教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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9/20 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「日本国を創った兄弟 天智天皇と天武天皇」

古代律令制の確立に尽力した天智天皇と天武天皇 

 今回のテーマは天智天皇と天武天皇の兄弟。日本という国のあり方を作った人物である。

 後の天智天皇こと中大兄皇子はまだ天皇が大王と呼ばれていた626年、第34代の舒明天皇と後の皇極天皇である宝皇女の間に生まれる。大兄が皇位継承権を示し、中大兄は第二皇子であることを示しているという。弟の大海人皇子は同じ両親の元に630年前後に生まれたと見られているが、詳細は不明とのこと。彼は元々皇位継承権を持つ立場にあらず、そのために若い頃の経歴が不明らしい。

 中大兄皇子が歴史の脚光を浴びるのは、舒明天皇が亡くなって后が皇極天皇として即位した645年に起こった乙巳の変である。中大兄皇子が実行犯とされている。なお以前は大化の改新として語られていたが、最近はクーデター事件とその後の政治変革を切り分けて、中大兄皇子が蘇我入鹿を討ったクーデターは乙巳の変と呼ばれることが増えている。

 またこのクーデターの首謀者はかつては中大兄皇子とされていたが、最近は首謀者は中大兄皇子の叔父である軽皇子という説が有力である。それは皇位継承権を持つ軽皇子のライバルが中大兄皇子の兄に当たる古人大兄皇子であり、彼の後ろ盾が蘇我入鹿だったからだという。古人大兄皇子は事件後に身の危険を感じて吉野に退き、軽皇子が孝徳天皇として即位している。要するにこの事件で軽皇子が最も得をしていることから、彼が首謀者であるというのが最近の説。

 では中大兄皇子がなぜ腹違いの兄を陥れる計画に協力したかであるが、もし古人大兄皇子が天皇となると、母系社会の当時はそちらの系統に王位が渡るので蘇我氏の流れを汲む系統が皇位を占めることになって、中大兄皇子が天皇になれる可能性は極めて小さくなる。それならば自らの母の弟である軽皇子が即位した方が、自らに皇位が回ってくる可能性が大きいからだという。

 

 

孝徳天皇の元で政治改革に取り組みつつ、政敵を排除した中大兄皇子

 孝徳天皇は都を飛鳥から難波宮に移す。そして中大兄皇子に政治の改革を託す。当時の日本は法律等が定まっていなかったために唐からは野蛮国と見下されていた上に、各地に豪族が乱立する当時の日本では、対外侵略に対して対処することさえ困難であったという。中大兄皇子は唐をモデルとした中央集権結果を目指す。この改革が「大化の改新」である。その中身は公地公民制、戸籍に基づいて土地を人民に提供して税を納めさせる班田収授法、さらに租庸調の税制の整備である。

 この頃から中大兄皇子は冷酷な面を現すようになったという。まず吉野に逃れていた古人大兄皇子に謀反の容疑をかけて処刑、さらには乙巳の変の協力者であった蘇我倉山田石川麻呂にまで謀反の疑いをかけて自害に追い込む。こうして政敵を排除するのみならず、天皇と意見が対立すると母である宝皇女や大海人皇子などの主立った臣下を引き連れて飛鳥に戻ってしまう。皇極天皇は激怒するが、心労が祟ったか654年に崩御してしまう(暗殺の可能性はないのだろうか?)。そして宝皇女が再び即位して斉明天皇となる。すると中大兄皇子は孝徳天皇の息子である有馬皇子を謀反で処刑している。

 

 

後継問題に悩んだ中大兄皇子

 なお中大兄皇子には後継に相応しい皇子がいなかったことから、自らの娘を大海人皇子に嫁がせて、自らの孫を天皇にすることを考えていたという。

 この頃、日本の友好国であった百済が新羅と唐に圧迫されて滅亡、支援に出兵したものの斉明天皇は途上の九州で崩御、さらに日本軍は唐新羅連合軍に白村江の戦いで惨敗する。中大兄皇子は天皇に即位せずに称制という形で政務を担当、唐からの侵攻に備えて国防の強化などに当たり、防人の派遣、水城の設置などを行い、さらに関係改善のために遣唐使も派遣する。そして大津宮に遷都してから668年に天智天皇として即位する。斉明天皇崩御から7年だという。大海人皇子が天智天皇の補佐として名前が出てくるようになるという。

 なお大海人皇子と天智天皇は額田王という美人歌人を巡って三角関係で争ったという話があるが、そもそも額田王は大海人皇子の最初の妻だったという。しかしその後に天智天皇が額田王を妻にしたのだとか。かなりドロドロした遺恨がここにあるのではともされるのだが、実際は割り切らざるをえなかったのではとのこと。

 天智天皇は庚午年籍という戸籍を作成し国作りを進めるが、後継問題には悩んでいたという。自身の孫である草壁皇子か大津皇子をいずれは天皇にするつもりだったのだが、二人ともまだ幼いのですぐに天皇になることは無理だったのだという。そこで671年に、母親の身分が低いために後継候補から外れていた大友皇子を太政大臣に任命して政務の経験を積ませることにする。彼を中継ぎにして孫につなぐことを考えたのだという。

 

 

