教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

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11/15 BS-TBS にっぽん!歴史鑑定「古代史ミステリー 国宝・金印の真実」

福岡の農民が発見した金印

 福岡県の志賀島で発見された国宝・金印。これについては発見当初から真贋論争があったりなど、未だに謎も多い。その金印について最新の説も含めて検証する。

 そもそも金印が発見された経緯であるが、志賀島の農民である甚兵衛が田んぼの水路を整備していた時に発見したのだという。藩ではこの金印の正体が分からず二つの藩校に鑑定を依頼したという。東の藩校である修猷館館長の竹田定良は天皇家に伝わったものが壇ノ浦の合戦で海に落ちて志賀島に流れ着いたと推測した。これに対して西の藩校の甘棠館館長で儒学者の亀井南冥は、後漢書東夷伝にあった後漢の光武帝が奴国に与えたものであると鑑定した。藩は南冥の説の方が信憑性が高いと判断したが、その価値が分からずに鋳つぶしてしまおうと言い出す者までおり、それを南冥がその価値を必死に訴えて止めたという。そして藩の倉で保管されることになったという。

 

 

発見当時から真贋論争のあった金印

 しかしこの金印については当時から真贋論争があったという。一つ目は国学者の松浦道輔による「国王の印には「之爾」や「之章」とあるべき」で、また当時の印に国の名が彫られているものはないとした。しかし明治時代になって歴史学者の三宅米吉が中国の古い印を調べたところ、これらの文字のないものや国名が掘られているものもあることを発表したことで否定された。

 さらに印の大きさが漢の時代には一寸四方のはずでそれなら一辺3センチのはずだが、金印は2.3センチと小さすぎるというものもあった。しかしこれは当時の一寸が2.3センチだったことが判明してこの説も否定されたという。

 また持ち手がヘビの形をしたものはないとも言われたが、これも1956年にヘビの持ち手の滇王之印が出てきて否定されたが、今度は文字の特徴が違うという指摘が出てきたという。だがこれも廣陵王爾という後漢時代の金印が出土し、文字の特徴が良く似ていることで否定されたという。

 すると今度は廣陵王爾が金印と同じ時期に同じ工房で作られた兄弟印ではという説が出て来たが、これについては工藝文化研究所所長の鈴木勉氏は、文字の加工の手法が異なっており、兄弟印である可能性はないという。また彫られている線が太すぎることからこれは宋代以降のものではないかと主張している。

 金印がニセモノだとしたら誰が何のために作ったかだが、これについては亀井南冥が疑われている。甘棠館と修猷館はほぼ同時期に作られており、甘棠館の売り込みに利用したというものである。実際にこの件以降の甘棠館の評判はうなぎ登りになったという。

 

 

真贋論争の決定打とされた考え

 しかし金印は90%以上の純度の金で作られており、江戸時代の小判の純度よりもはるかに高く、この純度の金を日本で一般に入手することは不可能であったという。これに対して漢の時代の金印はすべてこのレベルの純度であり、これは金印が本物であることを証明するものであるとしている。

 さらにつまみの形にも注目されている。このつまみはそもそも駱駝の形に作られていたものをヘビに作り替えたと考えられるという。なぜこのようなことがなされたかであるが、後漢では洛陽から見て北方と東方の国には駱駝の印、南方にはヘビ型の印を与えていたという。だから倭国への印として駱駝型で作っていたのだが、奴国が倭国の一番南方の国と聞いて急遽ヘビに作り替えたのだという。このようにわざわざ作り替えていると言うことも本物であることの根拠となっているという。

 ちなみに金印に纏わる謎としては、本当に発見者が志賀島の甚兵衛であるかということと、亀井南冥がその後に失脚した挙げ句に甘棠館が火事に遭い、南冥の自宅も火事となって亡くなっているという。さらには甚兵衛も火事に遭って失踪したという話もあり、何らかの意図があるのではなどとの勘繰りも出ているという。

 最後には金印は実は奴国に贈られたものではないという説。印面には「漢委奴國王」と彫られており、「委」は「倭」のにんべんを省略したものとされていたのであるが、これは実はそのまま「いと国王」と読むのが正しく、奴国の隣にあった伊都国だったという説が唱えられている。当時の伊都国には複数の王がいたことが記録されているが、奴国には王に関する記述はなく、また伊都国が中国と交流していた証拠は多数あるのに対し、志賀島からは金印以外は何も発見されていないことから、伊都国のものとするのである。

 

 

 以上、金印に纏わる謎。金印のニセモノ説は以前に他の番組でも見たことがあるが、その時も持ち手が作り替えられているということが本物である決め手とされていた記憶がある。最後の伊都国説だが、確かに筋が通っていて説得力があるのであるが、それなら今度は後漢書東夷伝の記述はどうなるんだという問題がある。

 ちなみに金印については私は福岡市博物館と東京国立博物館で展示されていた時に見たことがある。その時の印章としては「思っていたよりも随分小さいな」というものである。ただそれで100グラム超であるのだから、さすがに金は比重が高い。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・国宝になっている漢委奴国王の金印は江戸時代に志賀島で農民の甚兵衛が水路の整備中に発見したものである。これを福岡藩の藩校の甘棠館館長である亀井南冥が後漢書東夷伝に記載されている印であると鑑定した。
・ただこの金印については発見当初から真贋論争が多数ある。ただしそのニセモノ説の多くは今では否定されており、さらに持ち手が駱駝からヘビに作り替えられた跡があることが本物であることの決め手とされている。
・しかし最新の説ではその印面の読み方が違うというものがあり「漢委奴国王」は「漢のいと国王」と読むべきで、それは伊都国を指しているという。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・どうやら後漢時代の金印というのは間違いなさそうですが、奴国か伊都国かという辺りは議論がありそうですね。要は当時の奴国が後漢から金印をもらうほどの国だったかということが鍵のようです。これについてはこれから奴国の力を示すような遺跡でも出てこないとなかなか決着がつかないでしょう。

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