教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

10/4 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「100年前のパンデミック!スペイン風邪の恐怖」

100年前のパンデミック

 今回のテーマは、コロナ禍のご時世からかつてのスペイン風邪のパンデミックを振り返るという話・・・なんだが、ネタとしては誰でも思いつくものなので、既にいろいろな番組でこのネタは扱われている。特にNHKなんかは手を変え、品を変えでやっております。

tv.ksagi.work

tv.ksagi.work

 

 

実はスペイン風邪ではなくアメリカ風邪だった

 スペイン風邪と呼ばれているが、その実はいわゆる新型インフルエンザで、あっという間に世界中に拡散して三度にわたって大流行、全世界人口の1/3が感染して、4000万人が亡くなったと言われている。日本国内でも45万人の犠牲者を出したという。

 1918年4月、当時日本の統治下の台湾で巡業中の力士3人が肺炎で死亡したとの報が出ているという。その後も台湾で熱病が流行したのだがこれがスペイン風邪であったという。

 スペイン風邪は発生源はスペインではなく1918年3月にアメリカのカンザス州から広がったとされる。陸軍の基地で感染者が多数出たのだという。そしてそれが軍隊の中で広がり、しかも第一次世界大戦でヨーロッパに大量に派兵していたことから各地に感染していったという。しかし当初はアメリカ政府も重視はしてなかったという。この時は流行期間が短くて2~3日で回復した(と言っても数百人の死者は出ている)ことからあまり騒がれなかったのだという。

 各地の軍隊の中で流行をしたのだが、各国共に報道統制でその事実は隠蔽しており、スペインで大きく報道された(国王が感染した)ことから「スペイン風邪」と呼ばれるようになったのだという。つまり実はアメリカ風邪だったわけである。

 

 

第一波自体は比較的小規模だった

 この第一波は三週間ほどで世界中に拡散したと言われている。インフルエンザウイルスを媒介するのは水鳥などなので、渡り鳥を通して感染が広がった可能性があるという。さらには戦争によって兵士を介して広がってもいる

 1918年5月には横須賀に停泊していた戦艦周防で150人が頭痛や高熱を訴えたのを始めに、全国で多くの兵士が発病したという。そしてそれはすぐに市民にも広がっていく。

 京都の徳正寺で当時の女学生・井上正子氏が当時のスペイン風邪について日記に詳細に記述していたことが注目されている。彼女の家では1918年の6月29日に広島の祖父が遊びに来た後に弟が発熱、そして弟が回復した後に彼女も感染して寝込んだという。なおこの時に彼女は医師からチフスを疑われていたという。チフスはインフルエンザと症状が似ているので、医師も判断に困っていたという。もっともこの時の流行はまだ大したことはなかったという。

 

 

強毒性の変異ウイルス登場で第二波が発生

 一時は収束したかに見えたスペイン風邪だが、1918年の9月の新聞に奇病が流行しているという記事が新聞に見られるという。高熱を出し鼻から血を出している患者が出たというのだという。まだこの頃はスペイン風邪のことは日本ではあまり知られていなかった。

 インフルエンザウイルスは1918年の8月頃にフランス西部かアフリカの港町で変異を遂げたと考えられるという。このウイルスは強毒性で、アメリカでは9月にまた大流行したようだが、この時に鼻血の症状が出た患者が多くいたという。当時はまだウイルスの存在自体が知られていなかった時代で、謎の奇病として医師はなすすべもなかったという。

 日本でもスペイン風邪は全国に蔓延し、発足したばかりの新内閣の原敬首相も感染したという。彼は連日財界人との会合や会食などに参加しており、まさに三密の環境にいたのだという。なおその後に熱が下がって公務に復帰したが、数ヶ月にわたって後遺症で苦しんだとのこと。またこの時には当時の皇太子(後の昭和天皇)も感染したという。上野の展覧会を視察した時に感染したと考えられ、同行していた元宮内大臣で日本美術協会会長の土方久元も発病し、肺炎で亡くなったという。そしてようやくこの頃にスペイン風邪のことが報じられるようになったと言うが、既に国内は大混乱になっていたという。

