教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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7/26 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「信長・秀吉・家康 天下人達の家紋の謎」

 三英傑などと呼ばれる信長・秀吉・家康(ちなみに私はどうもこの呼び方はしっくりこない)であるが、それぞれに独自の家紋戦略を持っていたという。それを紹介。

7つの家紋を使用した信長

 まずは信長だが、信長は7つもの家紋を持っていたと言われている。その中で一番有名なのが織田木瓜と言われる紋。木瓜紋は日本の十代家紋と言われているうちの一つでメジャーなものだが、この紋はそもそもは鳥の巣を上から見た物で子孫繁栄の願いが込められているとか。かなり歴史の古い紋であり、その紋を使用することで織田家が由緒正しい名家であると主張しようとしたのではという。もっとも大抵は四輪四弁唐花なのに対し、織田家のものは五輪五弁唐花であり、その辺りにオリジナリティも持たせているという。それは共に斯波氏の配下だった朝倉氏から娘が嫁いだ時に、朝倉氏の三つ盛り木瓜を持ち込み、それを織田氏がアレンジしたのだとか。

織田木瓜

 さらに信長が用いたものに五三桐がある。この紋は足利義昭に与えられたものであるという。この五三桐は足利尊氏が後醍醐天皇から賜ったものであるという。菊紋についで権威があるとされていた。しかし信長が後に義昭と対立したことで、この紋の使用はやめている。

 なお五三桐と同時に二引両の紋も与えられたが、これは源氏の本流を表す紋だったので、源平交代思想から平氏を名乗っていた信長にとっては「不都合」ということで使用しなかったという。もっとも実は織田氏は平氏ではなくて藤原氏の流れとのことで、信長の平氏は実はなんちゃってである。まあよくある話ではある。

 さらに平氏を強調するために、平氏の家紋である揚羽蝶をアレンジした織田蝶なる紋も使用していたとされ、陣羽織にこの紋が見られているという。

 信長は永楽通宝の紋も使用している。この紋は長篠の合戦での合戦図屏風に旗紋として描かれている。これは信長が資金力に物を言わせて揃えた鉄砲で武田軍を壊滅させたのであるが、その経済力を誇示する意味があったのではないかとしている。

 6つめが無文字というもの。これは「無」の字を崩したものだが、これは信長から下賜された千石秀久が使用していたことからことから、信長も使用していたはずと推測されている。禅宗の思想に基づいた無心を示しているとのこと。ただし信長が実際にこれを使用していたかは定かではないという。

 最後は十六葉菊。信長が正親町天皇から下賜されたようだが、実際に使用したかどうかは定かではないという。

 

桐紋をばらまいた秀吉

 さて次は秀吉だが、当然ながら農民上がりの秀吉はそもそも家紋どころか姓さえも持っていなかった。そこで合戦の時に他の武将が自らの旗印を掲げて戦っているのを見てうらやましくて、自分も勝手な旗印を掲げたために信長からこっぴどく叱られたという話もあるらしい。信長に平謝りした秀吉は、自分も旗印を使わせて欲しいと懇願してようやく許可を得たという。秀吉はこの頃におねと結婚したので、その実家の姓である木下を名乗り、木下家の家紋であった沢瀉紋(これも十大家紋の一つ)を使用するようになったという。

 長浜城主となり羽柴秀吉と名乗りだした頃に信長から与えられたのが五三桐。信長が本能寺の変で倒れ、明智光秀を倒して太政大臣にまで出世した秀吉は後陽成天皇から桐紋と菊紋を下賜される。この時の桐紋は五七桐というさらに格の高いものだったので、秀吉はこれを使用するようになる。

五七桐

 天下人になった秀吉はこの五七桐を功績があった家臣達に与えていったが、その結果として桐紋が溢れる羽目になってしまったので、秀吉自身はアレンジしたものを使用するようになり、これらは太閤桐と呼ばれるようになったという。この太閤桐は現在知られているところで4種あるという。

 

三つ葉葵をブランド化した家康

 これに対して家康の戦略は対称的である。徳川家と言えば三つ葉葵であるが、実は元々の徳川氏(松平氏)の紋は新田氏の一引両であったという。三つ葉葵を使用するようになった経緯には諸説あるという。三河松平家の初代松平親氏が創作したという説、家臣の酒井氏の家紋を譲り受けたという説、家康の祖父の松平清康が本多氏の立ち葵の葉の部分だけを譲り受けたという説、家康のオリジナルであるという説などがあって真相は不明とのこと。

ご存知、三つ葉葵

 なお家康は桐紋をばらまいた秀吉と対照的に、三つ葉葵を徹底してブランド化し、徳川家以外にはその使用を厳禁した。葵紋を使用していた家臣には家紋を変えさせたという。後陽成天皇から家康を太政大臣に任じて菊紋と桐紋を下賜したいという申し出を辞退したという。朝廷と距離を置きたかったのだろうという。なお徳川家の家紋は一貫して三つ葉葵であるが、将軍ごとに微妙なアレンジがあるという。

 

 以上、天下人の家紋戦略。家紋がなかった秀吉が天皇から菊紋を下賜されて浮かれた様子がどことなく目に浮かぶ。なお家康が徹底して三つ葉葵をブランド化したおかげで、水戸黄門が三つ葉葵の印籠を見せただけで「ハハーッ」となるわけである。

 なお御先祖が四国の神主だったらしき我が家であるが、確か家紋は梅の花のような形の紋を見たことがあるのだが、使用したことが一切無いので詳細は忘れた。また今時家紋云々なんて時代でないので。

 

忙しい方のための今回の要点

・信長は7種類の家紋を使っていたとされるが、一番有名な織田木瓜は織田家の伝統的な家紋である。
・また義昭から五三桐と二引両が下賜されたが、二引両は源氏の家紋であったために平氏を名乗っていた信長は使用せず、五三桐も義昭と対立したことで使用をやめた。平氏を強調して平氏の揚羽蝶をアレンジした織田蝶の使用も見られるという。
・さらに経済力を誇示する永楽通宝の紋を旗紋に使用したりも見られている。
・これ以外に無文字や正親町天皇から下賜された十六葉菊などもあるが、これらは実際に使用していたかは不明という。
・秀吉は最初はおねの実家の木下姓と木下家の沢瀉紋を使用したが、羽柴秀吉と名乗りだした頃から、信長に下賜された五三桐を使用する。
・太政大臣となった時には後陽成天皇からさらに格式の高い五七桐を下賜されたので、後の秀吉はこれを使用する。
・秀吉は功績のあった家臣に五七桐を下賜したが、その結果として五七桐の価値が低下してしまったので、自らはそれをアレンジしたものを用いるようになり、これらは太閤桐と呼ばれることになる。
・一方の家康は三つ葉葵を徹底してブランド化する戦略をとり、徳川家唯一の家紋とすると共に、徳川家以外には葵紋の使用を禁止した。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・家康が後陽成天皇からの桐紋と菊紋の下賜を辞退したという話があったが、そりゃ家康としたら「秀吉と同じ紋なんて験が悪くて使えるか」ってなもんだったんだろうな。

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