教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

11/8 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「家康を裏切った男?石川数正」

家康の人質時代からの腹心だった石川数正

 戦国時代には主君を変える家臣は少なくなかったが、その中でも戦国の謎の人にもなっているほど衝撃的だったのが、家康の腹心だった石川数正の出奔である。彼が秀吉に乗り換えた理由については未だに諸説あって真相は藪の中である。今回はその石川数正について紹介。

 石川数正はまさに家康の腹心といって良い譜代の家臣であった。そもそも今川家に竹千代が人質に送られる時から同行しており、その時に今川家でなくて織田家に送られた時も動揺する竹千代を支えている。その後、人質交換で今川に送られたが、数正が常に竹千代に付き従っていた。

 家康の転機となるのは桶狭間での今川義元の討ち死に。家康は独立の好機と見て駿府城に戻らず、岡崎城に戻る。こうして人質生活からの脱却をするのだが、問題となったのは今川の元にいる正室の瀬名姫とその幼い子供たちであった。氏真は家康の行為に激怒しており、瀬名姫は義元の姪であることから命は奪われていなかったが、今後どうなるか分からないところだった。この時に奪還交渉に携わったのが数正である。彼は見事に瀬名姫らの奪還に成功して帰還、家康の家臣団の無骨者の三河武士の中では、切れ者で柔軟性のある数正は貴重な存在であり、これ以降特に外交で活躍することとなる。

 

 

信長との同盟をお膳立てし、信康の後見人となる

 自立はしたもののまだ弱小の家康には後ろ盾が必要だった。そこで同盟相手として信長に目をつけるのだが、家康の家臣団はそれまで敵対していた織田氏と同盟を結ぶのには反対だった。この時に信長との同盟をお膳立てしたのも数正だった。結局、この清洲同盟は信長が本能寺で亡くなるまで続くことになる。

 また石川数正がその忠誠を発揮したのは三河の一向一揆だった。家康の家臣の中にも一向宗の門徒は多く、それらの家臣は一揆側に与してしまった。数正も一向宗門徒だったのだが、家康と同じ浄土宗に鞍替えして家康に付いた。さらに一揆側に与した一族も説得して味方に引き入れ、結果的には一揆は半年で鎮圧される。数正はこの功で家老となる。

 三河を平定した家康は徳川を名乗って戦国大名として自立する。さらに今川氏から遠江を奪って勢力を拡大する。この時に西三河の旗頭となった数正は東三河の旗頭である酒井忠次と共に両家老と呼ばれることになる。さらに翌年に家康の長男の信康が9才で元服して、浜松城に移った家康から譲られた岡崎城に入ると、数正は信康の後見人となる。

 

 

秀吉と何度か交渉する内に、突如出奔してしまう

 数正は家康の主立った戦いには常に参加して重要な役割を果たしているが、本能寺の変の後のいわゆる「神君伊賀越え」では数正は家康を守って三河にまで帰り着いている。そして秀吉が天下を取ると戦勝祝いの使者として家康から秀吉の元に送られた。これは秀吉と今後どういう風に付き合っていくかの探りを入れる意味があったという。この時に秀吉が数正を家臣になるように持ちかけたという説もあるらしいが、少なくともこの時には数正はその気はなく、その後の小牧長久手の戦いでは小牧山城を守って秀吉軍と戦っている。

 この戦いは家康が有利に進めていたが、秀吉が織田信雄と講和したことで家康は戦いの名目をなくして講和せざるを得なくなる。ここで家康は使者として数正を秀吉の元に送る。この時に秀吉は家康に和睦を勧めるように数正を説得したのではという。実際にこの後に家康は秀吉と和睦し、次男の於義丸(後の結城秀康)を養子として秀吉に差し出している。この時に数正は実子の勝千代も一緒に秀吉に差し出したという。自身が竹千代に同行した時と同じことをしたのだという。

 しかしこの一年後に数正は突然に岡崎城を出奔して秀吉の元に走る。徳川軍の機密を知っている数正の離反は家康にとっては衝撃であったが、その理由については諸説ある。1.瀬名姫を殺害し、信康に切腹を命じた家康に対しての不信感。2.家康に秀吉に対しての臣従を勧めたことで家中で孤立してしまった。3.秀吉に好条件でヘッドハンティングされた。4.秀吉への臣従に抵抗する家康に対し、あえて裏切り者になることで家康の危機感を煽ろうとした。5.家康から秀吉に対してのスパイとして送り込まれた。などなどが唱えられているという。なお小和田氏は2と3が複合したものと考えているという。

 こうして秀吉に乗り換えた数正は和泉に所領を与えられるが、家康が秀吉に臣従を決めたことで数正の持つ徳川家の軍事機密は価値を失い、また数正を厚遇しすぎることは家康を刺激しかねないことから、秀吉としては重荷になってしまったという。このことから秀吉の直臣となったものの、不遇の日々を送ることになってしまったという。その後、信濃松本城と10万石を与えられたが、その後しばらくして亡くなったという。

 

 

 というわけで、戦国時代の大きな謎の一つである石川数正出奔だが、謎は謎のままという結論である。ちなみに私の考えは、家康が浜松に移り、三河を取り仕切っていた数正と距離を置く内に段々と考えに隔たりが出て来、それが信康切腹で決定的となったところに秀吉に勧誘されて魅力を感じたというところではというものである。やはり自分が後見人を務めていた信康が切腹させられると言うことは、信康が家督を継ぐと徳川家の中心になるはずだった自身もいらないと言われたと等しいので、これは数正にとっては前途が閉ざされたと感じるには十分だったろうと推測する。そこに人たらしで天下人の秀吉からのオファーがあれば乗り換えても不思議でなかったのではと感じる。

 数正が於義丸に自分の息子をつけたことを番組ではこの時点での数正の家康に対する忠誠の証と解釈していたが、於義丸はそもそも徳川家を継ぐ可能性のない息子であり、数正が息子をつけたのは、数正自身が秀吉に人質を差し出したのではという気もする。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・石川数正は家康が人質時代にずっと一緒に付いていた腹心であった。
・今川義元が信長に討たれて家康が自立した時、今川の元にいた瀬名姫と子供たちの奪還交渉を成功させたのが数正で、これ以降数正は外交の場で重用される。
・数正は家康の重臣の多数が信長との同盟に反対する中で、その同盟成立にも貢献している。
・家康の数々の戦いで重要な役割を果たし、神君伊賀越えでも活躍した数正は、秀吉が天下人となった後、家康によって秀吉との交渉に送られている。
・その後の小牧長久手の戦いで家康と共に参戦しており、この時点では忠誠に揺るぎは見られない。
・その後、家康が秀吉の元に於義丸を養子に送った時、数正は息子を同行させている。
・小牧長久手の戦いの1年後、数正は突然に岡崎を出奔して秀吉の元に走っている。
・この原因については諸説あるが、未だに決着はついていない。小和田氏は秀吉との講和はであった数正が、家中で孤立する中で秀吉からのオファーがあったのではと見ている。
・秀吉の元での数正は、和泉に所領を与えられ、後に松本を与えられているが、家康が秀吉に臣従したために、結局は重用されることはないままに終わってしまっている。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・なんか一世一代の転職をしたものの、いざ転職をしてみたら「こんなはずではなかったのに・・・」という結果になった人物という気もしますね。秀吉から「お前はもういらね」と言われた感が半端ないので。

次回のにっぽん!歴史鑑定

tv.ksagi.work

前回のにっぽん!歴史鑑定

tv.ksagi.work