信長と毛利の戦いを検証
番組では戦国時代に破竹の快進撃を続けていた信長に対抗しうる勢力として毛利家を挙げている。その信長と毛利家が直接対決したのが、本願寺を支援するための木津川口の戦いである。結果としてこの戦いは一勝一敗に終わっているが、そこにIFを想定している。
もっともこの戦いは今まで他の番組でも良く扱われており、以前にも歴史科学捜査班で「鉄甲船は当時の技術でも十分に制作可能」という結論を出している。
奇襲で陶晴賢を破って西国の覇者となった毛利元就
まず毛利家についてであるが、毛利が台頭したのは毛利元就の時代である。二大勢力である尼子と大内の間で翻弄される国人領主だった。
元就がその時代に尼子氏と戦った郡山城の合戦はこちらで紹介されます。
元就が世に出るきっかけとなったのは、大内氏の家臣であった陶晴賢が大内家を乗っ取ってから。元就は安芸の国人衆を率いて陶軍と戦うことになるが、陶軍20000に対して毛利軍4000、正面から戦っては勝ち目はなかった。そこで元就は一計を案じる。
それは陶軍を厳島におびき出すことだった。元就は厳島の宮尾城に500の兵を籠もらせる。海路から毛利の本拠を攻めることを考えていた晴賢率いる陶軍10000は厳島神社近くに上陸して塔の丘に本陣を置く。
この時に元就は村上海軍の協力を仰いで300艘の船で夜陰に紛れて島の裏側に上陸する。そして山の尾根に登って陶軍を見下ろす位置に到着する。そして翌朝すぐにそこから陶軍の側面に奇襲をかける。突然の奇襲に陶軍は混乱して抵抗も出来ないまま敗走する。しかし海岸には別働隊が待ち受けており、進退窮まった陶軍は壊滅、晴賢も自刃して果てる。この戦いで元就は西国の覇者にのし上がることになる。
合議制で結束の強かった毛利家
毛利家では合議制を取っていたという。傘連判状というものが残っているらしいが、元就を含む国人達が対等の立場で名前を連ねている。厳島の勝利で実質的に安芸の国人衆を率いる形になった後も、元就はあくまで「対等」という立場をとっていたのだという。この辺りは完全トップダウンの信長とは対称的である。
この結束の強さは元就の息子達に伝えられている。元就の長男隆元は毛利家を継ぎ、武勇に優れた次男の元春は吉川家に、知略に優れた三男の隆元は小早川家に養子に出されたが、常に兄弟協力して毛利家を盛り立てるように元就は彼らに対して諭した書状が残っている。吉川元春と小早川隆元は毛利両川と言われ、隆元が亡くなった後も息子の輝元を盛り立てて毛利家を守護している。このまとまりの良さが毛利の最大の特徴だという。
石山本願寺の要請に答えて村上水軍と協力して織田水軍を撃破
大内領を手に入れた上に強敵尼子を滅ぼした毛利は西国10カ国を治める大大名となる。その毛利家に対して信長に攻められていた石山本願寺から救援の要請が入ることになる。信長軍に完全包囲された本願寺は食糧が尽きて危機に瀕していた。水運の拠点である大阪を信長に押さえられたら、ここを拠点に次は毛利が攻撃を受ける可能性がある。ここで輝元は本願寺に援軍を送ることにする。
ここで輝元は村上水軍に協力を仰ぐ。村上水軍は瀬戸内海最大の海賊であり、瀬戸内海を抑える要衝である能島に拠点を置いた独立勢力だった。村上水軍は毛利の配下ではなく、実際にこの5年前には大友氏と協力して毛利と戦っているという。今回はこの村上水軍の協力を得ることに毛利は成功する。
なお村上水軍についてはこちらで紹介されている
村上水軍の切り札は焙烙火矢と呼ばれる陶器製の器に火薬を詰めて導火線を付けた手榴弾である。番組では1/10のサイズで復元して破壊力を確認しているが、船体を想定した箱をひとたまりもなく破壊している。
村上水軍の戦法は小早舟と呼ばれる機動力のある小型船で相手の軍船に近寄り、この焙烙火矢を投げ込むというものである。実際に織田軍と毛利軍が木津川口で衝突した第一次木津川口の戦いでは、この焙烙火矢の威力によって織田水軍は完膚なきまでに敗北し、海上から本願寺に食料が運び込まれる。
IF.もしも毛利が村上水軍の協力を得られなかったら
さて番組の最初のIFであるが、ここで毛利が村上水軍の協力を得られなかったらどうなるかというものである。これに対して麒麟がくるの資料提供も行ったという歴史研究家の小和田泰経氏は、まず毛利水軍単独では織田水軍を打ち破るには戦力不足であるので、毛利は調略を使うだろうとする。信長の背後の武田勝頼や上杉謙信に調略の手を伸ばして挟み撃ちを意図するのではないかと推測する。しかし信長もそれに黙ってはいない。逆に毛利の背後の大友氏や四国の長宗我部氏を調略し(この時点では長宗我部は信長と友好関係にある)、毛利を背後から攻撃させる。さらに頼みの武田勝頼なども北条に手を回すことで動けなくするのではないかとのこと。こうなると毛利に勝ち目はなく信長の勝利である。
惨敗に懲りて鉄甲船を用意させた信長
さて第一次木津川口の戦いで惨敗した信長は、九鬼嘉隆に火攻めに耐える船の建造を命じる。こうして鉄甲船が登場するのであるが、その資料は少ない上にその後に全く歴史に登場していないことから、未だにその存在に疑問を呈する者も少なくない。番組ではまずこの鉄板を貼った船が製造可能であったかを検証している。
