教養ドキュメントファンクラブ

自称「教養番組評論家」、公称「謎のサラリーマン」の鷺がツッコミを混じえつつ教養番組の内容について解説。かつてのニフティでの伝説(?)のHPが10年の雌伏を経て新装開店。

このブログでの取り扱い番組のリストは以下です。

番組リスト

12/9 BSプレミアム ザ・プロファイラー「最凶の皇帝?煬帝」

最凶の暴君?

 今回の主人公は隋の煬帝。秦の始皇帝と共に最凶の暴君として挙げられることが多いと言う人物である。しかし最近になって始皇帝の暴君の部分だけでなく、名君であった部分も取り上げられるようになったのと同様、煬帝についてもその名君たる部分にも光を当てようという流れもあるという。

 煬帝こと楊広は楊堅の次男として生まれている。母の独孤は少数民族出身の優秀な女性だったが、男女関係に超が付くほど潔癖だったために、夫の楊堅に自分以外の他の女性と関係を持たないことを求めたという。実際に楊堅の浮気が発覚した時には、彼女は怒りで相手の女性を殺害したと言う。

 2人の間には1女5男がおり、楊広の上には兄の楊勇がいた。学問を愛し、見た目も麗しかった楊広であるが、彼は平気で嘘をつけるという裏の顔もあったという。両親が彼の元を訪れた時にはボロボロになった楽器を置いて、宴会などにうつつを抜かさず真面目に生活しているように見せかけたのだが、実際の彼は宴会に明け暮れていたという。

 

 

兄を陥れ、父をも排除して皇帝となる

 父の楊堅は娘の夫である北周の皇帝が崩御した時に幼帝の後見人となり、その翌年に政権を奪い取って皇帝となって即位し隋を建国、中国統一に動き出す。20才の楊広は陳掃討の司令官に任命されて、圧倒的な兵力で陳を滅ぼして中国統一を果たす。そして楊広の兄の楊勇が後継者として皇太子となる。

 しかし楊広は皇帝の座を狙って兄の追い落としを図る。母に対して兄が自らを殺害しようとしていると吹き込み、さらには父の側近にも楊勇に謀反の動きがあると吹き込む。結果として楊勇はまったく身に覚えのない罪を着せられて皇太子が剥奪され幽閉されることになる。こうして楊広は32才で皇太子の座に就く。

 その2年後母が死去、すると父の楊堅は側室に入れあげるようになる(重しが取れたというところだろうか)。そして2年後、今度は父が重い病で倒れる。楊広は父の死後に政治をどうするかと側近と話し合う一方で、父の側室を自らのものにしようとする。しかしこのことが父にバレ、激怒した父は皇太子を楊勇に戻そうとする。楊広は部下に命じて父を監禁させ、その直後に父はこの世を去る(間違いなく殺害している)。楊広は父の側室と関係を持つと、幽閉されていた兄を殺害する。そして36才で皇帝煬帝として即位する。

 とまあ即位までの経緯がダークそのものですが、実際には当時の帝位継承ではよくある話なので、煬帝だけが飛び抜けてダークというわけでもないと私は感じます。なお煬帝は父を越えたいという想いが強く、それが父のものであった側室を自らのものにするという行動につながったのではとの分析もあったが、確かにそういう側面もあるかもしれない。もっとも皇帝の側室といえば国でトップの美人がなるものなので、単に綺麗なお姉ちゃんが欲しかったという次元の話もありそうだが。

 

 

大土木工事の実行

 こうして皇帝となった煬帝が行ったのが大土木工事である。当時の黄河流域は洛陽や長安などの都が栄えていたが、人口増加で食料が不足気味であり、そのために食料が豊かな揚子江流域から輸送する必要があったという。そこで煬帝は黄河から淮水を経て揚子江につながる運河を整備、さらに黄河から現在の北京に至る水路を築き、揚子江から杭州へも運河を築いて2500キロが水路でつながれた。これをわずか5年で作り上げたという。そして巨大な船を建造して数千隻の船団で視察を兼ねたプロモーションを行ったという。

 また洛陽周辺に西苑という巨大な皇帝専用の庭園を建設し、様々な植物や動物を集めたという。また苑内には皇帝専用の離宮が16箇所も設けられ、美人を侍らせたという。さらに木には一年中美しい景色が保てるように絹で作った葉が結びつけられていたという。

 このような大土木工事には父の代からの貯えが使われたが、民の負担も非常に大きかった。工事には当時の人口の4割以上に当たるのべ2000万人が駆り出され、女性や老人も動員されたという。

 

 

対外政策、高句麗遠征で失敗する

 さらに対外にも討って出る。万里の長城を修復して北方の騎馬民族である東突厥を服従させることに成功した。さらに自ら赴いて周辺国と朝貢関係を結ぶ。そんな時に訪れたのが日本からの使者だったという。「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という書面に激怒した煬帝であったが、最終的に日本と良好な関係を結んだのは高句麗との関係があったという。当時隋に対しての朝貢を拒絶していたのは高句麗だけだったという。43才の煬帝は高句麗遠征の詔を発する。

 しかしこの遠征軍が高句麗の抵抗で惨敗をする。110万の兵と200万の輸送部隊を派遣したのだが、偽りの降伏の計に嵌められて奇襲を受けて壊滅したという。ある戦いでは川を越えて高句麗に攻め込んだ兵30万の内、帰還したのはわずか2700という惨状だったという。

 大敗の原因には味方の問題もあったという。隋について高句麗遠征に協力していた百済は実は高句麗に通じていて情報を常に流していたという。しかし煬帝は敗北の原因は役人の無能としてこれを糾弾した。