 そして井上正子氏の周辺にもスペイン風邪の影響が直撃する。この頃には学校でも多くの患者が出て、学校が休みになったり友人の母親が亡くなったりなどが起こったという。そしてついには彼女の母方も祖父が亡くなってしまう。連日、新聞には大量の死亡広告が掲載されていたという。

 

 

社会的な大混乱が発生するが、結局は打つ手なし

 スペイン風邪の流行でマスクの価格が高騰するなどということは、この時代にもあったという。また氷の価格も上昇し、火葬場が満杯になり、温泉街は大打撃となったという。そんな時に人気劇作家の島村抱月がスペイン風邪で亡くなり、愛人であった松井須磨子が自殺するという事件が発生し、これが世間にもスペイン風邪の恐ろしさを広く知らしめることになったという(志村けんの事例そのままである)。しかしこの時の政府は具体的な規制などはかけなかったという。

 しかし与謝野晶子は家庭内で子供の間でスペイン風邪が広がり、解熱剤も買えない中で全く何の予防もしないで休校もしなかった学校や、対策を全く打たない政府に対する強烈な批判の文章を掲載したという。しかし医療は崩壊、ついには福島県の会津で集落が267人が全員感染し、大雪で外部との連絡を絶たれて200人以上がスペイン風邪と飢えで亡くなるという惨事まで発生したという。

 結局のところ政府はマスクの着用を促すポスターを出したり、ワクチンを導入したりしたようだが、結果的にはこのワクチンは見当違いのものだったので功を奏することはなかったという。結果としてスペイン風邪は自然終息を待つしかなかったことになる。

 

 

 以上、スペイン風邪の状況について。科学技術は大幅に進歩し、日本も当時よりは豊かになったはずなのだが、今回のコロナに対する対応を見ているとあまり進歩していないのは情けない限り。結局は技術が進歩しても、それを使用するべき為政者が無能な上に我欲まみれの者ならどうにもならんということである。

 ちなみにこの時にワクチンが登場してますが、とにかくまだウイルスが発見されていなかった時代のものなので、残念ながら全く見当違いだったと言います。この時のワクチン開発には北里柴三郎も関与しているのですが、これがまたドロドロとした利権やメンツの綱引きが裏にあったと言うことで嫌な話が残っています。

tv.ksagi.work

 

 

忙しい方のための今回の要点

・スペイン風邪は実はそもそもはアメリカで発生して、軍隊の中に急激に広がった。
・当時は第一次世界大戦の最中であり、軍隊を通して世界中に広がったが、各国が報道管制をしているために情報が出ず、国王が感染したことでスペインでは広く報道されたことから「スペイン風邪」と呼ばれるようになった。
・1918年春頃の第一波は比較的すぐに終息したのだが、その年の8月頃にウイルスが毒性の高いものに変異、これが世界中に広がって大きな被害を出すようになる。
・日本でも感染が拡大して社会が混乱、マスク価格の高騰、氷の価格高騰、温泉街の大ダメージなどが発生。また劇作家の島村抱月が亡くなったことで、世間もスペイン風邪の恐ろしさを身近に感じるようなったという。
・しかし政府は有効な手を打てず、家族が家庭内感染をした与謝野晶子が政府を批判する文章を発表したりしたという。
・ワクチンなども出たものの、当時はウイルスの存在が知られていなかった時代なので効果のあるものではなく、結局は自然終息を待つしかなく、日本で45万人、世界で4000万人が亡くなったと言われている


忙しくない方のためのどうでもよい点

・結局はこの時代も今も「密は避けろ、移動は最小限にしろ」というぐらいしか手はないってのが情けないこと。ただ大正時代でさえも、流行爆発中にGoToで人の動きを活発化するなんてことはしてないんだから、今の政府って・・・。

次回のにっぽん!歴史鑑定

tv.ksagi.work

前回のにっぽん!歴史鑑定

tv.ksagi.work