教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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9/15 BSプレミアム 英雄たちの選択 「秀吉の"終活"~発見!幻の京都新城~」

京都新城の遺構が発見される

 昨年、京都で大発見があったという。それは京都御苑の一角で見つかった大規模な城の跡である。これは秀吉が最晩年に築いた京都新城であると考えられるという。そこから浮かび上がってくる、秀吉の最晩年の戦略について推測する。と言うわけで今回は千田氏が登場して、例のハイテンションで京都新城の跡を回っている。

 信長の死後、急激に台頭した秀吉はついには関白にまで登り詰める。出自が低い秀吉は朝廷の権威を使用することで権力の裏付けにしたのである。また秀吉はこの時に豊臣の姓を賜って豊臣秀吉と名乗るようになる。さらに秀吉の姓であった羽柴を有力大名に与えて一種の羽柴ファミリーを作ろうとしていたという。

 しかし秀吉には後継者の問題がつきまとう。そこで有力大名の子供を養子にしていたのだが、ここで側室の淀殿が鶴松を生む。そして北条氏を下して秀吉の天下統一はなる。この時点では秀吉の天下は安泰と見られていた。

 

 

後継者問題で迷走する秀吉

 だが鶴松がわずか3才で夭折してしまい、後継者問題はまた白紙に戻る。そこで秀吉は姉の子供である秀次を養子にして関白の座を譲る。そして聚楽第に秀次が入る。秀吉は国内を秀次に任せると海外旬出を目指して朝鮮出兵を開始する。しかし翌年に秀頼が誕生することになる。秀吉は秀頼を溺愛する。その結果、秀吉の後継は誰になるかの問題が浮上することになる。ただしこの時点では秀吉は秀頼を秀次の後継にしようと考えていたという。

 しかし秀吉が突然に病魔で倒れる。さらに朝鮮での戦線は膠着化してしまう。自身の病に先の見えない対外戦争で秀吉は疑心暗鬼に駆られるようになる。その結果、秀次を謀反の罪で切腹に追い込み、その一族を皆殺しという非情の決断をする。秀吉の暴走とも言える決断については、弟秀長が亡くなったことでブレーキが効かなくなったことを指摘するものも多い。

 

 

秀頼のために築いた京都新城に込めた意味は

 後継者となった秀頼のために秀吉が築いたのが京都新城である。この発掘現場からは五七の桐の金箔瓦などが出土したという。京都新城は巨大な城郭で公家屋敷や内裏に隣接している。また西本願寺にある飛雲閣は今まで聚楽第の遺構と考えられていたが、建築年代から実は京都新城から移築されたと推測されているという。秀吉がこの城を築いたのは亡くなる1年前である。

 秀吉が秀頼のために京都新城を築いた理由として、千田氏は秀頼が公家として生きていけるように考えていたのではないかとしている。一方の小和田氏は将来の関白屋敷として作ったのが京都新城であり、公家となるよりは武家関白としての将来を主張しているのではとする。磯田氏は将来関白になる秀頼の力を他の公家に見せつけるためのものだったとしている。まあ微妙なニュアンスの違いだが、秀頼に公家の権威を付けようとしたのは間違いなさそうだ。

 秀吉は秀頼や諸大名を率いて京都新城を訪問するが、伏見城に戻った後に体調を崩して寝たきりになってしまう。結局はその後に秀吉は大坂城を強化して秀頼を大坂城に入れている。結局は秀頼に武家の棟梁とすることにしたのだという(京都新城だと大坂城に比べて防御力が低いというのが一番の理由に私は感じるが)。そして有力な大名を呼んで、秀頼の今後のことを託す。秀吉としては前田利家に家康の牽制を頼んだのだが、その利家が秀吉の翌年に亡くなってしまい、結局は家康が天下を取って豊臣家は滅亡する。

 

 

 京都新城の発見は大発見であることは分かるのだが、秀吉の晩年の戦略までが変わると謳っていた割には、「いや、これは今までと何も変わってないだろう」というのが本音。結局のところ、秀頼に公家の権威を与えようとどうしようと、実力で家康を掣肘できなければそれまでで、時代は最終的には家康の方に流れてしまったということに。ゲストの誰かも言っていたが、やっぱり秀次を殺してしまったのが間違いだろう。秀次が健在で豊臣家を守っていたら、むざむざ家康の天下になることはなかったろうと思われる。まあ秀次がすんなりと自分の次を秀頼に譲るかというところで問題が起こる可能性は確かにあるが、それでも豊臣家滅亡はなかったろう。

 まあ晩年の秀吉を見ていたら、やっぱり耄碌して判断が曇ったとしか言えないところがある。その上に権力者の孤独という奴で、疑心暗鬼にならざるを得なかったのだろう。客観的に見て、秀頼が秀吉の血を引いているとは思いがたく(恐らく回りの皆もそう考えていたはず)、そういうことを考え合わせると秀吉がやけに不憫である。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・昨年、京都御苑の一角で秀吉の京都新城のものと推測される石垣などが発掘された。
・京都新城は秀吉が最晩年に建てた城であり、公家の屋敷や内裏に隣接していることから、千田氏は秀吉は秀頼が公家として生きていけるように考えていたのではないかとしている。
・一方、小和田氏や磯田氏は将来の関白の屋敷としてアピールして公家を牽制するものであり、やはり秀頼は武家関白というのは変わらなかったのではと解釈している。
・秀吉は最後の時、結局秀頼を京都新城ではなく、大阪城に入れている。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・京都新城には興味はありますが、京都御苑内と言えばホイホイと見学というわけにはいかなそうです。千田氏は特別な許可をもらったようですが。

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