカル空港の1200メートルの滑走路でも飛び立てる性能が求められた。しかしいざ設計を始めると戦闘機とは勝手が違った。旅客機は与圧の必要性など戦闘機とは全く別物だった。5人の侍は激しい議論を繰り返した。特に土井と堀越は度々ぶつかった。車輪の格納方法ではついにつかみ合いになったという。若者たちは「飛行機とはこのような状況で設計されるのか」と驚いた。また自分で考えさせる堀越、あらゆる設計に首を突っ込む土井など彼らの指導法は様々だったが、もまれながら若者たちは鍛えられていく。そしてようやく基本設計がまとまる。輸送機設計研究協会からYSと名付けられた。

 昭和33年夏、プロジェクトは困難に突き当たっていた。赤澤が交渉しても試作機の製作予算の3億円が認められなかった。新幹線に力を入れていた政府は飛行機に見向きもしなかった。予算獲得に苦戦しているという情報を知った土井は、ここで予算決定の前に本物と同サイズの模型を作ってYS-11への支持を一気に取り付けるという大博打に出る。時間は3ヶ月。

 

模型機でアピールするという大博打で勝利する

 模型と言ってもとんでもないものだった。制作費は5000万円、現在の価値で10億に匹敵した。機体はすべて木材で作られ、全国から船大工が集められた。土井はここを若手技術者の実践の場にしようと、図面では見えない設計の問題点を洗い出すことを命じた。与圧の研究を任された園田は、実際の計器を配して互いに邪魔し合わないかを必死で考えた。電気担当の二木は本物の航空機と同じの太くて硬い電線を初めて使用して配線を試した。最後の1ヶ月は不眠不休の作業となった。赤澤は模型の公開を予算折衝直前の12月11日に設定し、人を集めるために「Yokohama Sugitaで 11日に会いましょう(YS-11)」というキャッチコピーを考えた。

 公開の日には政界関係者など500人が集まった。巨大な模型にどよめきがあがる。エンジンも木で精密に作られ、機内の5列のシートには西陣織が貼られていた。ベートーベンの田園が流れる機内で皆はうっとりとなった。会場に姿を見せた通産大臣の高碕達之助が「我が国でこんな飛行機が作れるなら協力は惜しまない」と言ったのを赤崎は聞き逃さなかった。

 プロジェクトの存続が決まって皆が宴会で大はしゃぎする中、60が迫る侍達は自分達の引き際を考えていた。そしてこれから若手を引っ張っていくリーダーとして10才年下の優れた設計者である東條輝雄(東条英機の息子らしい)を指名する。これから彼らがプロジェクトで奮戦することとなる・・・というわけで後編に続く。

 

 もう前編からかなり熱い話なんだが、実際に制作に取り組む後編はさらに輪をかけて熱い話になる。

 それにしても「5人の侍」には泣けてくる。皆、自分の失われた夢を後輩に託そうとして必死だったのが分かる。ちなみに元航空技術者は、彼らのライバルとなった新幹線の開発にも従事してます。戦争のために優秀な技術者を航空機開発に動員したので、元航空技術者は人材の宝庫だったようです。しかしその人材の宝庫が戦後にことごとく冷遇されていたというのが悲しいこと。

 しかしサラッと流してはいたが、アクの強い人間が揃っているだけに実際はかなり大変だったんだろう。どうも天才・堀越二郎は孤高を保つようなところがあるし、典型的な取っつきにくい職人肌。まとめ役だったはずの木村秀政がややリーダーシップが不足というようなこともサラッと言われていたようである。今回見ていると土井がまとめ役をやっていたように描かれているが、まあこの辺りは土井武夫だけが95年にインタビューを受けていたりしているので、その辺りも関係するかも。

 なお堀越二郎、木村秀政の両人は既にもっと先に故人となっており、土井武夫も96年に92才で大往生を遂げたようである。また当時の若手官僚・赤澤璋一が番組に出演していたが、彼も2002年には亡くなっている。結局は番組には既にかなりの年配となった当時の若手技術者が登場しているが、園田寬治も2012年に亡くなっている。昭和は遠くなりにけりである。

 ところでゼロ戦を開発した堀越二郎は伝説の航空技術者として有名な人物であり、宮崎駿の「風立ちぬ」の主人公とされている。

     
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