教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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9/23 BSプレミアム 英雄たちの選択「日本のかたちを決めた女帝 持統天皇の真実」

今日の天皇制の基本を作った持統天皇

 令和になって天皇即位の儀式が古式ゆかしく行われたが、このような現在にも続く儀式の型式を定めたのが持統天皇であるという。天武天皇の后であったのが持統天皇で、今までは次の天皇につなぐための臨時の天皇的な見方がされることが多かったというが、近年の研究では持統天皇とそのような臨時の存在ではなく、後につながる天皇の形を定めた本格的な天皇であったということが明らかになってきているという。

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百人一首に描かれる持統天皇

 

天智天皇の娘で天武天皇の皇后となった

 後の持統天皇は鸕野皇女と呼ばれる中大兄皇子の娘であった。白村江の戦いでの敗北で唐の侵攻の可能性が高まるなど外患を抱えていた時、中大兄皇子は権力を固めるために身内の統制を図って、鸕野皇女を実の弟(同母弟なので血が濃い)である大海人皇子に嫁がせる(叔父と姪の結婚になる)。大海人皇子は天智天皇となった兄を側近として支える。大海人皇子は日本書紀には大皇弟と記されていて、事実上のナンバー2であることが覗えるという。

 しかし運命が変わる。671年に病に倒れた天智天皇は大海人皇子に皇位を継ぐように告げる。しかし天智天皇の真意が息子である大友皇子に対する譲位であることを感じた大海人皇子は、病気で皇位を継ぐのは困難であるとして出家をして吉野に身を隠す。

 天智天皇が崩御すると大友皇子が兵を集めているとの報が大海人皇子の元に伝わってくる。大海人皇子は吉野を脱出して挙兵、これが壬申の乱となる。大海人皇子の軍勢は数で大友皇子を圧倒して乱を勝利する。この戦いにおいて鸕野は後方を担当していたという。そして大海人皇子は天武天皇として即位し、鸕野は皇后となる。

 天武天皇と鸕野は二人三脚で国作りを始める。日本最古の貨幣である富本銭なども発掘されており、貨幣経済も天武天皇の時代に始まったと考えられている。中央集権を進めていたのである。また法典の編纂も始めており、後の大宝律令につながる飛鳥浄御原令を定めている。また皇位継承の争いを防ぐために6人の皇子を集めて吉野を訪れて、すべての皇子を鸕野の子どもとして扱うという吉野の盟約を結んだという。これで鸕野の実子である草壁皇子が後継として定められたという。これは鸕野の立場に極めて強く配慮したものであるという。

 

天武天皇の死で皇位継承問題が混乱する中で、ついに自らが即位

 しかし天武天皇が亡くなると、皇子達は即位には若すぎるという事態が発生する。そこで鸕野が自ら政務を執った。これを称制と言うという。しかし1ヶ月後、姉の子である大津皇子が謀反を企てているとの密告が入る。鸕野は大津皇子を捕らえて死を命じる。厳しい処罰で内乱を事前に封じる。しかし天武の死から3年後に後継者であったはずの草壁皇子が死去する。これで皇位の行方が混沌とする。

 ここで鸕野の選択である。1.草壁の子である珂瑠皇子に継がせる。2.他の皇子を即位させる(高市皇子が最有力)3.自分が即位する。以上の3点。そして鸕野は自らが持統天皇として即位するわけであるが、豪族達を納得させるにはそれなりの仕掛けが必要であった。

 そこで彼女は「天の神々によって選ばれた」という形で即位することになったという。この時に後の天皇即位の儀式につながる型式が定められたのだという。それまでの群臣の推挙によって選ばれるという形ではなく、神に選ばれた天皇を群臣が頂くという形に変革したという。

 持統天皇は自らの即位の正当性を示すために吉野への行幸を繰り返したという。天武天皇と自身の一体性をアピールしたのだという。

 即位から4年後には藤原京に遷都し、後の平城京や平安京を凌ぐ巨大な都を築き力を示す。これは新たな時代を人々に意識づけるものであったという。そして儀式の様式を諸々定めたという。

 

後継を草壁皇子の息子に指名し、自らは後見する

 太政大臣であった高市皇子が死去し、50才を越えた持統天皇は後継者を定める必要に迫られた。この時に珂瑠皇子の立太子を決めるが、珂瑠皇子はまだ15才であり、混乱が予想された。そこで持統天皇は群臣を集めて皇位継承のルールを定めることにした。議論が紛糾してまとまらない中、大友皇子の息子である葛野王が「神代以来、子孫が皇位を継ぐのが我が国の法である。兄弟継承では乱になる。」と発言する。持統天皇の直系は珂瑠皇子しかおらず、持統天皇は葛野王の一言が国を定めたと大いに褒めたという。こうして697年、珂瑠皇子は文武天皇として即位する。群臣の推挙による兄弟相続から天皇の指名による直系相続に皇位継承のルールを持統天皇は変更したのである・・・とのことなんだが、葛野王の発言は、珂瑠皇子を推すという形をとりながら、実は兄弟相続で乱を起こした天武天皇のことをあげつらっているように感じられてならないのだが。持統天皇もそのことは感じつつも、その点はあえて無視したのかな。

