三男だった秀忠
今回の主人公は、今ひとつ影が薄くて家康の馬鹿息子などとも陰口を叩かれることさえあるという二代目将軍秀忠。番組的には決して秀忠は無能ではないと言いたいようだ。
まず秀忠の生まれであるが、家康の三男として生まれている。しかし長男の信康は家康切腹を命じられている。これについては信長が切腹を命じたなどとも言われていたが、近年の研究では当主の座を奪おうとしていた信康に対して、家康が先手を打って始末したとされているらしい。
さらに次男の秀康は家康が正室の築山殿の次女に手をつけて産ませた子供なので、築山殿の目を気にする家康から愛情を注がれず、3歳になるまで対面をかなわなかったほど冷遇されていたらしい。そして17歳で結城氏に養子に出されている。と言うわけで三男の秀忠か後継ぎとなったという。
しかし秀忠の幼少期については資料がほとんど残っていないらしい。秀忠が勉強中に大きな牛が乱入してきても全く動じなかったというエピソードがあるというが、これはどうもインチキ臭い。そして秀忠の性格に大きな影響を与えたのは教育係だった大姥局だという。彼女は非常に聡明で謙虚な人物だったので、秀忠はその影響を受けたという。
秀吉の死後に関ヶ原で大失態をしでかす
秀吉が諸大名に妻子を上洛させるように命じた時、家康は秀忠を連れてくる。秀吉は秀忠を気に入り優遇したという。秀忠の秀は秀吉からもらったものだという。そして秀忠はお江と結婚し、秀吉と相婿となった秀忠について、秀吉はどうも秀頼の後見を託そうと考えていた節があるという。また秀吉にしたら、家康の息子を何が何でも取り込んで親豊臣にしたかったのだろうという意図が見える。
しかし秀吉がその3年後に亡くなると、家康は天下取りに動き始める。しかしこの天下分け目の関ヶ原で秀忠は遅参するという決定的な失敗をしでかす。途中で真田に翻弄されてしまったのだが、秀忠の配下には精鋭を揃えていたものの、秀忠がまだ経験不足のために統率が出来てなかったのが原因だという。秀忠は慌てて軍勢を残してわずかな兵だけを従えて関ヶ原に急いだが、合戦に間に合わなかった。大津城に入った家康の元に秀忠が駆けつけてきたのは戦いが終わった5日後であったという。家康は怒って秀忠と顔を合わせなかったとされている。特に家康が怒ったのは秀忠が軍勢を置いてきてしまったことだという。勝ったから良かったものの、もし負けていればこれでは秀忠までも討たれてしまう。そんなことさえ考えられないのは「大将としての器量が無い」と家康は感じたのだという。
これで家康は秀忠が後継ぎでいいか悩んだようで、重臣に誰を後継にするべきかを問うたという。この時に秀忠付きの家老の大久保忠隣が「天下を治めるには武勇よりも文徳が大事」と言って秀忠を推したことで家康は納得して秀忠を後継者にしたという。
二代目将軍にはなったが家康の傀儡
関ヶ原の合戦から2年半後に家康は征夷大将軍に就任して江戸幕府を開く。そしてその2年後に将軍職を秀忠に譲る。これは将軍職を徳川家で継承していくと言うことを示したものだった。こうして2代将軍となった秀忠であるが、実際は駿府に移動した家康の傀儡で、すべての政策は家康が決定し、秀忠はそれを実行するだけだったという。秀忠は関ヶ原の後ろめたさもあるのか、家康に背くことなく傀儡に徹したという。この頃の秀忠は家康を研究して、自らを家康に似せようとしていたという。
秀忠にとっての汚名返上の好機が大坂の陣であった。20万の大軍を率いて二条城に入った家康に対し、出陣が遅れた秀忠は家康の側近に対して「自分が到着するまで開戦は待って欲しい」と頼んで、兵を急がせに急がせて二条城に駆けつけたという。冬の陣は講和で決着、続いての夏の陣では秀忠は家康に「自分を一番の激戦地において欲しい」と願い出たらしいが家康はそれを聞かず、結局は秀忠は大きな活躍をすることは出来なかったという。しかしこの戦いの後に、家康は引退宣言を行い、後の政治は秀忠に任せると明言する。
