細菌学の偉大な先駆者である北里柴三郎
今回の主人公はコロナ以降緒方洪庵と並んでやたらにこの類いの番組で扱われるようになった北里柴三郎。また将来1000円札になると言うことで旬の人でもある。歴史の教科書なんかにも書かれているように世界的にも有名な細菌学者で、第1回ノーベル賞の候補にまでなっていたとかいう偉大な学者でもある。
最初は医師になるつもりはなかった北里
熊本の庄屋の家に生まれた北里は、いわゆる「肥後もっこす」そのままの村一番のガキ大将だった。彼は幼い弟と妹を伝染病で亡くしており、当時の医師の無力さを知っていたからか「医者は一人前の人間がすることではない」と言っていたという。彼は子どもの頃から軍人を目指していた。しかし進学の時に軍人になるのに両親が猛反対し、医者になるように地元の医学校に北里を入学させる。医学には全く興味がなく、軍人になっても役立つ語学だけに興味を持っていた北里は、教師のマンスフェルトから語学を学ぶ。ある日、「君は本当に医者になるつもりがあるのか?」とマンスフェルトから聞かれた北里は「両親に言われてそう装っているが、実は語学だけを学んで軍人になりたい」と答える。その北里にマンスフェルトは「医学も決して無用な学問ではないぞ」と告げ、しばらくした後に北里に当時はまだ珍しかった光学顕微鏡を見せる。そこには肉眼では見えない細菌の姿があった。北里はこれに興奮し、細菌学の世界を志すことになる。
北里は21才でマンスフェルトの勧めに従って東京医学校(後の東京大学医学部)に進学する。北里は実にバンカラな学生生活を送ったという。正義感が強くて意志の強い北里は勉強には熱心だったが、頑固で理不尽なことには折れなかったらしい(つまり上から見たら極めて扱いにくい学生)。演説会の類いをしきりにやっていたらしいから、恐らく現代ならアルファブロガーになっていただろう。
内務省衛生局に進み、ドイツに留学する
病気の治し方が中心の治療医学だった当時の医学会に疑問を感じた北里は「人民に健康法を説いて身体の大切さを知らせ、病を未然に防ぐ」という予防医学の考え方を医道論という文書に記しているという。30才で医学校を卒業した北里は、バイト先の娘である乕と結婚すると共に、同級生のほとんどが地方の病院の院長などの高給取りになる中、彼らの1/3の収入しかない内務省の衛生局に進む。全国の衛生状況の調査が出来、ヨーロッパへの留学が可能なこの職を選ぶのに北里に迷いはなかったという。
2年後に北里はドイツへの留学をする。ベルリン大学のコッホの研究室に入った北里は、留学当初は単に「ドイツ語が上手い日本からの留学生」という認識しかされていなかった。しかしとにかく熱心に黙々と研究に励む北里は「ドイツ人にも彼ほどの勉強家は見当たらない」と言われるようになり、コッホからも目をかけられることになる。
しかしここで内務省から他の研究室への移動を命じられる。持ち前の気性でカチンときた北里は「細菌学は1年2年では学び得ない」と抵抗する。国の方針は変えられないという内務省に対して、結局はコッホが北里が研修室にとって重要な人材であることを伝えたことで、北里はようやく研究室にとどまれるようになる。
大きな功績を挙げて世界的に有名になって帰国するが・・・
コッホの研究室に留まった北里はここで誰もなしえなかった偉業を成し遂げる。それまで誰も成功しなかった破傷風菌の純粋培養に成功したのである。これで北里の名はヨーロッパ中に轟く。北里はそれに留まらずさらに血清を使用した破傷風の治療法を確立した。この功績で北里は第1回ノーベル賞の最終候補に選ばれたという。後にノーベル賞を受賞した共同研究者のベーリングは、北里の協力あってこそなしえた研究であると語っているという。