天智天皇に粛正される危険を感じた大海人皇子が逃亡、壬申の乱につながる

 この年の10月に病に伏した天智天皇は、大海人皇子を呼ぶと「後のことは汝に任せた」と言ったらしいが、大海人皇子は天智天皇の后の倭姫王を次の天皇として大友皇子を補佐役にするのが良いと言って、自らは出家するという意志を示したという。そして大海人皇子は大津宮を後にして吉野に向かう。この大海人皇子の行動であるが、この時の天智天皇の言葉は実は大海人皇子が大友皇子を脅かす可能性があるかを探ろうとしたものであり、もしこの時に大海人皇子が話を受けていたら殺害された危険があったという。だからそれを察した大海人皇子は慌てて吉野に逃亡したのだという。まあ大海人皇子にしたら「あの兄貴だったらそのぐらいはする」ってなものだろう。

 天智天皇はその2ヶ月後に亡くなるが、その半年後に大海人皇子が挙兵して壬申の乱が勃発することになる。これは日本書紀では大津の朝廷が大海人皇子を排除するべく軍の準備を進めていたので自衛のために立ち上がったとされているが、実際は自らが天皇になるべく動いたのではという。長年天智天皇を助けてきた大海人皇子には、自分こそが天下の差配を出来るという自負もあったろう。

 大海人皇子は東国と西国をつなぐ不破道を封鎖すると、大津朝廷が集めていた兵を横取りする形で兵を集めたという。ここで母親の血統が低い大友皇子よりも大海人皇子の方が血統で優れているというのが効いたという。こうして大海人皇子軍2~3万は、ほぼ同数の大友皇子軍と衝突することになる。そして瀬田の唐橋の決戦で大海人皇子軍が勝利、大友皇子は自害して乱は決着をみる。翌年に大海人皇子は飛鳥浄御原を作ると天武天皇として即位する。43歳の時だという。

 天武天皇は律令国家建設を目指し、身分制度である八色の姓を制定、さらに律令の編纂を開始する。これが飛鳥浄御原令だが、現在は原本が残っていないために内容は不明だという。さらに日本書紀、古事記の編纂を命じている。そして日本という国号を定め、大王から天皇に変えたのも天武天皇だという。さらに藤原京の造営に動き出すが、686年に天武天皇が崩御したことで建設工事も中断する。結局はその後に天武天皇の后が持統天皇として即位し、夫の意志を継ぐことになる。そして694年に藤原京への遷都を果たす。そして飛鳥浄御原令を元にした大宝律令が制定されることになる。

 

 

 以上天智天皇と天武天皇。天智天皇が冷酷な人物であり、天武天皇はその災いを逃げようとしたというのは多分事実でしょう。独裁者は往々にして晩年になると疑心暗鬼に駆られて功臣を粛正してしまったりするものです。顕著だったのが豊臣秀吉で、自らの甥である秀次まで粛正してしまって、結局はこれが豊臣家滅亡の遠因となっています。天智天皇としては後継者にした大友皇子の地盤が危ういことは自覚していたでしょうから、大海人皇子が脅威と映ったのは間違いないでしょう。しかもこの時代は長子相続のルールがまだ明確に定まってませんから。

 また壬申の乱については、大海人皇子の后で後の持統天皇の関与もいろいろ言われています。後の彼女の行動で分かるように、彼女自身も政治家としてかなりやり手で、その点では父親の天智天皇の血を濃く受け継いでいた模様で、実際に大海人皇子を焚きつけたのは彼女だという説まであるくらい。実際に彼女が一番のやり手だったという説もあり「英雄たちの選択」でもその線で持統天皇を紹介した回があります。

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忙しい方のための今回の要点

・中大兄皇子は舒明天皇と宝皇女の間に生まれ、皇位継承権を有する人物であった。また大海人皇子も同じ両親の元に生まれたと推測されている。
・中大兄皇子は乙巳の変の実行者となるが、黒幕は宝皇女の弟である軽皇子であったと推測されている。軽皇子はその後に孝徳天皇として即位して中大兄皇子を起用して政治改革に取り組む。
・中大兄皇子はこの時に、自身の政敵となり得る人物を次々と粛正している。さらには天皇と対立して、難波宮から臣下らを引き連れて飛鳥に引き上げるということまで行っている。孝徳天皇は心労が祟ったかまもなく亡くなる。
・宝皇女が斉明天皇として即位するが、百済救援のための出兵の最中に九州で亡くなる。中大兄皇子は天皇に即位せずに称制として政務を司るが、白村江の戦いで敗北して国内は防備を強化する必要に迫られる。彼が天智天皇として即位するのは7年ごとなる。
・天智天皇は中央集権の律令制国家を目指して律令制の整備を進めるが、後継者の問題で悩むことになる。
・彼は自分の娘と大海人皇子との間に生まれた草壁皇子や大津皇子などの孫に天皇位を継がせたかったが、彼等がまだ幼いためにかなわず、母親の身分が低いために皇位継承者からは外れていた大友皇子をつなぎとすることを考える。
・大海人皇子は自身が粛正される危険を感じて吉野へ逃亡、天智天皇の死後に挙兵、大友皇子の大津朝廷と対立し、壬申の乱が勃発する。
・瀬田の戦いで大海人皇子側が大勝利し、大海人皇子とは飛鳥浄御原を築いて天武天皇として即位、律令制の整備に努める。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・大海人皇子も天智天皇にとっては優秀な補佐役だったはずなんですが、天智天皇の晩年になって警戒されて、結局は兄の後継者を倒すことになったんですよね。豊臣秀長なんかも秀吉よりも長生きしていたらそんな可能性があったんだろうか? なんてことが頭を過ぎったりしますね。

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