教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

9/30 BSプレミアム ザ・プロファイラー「プロファイラーIF 戊辰戦争 敗れざるものたち」

戊辰戦争の二つのIF

 戊辰戦争は日本の体制が大きく変革する争いであったが、フランス革命などに比べると犠牲者数は一桁ほど少なかったという。そういう結果につながった敗者の選択について、2つのIFを検証する。

 まず戊辰戦争の始まりは鳥羽伏見の戦いであるが、これは倒幕に進む薩長に対して慶喜が先手を打って大政奉還を実施したことから始まった。これで薩長は倒幕の大義名分を失ってしまうのであるが、強硬派の西郷などが「あくまで慶喜を処刑するべし」として強引にクーデターで朝廷を抑えて王政復古を宣言して新政府の樹立を宣言したことから始まる。

 これに対して幕府方は一旦大坂城に集結してから、天皇に薩長追討の宣旨をもらうべく上京する。しかしそれを待ち構えていた薩長軍と全面衝突になって幕府側が敗北するのである。この時、幕府軍1万に対して薩長軍5千と戦力的には有利であった上に、幕府軍は最新式の元込め式のシャスポー銃も装備しており、兵力的には完全に優位であったという。しかし幕府軍は朝廷に交渉に行くと言うことで臨戦態勢を取っておらず、弾込もしていない状態であり、行軍陣形のまま戦闘態勢で待ち受けていた薩長軍からの突然の攻撃を受けたことで混乱して総崩れになったのだという。

 さらにこの時に持ち出されたのが錦の御旗。ただしこれは普通にイメージされる菊のご紋の入った神々しいものではなく、現存しているものは無地の地味なものである。天皇から下賜されたということが重要であり、急ぎだったので刺繍などは間に合わなかったという。だから幕府軍は最初は「それは何藩の旗だ」と敵に聞いたという話があるとのこと。つまり錦の御旗が登場して幕府軍が一気に動揺して総崩れというよりも、ジワジワと「錦の御旗らしい」という噂が広がって動揺していったというのが現実だとか。

 

 

慶喜が大坂城で徹底抗戦していたら

 この後、大坂城で体勢を立て直して再戦だと意気込む幕臣を残して、慶喜はなぜか開陽丸で単独江戸に逃亡したことで幕府方は総崩れとなり、鳥羽伏見の戦いは決することになり、ここから倒幕へと時代は雪崩を打つことになる。

 まず最初のIFであるが、ここで慶喜が逃亡せずに徹底抗戦を選んでいたらである。大坂城は極めて堅固な城であるので、ここに幕府側が立て籠もって徹底抗戦したら、恐らく薩長軍は落とすことが出来ずに長期戦になるだろうという。そうなると海軍は幕府が優位に立っていたので、大阪湾が封鎖され、薩長軍は補給が尽きることになる。その時に幕府側が別働隊を背後に迂回させれば挟撃を食らった薩長軍は壊滅、幕府は朝廷を奪還することが可能だったと推測している。

 ただし問題はそれからで、薩長共に主戦力は本国にあるため、その後も全面戦争は長引くことになる。そうなると諸外国の介入も招き、戦乱は拡大の一途を遂げる可能性があるという。結局は慶喜はそうなることを恐れたことと、元々水戸出身で尊皇の意志が高かったことから、朝敵となったことの動揺から逃亡したのではとしている。

 この後、新政府軍は3手に分けて江戸に向かって進軍する。この時に勝海舟と西郷隆盛の直接交渉で江戸城無血開城が決まって、江戸の町が戦渦に巻き込まれることは防がれた。もしこの時に江戸が焼失するようなことがあれば、日本の近代化は50年は遅れたのではないかとの話もある。この時の交渉では、勝は場合によっては自ら江戸の町に火を放つと言うことを匂わせて西郷から譲歩を引き出したとされる。

 

 

もし榎本海軍の開陽丸が沈没しなかったら

 その後、徹底抗戦を選んだ榎本武揚や土方歳三は函館に渡って五稜郭に籠もるのであるが、自らの死に場所を探していた土方に対し、榎本は戦いの落としどころとして幕臣を養うために幕臣に蝦夷地の開発を委託させるという形での決着を目指していたという。

 戦力的に劣勢の幕府軍の頼みは、開陽丸を中心とする榎本率いる幕府海軍だった。榎本はこの海軍力の優位を背景に、諸外国から中立の立場を引き出すことに成功し、蝦夷政府を政権として認めさせている。

 しかし開陽丸が江差沖で沈没、これが榎本らには痛恨となる。これで諸外国は新政府支持に流れ、新政府軍には戦艦「甲鉄」が引き渡され、海軍的にも新政府が優位となる。そうして五稜郭は落ち、土方は戦死、榎本も自害をしようとしたのを部下に止められて降伏することになる。

 さて二つめのIFであるが、ここで開陽丸の沈没がなかったらというものである。この場合、諸外国は中立を保っているので新政府側の甲鉄も存在しないという。そうなると海軍的には幕府軍が優位であり、上陸した新政府軍の背後から兵を上陸させて挟撃することが可能となるという。そうなると新政府の五稜郭攻略は頓挫し、結局は榎本が目論んでいた形での決着が可能となったのではとの話。もっとも降伏の後に榎本は新政府入りし、結局は蝦夷地開発には多くの幕臣が関与することになったので(とは言うものの、植民と言うよりは島流しに近い境遇ではあったが)、榎本の構想が雲散霧消したわけではないという。

 

 

 以上、戊辰戦争のIFであったが、要するに幕府側が徹底抗戦したら無駄に犠牲が増え、戦いが長引いて諸外国の介入を招くことになれば、下手すれば清朝の二の舞になる危険もあったということである。そう言う意味では幕府憎しでバーサーカー化している薩長よりも、敗れた幕府側の方が分別があったと言うことになるのであるが、どうも大河ドラマを見ていても近年はそういう解釈が優勢になりつつあるようである。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・鳥羽伏見の戦いは幕府軍が戦力的には優位であったにもかかわらず、奇襲を受けたのと錦の御旗のせいで敗北する。その後、大阪城に籠もって戦う手もあったが、なぜか慶喜はここで逃亡してしまう。
・もしここで慶喜が徹底抗戦したらだが、堅固な大坂城と幕府軍の海軍の優位性を考えると、畿内での戦いは幕府側が勝利したと推測されるという。しかしその後、長い内戦となり、諸外国の介入なども招いた危険がある。
・その後、江戸城無血開城となり、榎本や土方らは五稜郭に立て籠もる。榎本は最新鋭戦艦開陽丸の武力背景に、蝦夷政権を諸外国に認めさせたりするが、この開陽丸が江差沖で沈没したことで幕府側は劣勢となって五稜郭は落ちる。もしこの開陽丸が沈没しなかったらどうなっていたか。
・恐らく新政府軍の五稜郭攻略は頓挫し、蝦夷地の開拓を幕臣が行うという榎本の構想が実現したのではとしている。しかし結果的には榎本の考えと近い方向にその後の現実は進んだという。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・まあとにかく言えることは、慶喜がやけに諦めが良いんですね。どうも幕府を残すと言うことには全くこだわっていなかったよう。結局は慶喜にしても幕藩体制が限界に来ているのは感じており、制度改革が必要だとは思ってたんでしょうね。もっとも計算違いは薩長が慶喜の想定以上にアホだった(笑)。つまりは先のことを考えずに徳川憎しだけで突っ走ってしまったってことでしょう。その辺り、薩摩のトップが田舎者の久光でなく、優秀な斉彬だったらまた違ったんでしょうが。