 太上天皇として文武天皇を後見した持統天皇は、702年に遣唐使を再開して則天武后に使者を送り、倭に代わって日本という国号を認めさせたという。こうして日本も誕生したわけである。

 ちなみにまもなく持統天皇は亡くなるが、初めて火葬された天皇でもあるという。

 

 思いの外やり手の女性です。天武天皇を影で動かしていたフィクサーでもあったんでしょう。その辺りはさすがに天智天皇の娘と言うべきか。

 この時から長子相続というそれまでとは違う型式が定められ、後々まで続くとことになったというわけだというようだ。もっともその代わりに磯田氏が言っているように二男、三男などは割を食うことになったわけで、功罪両面がある。基本的に兄弟相続というのは権力の空白を作らないために、前任者のやり方を十分に分かっている上で既に相応の実力を持っている者に継がせるという面が大きかった。特に昔は寿命が短いので前任者が亡くなった時にはまだその子どもは若すぎるということが多かったので、実用上そうせざるを得なかったのだろう。しかし体制を整えて若い主君を回りが補佐することが出来るようになれば、長子相続でも何とか回るようになったという側面もありそうである。

 ちなみに遊牧民族であるモンゴルなどでは、息子は成長した順に自立するのがルールなので、末子相続がルールになっていたと聞いたことがある。まだ若くて生活力のない末子に親の遺産を継がせることでフォローするという考えなんだろう。また末子は一番若いので、残った母の面倒を最後まで見られるということもあったようである。文化によって相続の型式も様々である。ちなみに兄弟で分割して相続するということがなされたところもあるが、それはそれで世代が進むにつれて領地などが細分化されすぎて誰もが食えなくなるという問題が生じてしまったとか。結局は兄弟分割というのは、分割してもそれぞれが食っていけるぐらいの大領を持っている家しか不可能らしい。

 持統天皇は自らの正当性を示すのに、結果としては神の力に頼ったというわけで、これはなかなかしたたかです。そうして考えると「天皇は神の子孫である」という体制を強化したのが持統天皇であり、確かに現在の天皇制を基礎を築いているわけである。対外的にも天智天皇の時には「もしかしたら侵攻されるかも」という状態になっていた唐との関係を再確立したのは大きいでしょう。則天武后に使者を送ったというのは「女性同士なら」という計算もあったのかもしれません。

 

忙しい方のための今回の要点

・後の持統天皇である鸕野は天智天皇の娘で大海人皇子に嫁いだ。
・天智天皇の死後は壬申の乱で勝利した大海人皇子は天武天皇として国作りを開始する。鸕野はそれに協力して共同統治のような形になっていたという。
・天武天皇の死後、鸕野は自らの息子である草壁皇子を後継として自らは称制で若い草壁皇子に代わって国を治めた。この時に姉の子である大津皇子の反乱も未然に阻止している。
・しかし天武天皇の死の3年後に草壁皇子がなくなって皇位継承が混沌とする。草壁皇子の息子である珂瑠皇子に後を継がせることを鸕野は考えるが、珂瑠皇子がまだ幼いことから、自身が持統天皇として即位する。
・自身の即位の正当性を示すため、持統天皇は「天によって天皇に推戴された」という形をとり、そのための儀式などを定めた。これが今日の即位の儀式の原型となっているという。また吉野行幸を繰り返し、自身と天武天皇の一体性をアピールした。
・持統天皇は後継を珂瑠皇子としたが、混乱を防ぐために天皇位の継承をそれまでの群臣の推戴による兄弟継承から、天皇の使命による直系相続に改めた。
・珂瑠皇子が文武天皇として即位後、太上天皇として後見した持統天皇は唐の則天武后に遣唐使を派遣し、それまでの倭から日本に国号の変更を認めさせた。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・今のキャリアウーマンの走りのような人物です。確かにかなりやり手で出来る女性です。天武天皇もかなり頼りにしていただろうな(一方でかなり恐れていたかも)。とにかく歴史上の女性でこれだけ存在感のある人ってほとんどいないですから。いわゆる「つなぎ」して収まる人ではない。

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