教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

9/8 BSプレミアム 英雄たちの選択 「先見の明か 山師か 田沼意次の真実」

画期的な経済政策をとった田沼意次

 今回の主役は磯田氏によると「近年、画期的な経済政策を行ったとして学会で評価が上昇している」田沼意次。やっとか、というのが私の本音。実は私は歴史上もっと評されるべき人物として、明智光秀、石田三成、田沼意次を40年前から挙げ続けている。前2者は最近になってようやく再評価の機運が上がっているが、ここに来て「ようやく田沼来た!」というところである。

 田沼意次の居城だった相良城は、遠江相良に三層の櫓を持つ豪壮な城だったが、意次の失脚後に破却されている。地元では今年になってようやく、そこに意次の像を建てたという。

 意次は一代で蔵米300俵の身分から5万7千石の大名にまでのし上がった。この出世の背景には意次の画期的政策があったのだが、それが敵を増やすことにもなり、やがては後ろ盾を亡くした途端に徹底的に叩かれることになり、賄賂政治家の汚名さえも被せられることになる。

 

 

幕府の財政再建に取り組んだ意次

 田沼が老中として活躍した時代は各地で一揆が続発していた時代だった。享保の改革は農民の負担を増やすことになり、それが農民の一揆を促したのである。郡上では藩の強引な年貢の増加に大規模な一揆が起こり、郡上藩主は農民に手を焼いて幕府の命令として年貢を引き上げさせようとする。しかしこれは藩内のことに幕府が命令を出すという重大なルール違反である。9代将軍家重は事態を重く見て、信頼する側近を真相究明に起用した。それが田沼意次だった。彼は厳しい取り調べを行い、不正を犯した老中は厳しく処罰する。これがきっかけに意次の発言力が増す。

 この頃の幕府財政破綻に直面していた。そこで意次は経済が発展しているにもかかわらずそれまで税が課されていなかった商人に税を課すことを考える。そして株仲間を結成し、仕入れ販売の独占権を認める代わりに運上・冥加という営業税を課したのである。これが幕府の収入の新たな柱となる。

 意次の政策を支えたのが勘定所であるが、ここはいわゆる能力主義職場で、下級武士でも出世の可能性のある部署だったという。彼等の様々な増収策を意次は採用した。その中には新貨幣の発行もあり、新たな銀貨を発行することで、関東の金貨と関西の銀貨の交換比率を固定することで経済を円滑にしようとしたという政策がある。さらには長崎での貿易の拡大を図り、俵物などの輸出を育成する。これらの政策で幕府は何百万両という貯えを作り、意次は幕政の実権を握ることになる。

 商人に課税しようとしたというのが画期的なのだが、領地を支配してその領土で収益を得るということを基本としている封建体制では商人に対しての課税という発想はなかったという。ましてや当時の武士は「商業は卑賤」という意識が強く、商業のシステムを理解しようとさえしていなかったので、商人にどういう形で税を課するかを考えつく者さえいなかったという。つまりは意次が取り組んだことは、封建制の根本をさえ揺るがしかねないことであるという。

 

 

意次の回りの山師達

 しかし意次の画期的政策は必ずしも好意的に受け取られたわけではないという。杉田玄白は山師が横行していると批判したという。実際に意次の元には様々なアイディアを持つ山師が次々と訪れており、その一人の平賀源内は意次がその手腕を見込んで秩父の鉱山開発を後押ししたという。もっともこの鉱山開発は失敗した。さらに印旛沼干拓計画なども実施するが、これは倉米200俵からこの地の代官にまでなった宮村高豊の案だったという。だがこの計画自体は利根川の水をコントロールする必要があり、技術的には困難なものだったという。実際に印旛沼の水を江戸湾に流す水路の開通は昭和になってからだという。

 このような困難な政策にも意次が取り組むことが出来たのは、各家と親戚関係を持って田沼派を結成するというような根回しの上手さがあったという。実際に最盛期には老中すべてが田沼の親戚ということさえあったという。また大奥にもコネを持っていたという。

 意次が取り組んでいたのは、今日的にいえばベンチャーキャピタルのようなものだというのが番組ゲストの見解。山師などと胡散臭いように言うが、実際に今日的視点で言えばすべてアイディアを持った起業家である。これらのアイディアを意次は試してみて成功するものが中から出れば良いという姿勢で取り組んだのだろうという。しかしこれらはそれまで封建体制にガチガチに染まっている者にとっては異端に過ぎるところがある。

 

 

天明の飢饉で暗転

 しかし時代が天明となると意次の治世に暗雲が漂い始める。浅間山の噴火に端を発した気候変動による凶作で天明の大飢饉が起こる。特に東北が壊滅的で、多くの餓死者が出た。なおこの事態には人災の側面もあり、当時は多くの藩が財政危機のために江戸や大阪の商人に借金をしており、その担保として年貢を取られてしまったことに原因があると言う。藩の備蓄米さえも借金のかたに押さえられたという。

 意次は大阪の奉行所が発案した救済策を採用する。それは大商人に大名に貸し出す資金を用意させる御用金であった。返済が滞った時のために年貢を担保にしたり、幕府が債務を保証したりしたのだが、反発した商人が貸し渋りをしたために上手く行かなかった。幕府の無策に怒った庶民が各地で打ち壊しを始める。