 そして翌年、第2次高句麗遠征が行われる。しかし後方を任されていた大臣の楊玄感が反乱を起こすという予想外の事態が発生する。楊玄感は高句麗遠征で苦しむ民を救うとして立ち上がったという。隋軍は前線から撤退して反乱の鎮圧に向かうこととなり、高句麗遠征は頓挫する。

 しかし高句麗討伐にこだわる煬帝はさらに翌年に第3次遠征を計画、臣下の誰もが賛成しない中で強行する。しかし厭戦気分の高まっている兵たちの逃亡が後を絶たず、軍の態をなさず高句麗と和睦せざるを得なくなる。

 

 

相次ぐ反乱の中、ついには追い詰められる

 さらに国内では圧政に抵抗する反乱が相次いだという。しかし煬帝は自らの行いを改めず、「人間が多すぎるから集まって盗賊になるんだ」と反抗する者は片っ端から捕らえて処刑するように命じたという。しかしこの強攻策がさらに反発を生んで反乱は激化する。この時煬帝46才。

 国内が収拾が付かない状態になりだした頃、東突厥を訪問した煬帝は帰り道に突厥兵に囲まれて命からがら逃げ帰る羽目になる。東突厥は隋の配下となっていたのだが、隋の威光が地に落ちたのだった。洛陽に逃げ帰った煬帝は江都に避難、ここで美女を侍らせて遊興にふける日々を送る(完全に現実逃避モードに陥っている)。だがその1年後、これまでと比較にならない大規模な反乱が勃発する。隋軍の司令官がクーデターを起こして3万の兵を率いて長安に突入した。この時の中心が後に唐王朝を開く李淵であった。軍勢は膨れあがって20万の兵が長安を囲んだという。知らせを聞いた煬帝は鏡を見ながら「わしのこの首、誰が斬るかな」と呟いたという。

 翌年、煬帝の配下が陛下が毒酒を作って部下を皆殺しにするつもりだとのデマを流し、護衛兵たちが殺されるものかと決起して煬帝に迫る。煬帝は「首謀者は誰だ」と尋ねたが、配下は「みんなが恨んでいて首謀者は一人ではない」と答えたという。煬帝は天主として毒酒を煽って死にたいと言ったが、願いは聞き届けられず絹の布で首を絞められて死んだという。皇帝に即位してから14年後のことだった。煬帝の死後、唐の時代となる。

 1400年後、煬帝の豪華な墓が見つかって話題となったという。それを築いたのは唐の二大皇帝である太宗であり、どうやら唐帝国を治めていくにあたってその方針が煬帝のものと近くなり、煬帝を再評価する機運が高まったのではとしている。実際に煬帝が築いた運河は今でも物流に使用されているという。

 

 

 まあ新王朝が成立した時には、先の王朝の最後の皇帝はボロクソに書かれるの(殷の紂王以来の伝統である)で煬帝の悪評の半分以上は割り引いて考える必要はあろう。ただ大土木事業や対外遠征に明け暮れた皇帝は、やはり民に過重な負担を与えるので評価は厳しくなるものである。運河の建設まで辺りはまだ国内を豊かにするという側面もあったのでギリなんとか認めることが出来ても、自身のメンツが一番だった高句麗遠征については擁護のしようもないというところだ。せいぜい周辺国と良好な関係を築いて侵略をふせぐまでにとどめておけば良かったものを、自ら侵略に出てしまったのはやり過ぎだった。まあ煬帝自身は隋を中心とした東アジア秩序を考えていたので、それに反する高句麗を許すことが出来なかったのは分かるが。まあ今でも、アメリカを中心とした国際秩序に従わない国には軍事制裁をしようとするのと同じようなものである。

 煬帝は比較的年齢が高い状態で皇位を継いだので父を越えようと焦ったのではとの声もあったが、36才での帝位継承は確かに若くはないが高齢というほどでもなかったのだが。ただ確かに「偉大な父を越えたい」という想いは強くあったように感じる。その結果、余りに急ぎすぎた挙げ句にわずか14年で大破綻である。この焦りっぷりは高すぎる自己評価故だったようにも感じられるが、そのような者は往々にしてその裏側で強烈なコンプレックスを抱えていたりするものである。秦の始皇帝の場合は「キングダム」でも描かれているように、国外で人質の立場だったというコンプレックスがあるのだが、煬帝についてはどのようなことがあったのか。その辺りの煬帝の人間としての心理には少々興味があるところではある。

 

 

忙しい方のための今回の要点

・隋の煬帝は皇太子であった兄を陰謀で蹴落とし、さらに最後には皇帝であった父をも排除して36才で隋の二代目皇帝として即位している。
・煬帝は黄河から揚子江までを結ぶ運河を5年で開通させ、中国国内の物流を活性化すると共に、皇帝用の大庭園を建造するなど大土木工事に明け暮れ、このことは民に過重な負担を課すことにもつながった。
・さらに対外的にも東突厥を配下に治めるなど権威を示したが、従わない高句麗に対して遠征を行った結果大敗、それが転機となる。
・煬帝はあくまで高句麗遠征に固執するが、度重なる負担に耐えかねた民が反発すると共に側近の反乱まで発生し、ついには追い詰められていく。
・最後は現実逃避のような遊興にふけった煬帝であるが、ついには護衛兵たちまでもが反乱し、死を迫られることになってしまう。


忙しくない方のためのどうでもよい点

・最初はまだ良かったが段々とおかしなことになっていくという点で、秦の始皇帝とも被るところはあるが、スケールとしては始皇帝よりは劣るかなという印象もあります。

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