家康のコントロールから離れた途端に暴政を行う
その翌年、病の床に就いた家康は、秀忠に対して「自分が死んだ後は天下はどうなると思うか」と問うたという。この時に秀忠は「乱れると思う」と答え、それを聞いた家康は満足げに「ざっと済たり」と答えたという。この意味については「そう思っていればよろしい」という意味ではないかという。つまりは天下が乱れることに備えての覚悟を決めておけという意味だったのではとのこと。
家康は翌月亡くなる。こうして名実ともにトップになった秀忠は、突然に苛烈な大名統制を始める。まずは実の弟の松平忠輝を改易・流罪にし、福島正則を改易にしている。41もの大名家を取りつぶして439万石を没収するという暴政を行う。諸大名を無理やりに力で押さえることで将軍の権威を示そうとしたのだという。とりあえずこれで将軍の権威は高まることになる。その一方で、政治をトップダウンから集団指導性に変更し、これがその後に将軍が替わっても幕府が安定することにつながったという。
秀忠はとにかく真面目に政務に臨み、いささかワーカホリック気味であったようである。家光に将軍位を譲り、病を患った晩年でも政務を執ったという。なお亡くなる時に神号を勧められたが、自分は父には遠く及ばないと拒絶したという。実直で謙虚である人物だったとしている。
以上、徳川秀忠の人となりだが、家康の馬鹿息子とまでは言わないものの、明らかに器量として家康よりは劣っており、本人もそれを自覚した上で必死で後継の任を果たしたというところであるようだ。それと戦時には全く役に立たないが、平時なら無難にまとめる才覚はあったようである。まあ家康もそれを分かっていたから、完全に徳川の盤石な体制を自分が生きている内に無理やり築いてから秀忠に託したのだろう。
秀忠に対する評価も、以前はまさに最初に出てきた「家康の馬鹿息子」であったが、近年は平時におけるかなり有能なトップというのに変わってきており、今回の番組のその線に沿っての解説となっている。とは言うものの、未だに秀忠が戦国乱世において徳川を天下取りに押し立てる器量があったと見ている者はまずおらず、やっぱり「平時の才」であったのは間違いない。
もっとも家康は天下を取るところまでで力尽きたので、その後に250年以上続く江戸幕府の体制を整備したのは秀忠であるのだから、その功績は実際には大きいだろう。
忙しい方のための今回の要点
・秀忠は家康の三男だったが、長男は家康と対立して自害させられ、次男は家康に冷遇されていたので後継者となった。
・しかし関ヶ原の合戦では真田に手こずった挙げ句に遅参するという大失態をしてしまい、一時は家康から後継者として疑問を持たれることになったが、大久保忠隣の取りなしなどもあって、家康の後継者に定められる。
・家康が江戸幕府を開くと、2年後に将軍位を譲られる。しかし実質的に政策はすべて駿府の家康が決め、秀忠はそれを実行するだけの傀儡だった。
・秀忠は大坂の陣で関ヶ原の汚名を返上するべく張り切るが、結局はこれという武功を上げられずに終わっている。
・大坂の陣後、家康は引退して秀忠の時代となる。家康が亡くなった後、秀忠は41もの大名を取りつぶす暴政を行うが、これは恐怖で締め付けて将軍の権威を高めるという考えであったという。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・もっとも私の秀忠に対するイメージは、真田にしてやられたのを根に持って、生涯真田信之をネチネチといじめ抜いた陰険男というものしかないです。ですから客観的に秀忠の平時の能力は評価してますが、主観的には秀忠は器の小さい男だと見ています(笑)。
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