欧米中の研究機関から好待遇のオファーが殺到する中で北里は「学び得たすべての術で我が同胞の苦しみを救いたい」と、これらのオファーを丁重に辞退して39才で帰国する。北里のために内務省は新たな研究所設立を計画するが、それに思わぬ方面から横槍が入る。文部省が東京帝国大学に伝染病研究室を設立すべきと国に提案したのだった。露骨な北里つぶしだが、これは北里と帝大の間の確執が影響しているという。脚気の原因について帝大教授が脚気の原因が脚気菌によるものと唱えたのに対し、北里はこれを真っ向から否定した。その教授が北里の恩師だったことから帝大は「恩知らず」と激怒、しかし北里は「その説に非があれば、たとえ父子兄弟子弟といえども批判するべきなのが学者の一大義務と考える」と主張した。明らかに北里の言い分の方に理があるのだが、いろいろなしがらみの多いの日本の中ではその正論が通らなかったらしい。いにも日本的な悪弊である。
福沢諭吉の支援で私立研究所が設立され、ペスト菌発見の大成果を上げる
研究所の件が宙に浮いた中で救いの手をさしのべたのが福沢諭吉だという。「優れた学者がいるのにそれを無駄にするのは国の恥である」と私財を投じて北里のために私立伝染病研究所を設立する。確かに北里は既に欧米で名を知れた学者であったのに、それをつまらない確執で飼い殺しにしていたんだからこれは国の大きな恥である。
ここで北里は日本で初めて血清療法を行い、ジフテリア治療では成功率90%を収めたという。所長となった北里は若手指導では肥後もっこすぶり全開でドンネル(ドイツ語で雷の意味らしい)と呼ばれたそうだが、叱ってもわだかまりを残さなかったので部下からは慕われたという。北里の元では野口英世や志賀潔のような優秀な研究者が育っていく。
41歳になった北里の元に香港でペストが流行しているという報が伝わる。日本に上陸するのは時間の問題だった。明治政府は北里を団長として6人の調査団を派遣する。命の保証のない危険な渡航だった。北里は命がけでペストの原因研究に励む。2名の研究者が感染する中、北里はペストの病原菌発見に成功する。この偉業は世界中に報道される。帰国した北里はペストの予防対策の講演などを全国の医師を集めて行うと共に、ペストの血清の開発も進める。さらに対策のための法律の制定にも関与、こうして患者の隔離、上下水道の整備、外国船の検疫などの体制が整えられることになる。この法律は1997年に改正されるまで100年に渡って日本の基本方針となった。そして国は北里の功績を認めて私立伝染病研究所を内務省管轄の国立伝染病研究所とする。その後ペストが日本に上陸するが、北里の活躍で大規模な感染は回避される。
ペストへの北里らの対応を紹介したヒストリア
しかし再び国と対立して、私財を投じた私立研究所を設立
北里率いる国立伝染病研究所はドイツのコッホ研究所、フランスのパスツール研究所と並んで世界三大研究所と呼ばれる。しかし北里は61才で退職して私財を投じて研究所を設立している。それは研究所の管轄が内務省から文部省に移管されると通達されたためだという。研究機関だから文部省の管轄にすべきというのと、発展のために東京帝国大学の傘下とするということであった。これに対して北里は、内務省管轄下だと研究結果をすぐに実践できるが、文部省だと教育研究と言うことで直接に保健衛生的な段取りが出来なくなるということと、確執のあった帝大傘下になることで研究所が嫌がらせを受ける可能性がある(この時代になるとさすがに帝大の方も世代が変わっているので、それはあまりないような気もするのであるが・・・)ことなどからこれを拒否する。そして北里は職を辞することを決意する。北里は所員達に皆残って研究に励むように告げるのだが、北里の愛弟子の研究者35名から守衛や事務員、女性職員に至るまでほぼ全員が辞表を提出したという。彼らを路頭に迷わせるわけにいかない北里は、私財を投じて研究所を設立することにしたという(現在の価値で3億円を投じたらしい)。この研究所ではスペイン風邪の対策(結局はこれは失敗らしいのだが)や結核の対策に取り組んだという。そして78才で脳溢血でこの世を去る。後の北里研究所は大学や病院を抱える組織となり今日に至っている。
