最近に見つかった北斎の作品が従来の説を変える
今回の主人公は世界的にも評価が高い葛飾北斎。近年になって新しい発見が相次いでいるという。そうのような最新情報も加えて北斎について紹介する。
まず今年1月になって新たな北斎の作品が登場した。それは「青楼美人繁昌図」というもので、遊郭で働く美女を6人の絵師が描いた合筆のものだが、その中に北斎が描いた人物が登場する。他には歌川豊国に勝川派の絵師達が絵筆を取っている。
さらにこの絵は北斎研究に一石を投じたという。ここには北斎の兄弟子の勝川春好の絵も登場するが、彼は通説では北斎と不仲であったとされている。しかしこの絵を見る限りでは勝川派との不仲は感じられないことから、どうも不仲説がデマである可能性が浮上したきたという。
勝川派で修行しながら独学で画風を確立する
勝川派で修行した北斎は勝川春朗という雅号で作品の制作を行っていた。この頃の北斎は技術はあるがまだ後に見られる特徴は現れていない。その後、北斎は和漢洋のありとあらゆる絵について学んだという。密かに狩野派に出入りし、さらには中国の南蘋派の写実的で精緻な画風が強い影響を与えたという。さらに西洋画の遠近法まで導入している。コンパスを使った幾何学的な描画方法さえ学んだという。こうして独自の画風を確立すると、35歳で師匠の死をきっかけに勝川派を去っている。その頃の落款には「自分の師匠は森羅万象である」という意味の言葉が記しているという。
北斎が一躍世に出たのは40代になって曲亭馬琴の物語の挿絵を描いたことがきっかけだという。椿説弓張月の挿絵などは非常に力強く、さながら今日の漫画そのものである。挿絵は北斎でないと売れないとまで言われたという。そして50歳の頃に刊行した、そのものズバリの北斎漫画で北斎人気は不動のものとなる。人気のために全15編が刊行されたという。
お蔵入りしていた幻の作品が見つかる
しかし世に出なかった作品が大英博物館で発見されたという。それは万物絵本大全図という作品のスケッチで、海外の伝説などから取られた事物を描いたものであるが、この作品は何らかの理由でお蔵入りになったのだという。本来はここで出てきたスケッチは版下絵であるので、版木を制作する時に板に張り付けられて削られるのでなくなるはずのものである。それが残っているというのが刊行されなかった証拠にもなる。
この年、江戸は大火にあい、北斎が懇意にしていた版元も軒並み被災し、その影響で刊行中止になったのではないかという。またこの時期は北斎は病になったり妻に先立たれたりなど生活的にも追い詰められていたという。この時に著名な版元の西村屋与八が北斎の元にある画材を持ち込む。それがベロ藍と呼ばれた青色の合成顔料である。西村屋はこれを用いて北斎へ新作を依頼したのだという。
ここで北斎の選択として、ウケ線の版画を制作するか、自身の画業を追及して肉筆絵を制作するかなのだが、番組出演者の意見は半々。そして北斎はここで最高傑作にもあげられる富嶽三十六景を制作する。有名な神奈川沖浪裏では、三色青が使用されているが、それの内の2食がベロ藍であり、本藍を併用することで鮮やかさを増しているという。この作品によって名所絵が浮世絵の新たなジャンルとして浮上した。
75歳になった北斎は雅号を画狂老人卍と改め、肉筆画に力を入れ始める。小布施に残る祭り屋台の絵などは極めて有名である。そして絶筆と言われる冨士越の竜など。この頃の北斎を支えたのが娘で絵師であるお栄(応為)である。美人画でも北斎もかなわないと唸ったとされる。花の絵などは北斎とお栄の合作ではないかとされている。お栄はアシスタントとして北斎を支えたと考えられる。北斎は90歳でこの世を去るが、その時に後10年、せめて5年あれば本当の絵師になれたのにと語ったのは有名な話である。
以上、北斎について。新発見の作品については面白かったが、話の内容自体はあまり新しいものではなく、既にかなり語り尽くされている感がある。特に娘の応為の存在がクローズアップされているが、これは近年の潮流。実際に私も応為の作品を見たことがあるが、確かに技術的には抜群に上手い。ただ北斎ほどの強烈な個性がないので、技術力の高いアシスタントというような存在だったんだろう。
あの北斎が描いた祭り屋台の絵は小布施で見たことがあるのだが、その迫力には圧倒された。北斎と言えば版画が有名だが、実際には晩年の肉筆画は胸に迫ってくるような強烈さがある。単なる世俗画家ではなく、北斎が芸術家として高く海外でも評価されている所以でもある。
忙しい方のための今回の要点
・今年の1月、北斎が歌川豊国や勝川派の絵師達と合作した作品が見つかった。このことから、北斎が勝川派の絵師と不仲だったという従来の説は見直しを迫られている。
・若き頃勝川派に学んだ北斎は、狩野派や中国の南蘋派、さらには西洋絵画までから学んで独自の画風を確立、35歳の時に師匠が亡くなったことを機に勝川派を離れる。
・その後、曲亭馬琴の椿説弓張月の挿絵などで爆発的な人気を博することになる。
・大英博物館で北斎の万物絵本大全図の下絵が発見されたことから、この作品はお蔵入りになった事が分かる。当時江戸で発生した大火の影響ではないかと考えられる。
・この頃には北斎の元に合成顔料であるベロ藍が西村屋与八から持ち込まれ、これを使った新作の制作を依頼される。こうして北斎が制作したのが富岳三十六景である。
・ベロ藍を巧みに使用したこの版画は大ヒットし、これによって名所絵という新ジャンルが浮世絵の世界に確立することになる。
・晩年の北斎はもっぱら肉筆画の制作に打ち込んだが、それをサポートしたのが娘で自身も絵師であった応為であった。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・北斎の生涯を見ていると、とにかく絵だけを描いていた人なんですよね。かなり強烈なクリエイターだったと思われます。本気で絵が好きだったんだろうな。単に仕事というだけだったらここまでやれないです。
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