当時のたたら製鉄の技術から製造できる鉄板の厚みは3ミリと想定し、安宅船の模型から文献に記載されている鉄甲船のサイズを元に番組では鉄甲船の1/30の模型を作成している(岡田准一が「本格的」と驚くほどに良く出来た模型である)。これを水槽に浮かせて当時の大阪湾を想定した波を起こしたところ、一応は浮いている。ただし戦闘中に船員が船の片側に偏ったという状況を想定したら、船は15度も傾いてしまって沈没寸前であり、これでは兵器としての運用は不可能だという。
この鉄甲船を実用的なものにするには鉄板の量を減らして船底にその分を重りを置いて重心を下げることで船の復原力を増す必要がある。計算の結果、そのためには6割の鉄板を減らす必要があるということになった。そこで船上の櫓や帆柱の鉄板、さらには甲板の鉄板をはがして代わりに防火剤を混ぜた漆を塗ることにして再度の実験。今度は十分な復元力を持つことが出来て実用に耐えることが証明された。つまりは技術的に鉄甲船の製造は可能であるということが証明できたという。
で、実際の戦闘ではこの鉄甲船がその威力を発揮して、村上水軍の焙烙火矢を寄せ付けず、攻撃しようとして接近した船に対して鉄甲船の大砲が炸裂、毛利水軍を徹底的に破壊して毛利軍は敗走することになる。
IF.信長が鉄甲船を製造できなかったら
ここで2つめのIFが登場であるが、もし信長が鉄甲船を製造できなかったらどうなったかとの仮説。実際に鉄甲船が技術的には製造可能と言うことが証明できても、6隻で必要となる鉄の量は60トンで、これは当時の鉄の年間製造量1000トンの6%にも及ぶ大量のもので、実際の製造は容易ではなかったという。
鉄甲船のない場合であるが、信長軍は通常の安宅船で木津川口に陣取ることになり、そこに毛利軍が攻撃をかけることになるが、実はここで信長の秘策があるという。沖の安宅船は囮であり、水路である川は渡し船を連結した浮き橋で閉鎖し、辺りのあちこちに大砲を用意して伏せておき、接近した船を陸上から攻撃するという戦術をとることが予想できるという。こうなると毛利軍は安宅船を撃破することは出来るが、本願寺に食料を運び込むことには失敗して撤退に追い込まれることになる。
結果としては「鉄甲船がなくても織田軍は勝てる」という話。まあ妥当なところ。実際に鉄甲船が兵器としてどれだけ有効かは私は以前から疑問を抱いている。鉄甲船の最大の役割は相手の度肝を抜く奇襲兵器としてであって、一旦ネタがばれてしまったら、ドデカくて機動力皆無の船がたったの6隻なのだから、どうにでも対処のしようがあると思われる。それこそ機動力抜群の小早船を使えば、当時の大砲の射撃精度を考えるとその脇をすり抜けることも可能だったのではないかと考える。つまりは「まともに相手にせずに通過してしまえば良い」のである。また村上水軍は竹竿の先に火薬を付けて、敵船の船腹に押し付けて爆発させて船腹に穴を開ける武器も持っていたはずである。あれだったら鉄甲船は下まで鉄板を貼っているわけではないので、土手っ腹に穴を開けることも可能である。
だから鉄甲船が二度と用いられることがなかったのだろうと考える。あれは信長が「俺はこんなとんでもないものでも作らせられるんだ」というアピールであり、兵器としての有効性よりもそちらの役割の方が大きかったのではないか。毛利としては鉄甲船の強さよりも、そんなとんでもないものを作らせる力を持つ信長という存在をこそ心底恐怖したであろう。
忙しい方のための今回の要点
・陶晴賢を厳島の奇襲で破った毛利元就は、安芸の一国人領主から西国10カ国の支配者にまで成り上がる。
・しかし元就はバランス感覚に長け、家中の結束は固く、また吉川元春と小早川隆景の毛利両川が毛利本家を支えたことが毛利氏の強さにつながっているという。
・毛利と信長が直接対決した第一次木津川口の戦いは信長に包囲されて食糧が尽きた本願寺が毛利に援軍を求めたことから発生。毛利は村上水軍の協力を仰いで織田水軍に臨み、村上水軍の秘密兵器である焙烙火矢の威力によって織田水軍を完膚なきまでに打ち破る。
・番組では独立勢力だった村上水軍の協力を毛利が得られなかった場合を想定したが、その場合には毛利は信長に勝ち目はない。
・信長はこの敗戦により、燃えない船として鉄板を貼った鉄甲船を九鬼嘉隆に建造させる。なお番組の検証によると鉄甲船の製造は技術的に可能である。
・番組では信長が鉄甲船を作れなかった場合を想定したが、その場合でも川を渡し船の浮き橋などで封鎖し、沿岸に大砲を配することで毛利の攻撃を食い止めることは可能である。
忙しくない方のためのどうでもよい点
・鉄甲船がその後どうなったかですが、戦いの後はさっさと解体されて鉄板は銃の材料にでもなったんじゃないですかね。信長もあんなものは再度の使い途はないと考えていたと思います。一種の心理兵器じゃないですかね。あれは。
次回のザ・プロファイラー