スペイン風邪への対応は以前に「英雄たちの選択」でも放送されているが、この時に北里研の対応が「ハズレワクチンだったのにあまりに強硬姿勢だな」と感じたのであるが、こういう経緯があったのであれば「引くに引けなかった」というのが理解できる。またなんで国立伝染病研究所と協力できなかったのかも疑問だったのだが、こういう経緯なら「協力など問題外である」ということも理解できる。結局は研究者の能力や意思というところを越えた政治的な問題があったということである。もっとも北里も研究者としては申し分なく優秀であるが、人間的に熱烈な支持者を作る一方で熱烈なアンチも生むタイプだったのだろうことは理解に難くない。特に東大の研究者となれば、エリート意識が服を着て歩いているような者が多いから(特にこの時代の東大となれば今よりもさらにエリートそのものである)、そういうタイプが北里に嫉妬も交えて猛烈に反発するのも理解できることではある。天才的な研究者や芸術家はどうしても人並み外れた集中力などの「異常さ」が必要であるので、人間的には「あれ」な人が多いのだが、北里もそういう点ではかなり難しい人でもあったんだろう。
スペイン風邪に対する国内対応を紹介した「英雄たちの選択」
こうして北里の生涯を見ていると、一番重要だった人物は地元の医学校での恩師であるマンスフェルトである。彼がそれとなく北里を医学の方に誘導していなかったら、北里は平凡な軍人に終わるか、下手したらどこかの戦場で戦死して終わっていたかもしれない。そうなると世界の細菌研究の世界に大きな損失となっているところだった。恐らくマンスフェルトは北里の才能を感じた上で、彼が医師になりたがっていないことを残念に感じたのだろう。こういうさりげなくその人物の才能を伸ばせる教育者というのは、理想的ではあるがなかなかにして希有な存在でもある。
当時の開かれた学問の府であったヨーロッパの研究室を体験した北里としては、旧弊でガチガチの日本の組織はさぞかし居心地が悪かったろうと感じる。にもかかわらず最後まで日本を捨てずに日本の公衆衛生のために尽くしたのは、真の意味での「愛国心」を持っていたんだろう。しかし天才ほどやりにくいという日本の体質は残念ながら未だに根本は変わっていない。同質性を求める圧力が強い日本では、「天才という異質な存在」はなかなか受け入れがたいところがあるんです。
忙しい方のための今回の要点
・北里は最初は軍人を目指していたが、無理矢理入学させられた地元の医学校で、恩師のマンスフェルトに光学顕微鏡で細菌の姿を見せられたことがきっかけで医師を目指す。
・東京医学校を卒業後、内務省衛生局に入った北里はドイツのコッホ研究所に留学、そこで世界で初めて破傷風菌の純粋培養に成功すると共に、その血清療法を開発する。
・帰国後、内務省は北里のための研究所設立を計画するが、北里と確執のある東京帝大との横槍で計画が頓挫する。それを見かねた福沢諭吉が私財を投じて私立伝染病研究所が北里のために設立される。北里はそこでジフテリアの血清療法に成功、また野口英世や志賀潔などの優秀な研究者を育成する。
・41才の時、香港で流行したペストの調査のために命がけで渡航する。そこで北里はペスト菌の発見に成功、帰国後はペスト予防のための啓蒙活動や法律の制定に尽力する。このおかげで日本ではペストの被害が抑えられる。
・その後、私立伝染病研究所は内務省管轄の国立伝染病研究所となるが、北里が61才の時に文部省に移管されることとなり、研究成果を直ちに政策に反映することが困難になることを懸念した北里は反対、辞表を提出することになる。これを受けて研究所の事務員まで含めたほぼ全員が辞表を提出。彼らを路頭に迷わせるわけにいかない北里は、私財を投じて研究所を設立する。この研究所は後に大学や病院なども含んで今日まで続いている。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・北里はまさに「信念の人」という印象ですね。部下としては「怖いけど頼りになる人」だったろうという推測は付きます。しかし上の立場からすれば「優秀だがとにかく融通が利かない扱いにくいやつ」だっただろうと思われる。日本では重宝されるのは「無能だが従順なやつ」で、今の日本の官僚がそういうのばかりになりつつあります。そういう組織は早晩滅ぶんですけどね。何しろ総理が率先して「国の方針に御追従する学者しか認めない」という姿勢を示してるんですから。
前回のザ・プロファイラー