 そんな時、意次は工藤平助の「赤蝦夷風説考」に目をとめる。それはロシアは清国を越える大国であり、蝦夷地の金山を開発してロシアと交易すれば利があると説いたものであった。意次は蝦夷地に視察団を派遣する。翌年、蝦夷地調査団の報告は、金山発見は出来ず、ロシアとの交易も利益が見込めないというものであった。そして代わりに広大な未開地を開拓するプランを提案してきた。これは現在の幕府領の石高をも超える実に壮大な計画であった。

 

 

蝦夷地開拓に乗り出すものの、後ろ盾を失って失脚

 ここで意次の選択である。将来を考えてこの蝦夷地開発に乗り出すか、それとも当面の飢饉対策を優先するかである。これに対してゲストの意見は分かれるが、蝦夷地開発は成果がすぐに出ないというところが問題になっている。そして意次の選択だが、蝦夷地開発にGoサインを出す。その一方で飢饉対策として全国御用金令を実施する。これは全国の百姓・町人・寺社などに出資させ、そこに幕府の資金を加えて大阪に貸金会所を設立して大名に貸し付け、年利7%取ってそれを出資者に還元するというものだった。

 これは今で言う国債に近いものだという意見があったが、一番の問題は幕府が今の政府よりも信用がなかったことである。このシステムがうまく回ったなら出資者にもメリットがあるはずなのだが、農民らが負担が増大するとして猛反対することになる。

 さらに追い打ちをかけるように関東の豪雨で利根川が氾濫、干拓工事中の印旛沼に大量の水が押し寄せ、進行していた干拓工事がすべて無に帰してしまう。4年間の工事がすべて水の泡となり、印旛沼の干拓も御用金令も中止となる。そして意次は3日後に失脚する。後ろ盾になっていた将軍家治が亡くなったことが原因だという。意次は領地も奪われ城も破却される。代わりに意次の孫に与えられたのは一万石だけだったという。意次は70才で失意の内に死去する。そして残った者は意次に賄賂政治家の悪評を被せる。

 

 

 と言うわけで田沼意次の生涯でした。実際のところ意次の改革がその後に軌道に乗れば、それまでの農本主義から日本は資本主義社会に転じて、広く海外進出にまでつながる可能性があったわけで、まあ残念な限りである。

 意次がここまで悪評を蒙ったのは、意次の次に権力を得た松平定信のせいである。バリバリの反動政治家である定信は、先進的な意次の政策を理解することなど到底出来ず、結局は意次を排除してネチネチと陰険に復讐することになる。ただ所詮は享保の改革を焼き直しただけの定信の反動的な寛政の改革は、時代も変化した中で成功するはずもなく、すぐに頓挫してしまっている。そして幕府はひたすら衰退に向かうのである。

 ちなみに田沼の政策に社会福祉を加えたら上杉鷹山のやったことになるという意見が出ていた。磯田氏が「時代の限界」みたいなことを言っていたが、やはり早すぎた人なんだろう。恐らく彼が明治に登場していたら、優秀な役人として名を残しただろうと考えられる。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・画期的な経済政策を行ったということで、田沼意次に対する再評価が盛り上がってきている。
・将軍家重の信任を得て実権を握った意次は、幕府の財政危機に対して、それまで課税していなかった商人に課税するシステムを導入して、幕府の財政を潤す。
・さらには平賀源内を鉱山開発に起用したり、印旛沼の干拓事業に乗り出すなど、必ずしも成功したものばかりではないが、画期的な政策にも取り組む。
・意次の政策のアイディアの裏には能力主義の勘定所の役人の存在、様々なアイディアを提案に来る山師と言われた連中などの存在があった。
・意次がそのような大胆な政策をとれたのは、将軍の信任が厚かったことと、姻戚関係などによって幕府内に田沼派を結成していたことによるという。
・しかし天明の大飢饉が発生したことで情勢が悪化する。意次は商人に大名に金銭を貸し付けさせる御用金制度を実施するが、商人の反発に遭って頓挫する。
・そんな時に蝦夷地を開発して石高を大幅に上げるというプランが浮上、意次はそれを採用する。
・さらには農民らに出資をさせて基金を作り、大名に貸し出すことで利息を還元するという全国御用金令を実施するが、農民らから負担が増加すると猛反発を食らう。さらに印旛沼干拓も利根川の氾濫で無に帰すことになってしまう。
・意次の後ろ盾だった将軍家治が亡くなったことで意次は失脚、彼の政策も白紙に戻る。そして彼は領地を奪われて失意の中で70才でこの世を去る。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・ようやく田沼意次が評価されるようになってきましたか。次は「目指せ、大河ドラマ主人公」ですな。
・田沼を最初に知ったのは歴史の教科書でですが、その時から私は「どう考えても松平定信よりも田沼意次の方が先進的だし有能じゃん」と思いました。だから失敗改革をした松平定信が「幕府の三大改革の一人」として重視されるのに対し、田沼意次が賄賂政治の象徴のように扱われるのに疑問を感じてました。ようやくまともに評価されだしたのは嬉しいことです。
・ちなみに私はやけに田沼意次に肩入れしますが、私の家系は田沼とは何の関係もありません。

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